◇真理を掴まない◇
悟りの道を進む過程で、真理に関する体験や理解を得られる方がおられると思います。
典型的な例としては、すべてはひとつ、根源、真我、実相と仮相などがあります。
そのような真理に触れられた方の多くは、これこそ真実であると信じ込み、握りしめてしまいます。
そして、この現実の世界は仮の世界であり、その奥に真の世界があるのだ等と仰います。
例えば、私たちはいま、個という分離を経験しているが、それは仮の姿であり、本当はひとつであり、みな最後はそこに帰っていくんだなどと仰います。
不意に訪れた体験等により、真理を信じてしまうお気持ちは分かります(私も真理を掴みかけていた時期がありました)。
しかし、敢えて申し上げたいのです。
そのように盲目的に真理を信じ続けるのではなく、一旦立ち止まって、あなたが仰るその真理について、一度じっくりと吟味して頂きたいのです。
この現実世界のことは、仮初めの世界だ等として見切られるのに、真理についてはどうしてそうも簡単に、それが絶対であり真実であると信じ込んでしまわれるのでしょうか。
その真理について、どうしてそれを絶対だと思われるのでしょうか。
本当にそれは絶対的なものなのでしょうか?
もっと言えば、絶対と言えるものなどあるのでしょうか?
その真理が絶対だと考えているのは誰ですか?
何か妙だと思われませんか?
ご自分の心の中に、何かあやふや部分がないか、誤魔化しているところがないか、徹底的に確認してみて頂きたいと思います。
とは言っても、真理は悪いものではありません。
真理は悟りの道を歩む際、いい導き手になります。
ただ最後はそれも手放すときが来る、そういうことなのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
悟りの道を進む過程で、真理に関する体験や理解を得られる方がおられると思います。
典型的な例としては、すべてはひとつ、根源、真我、実相と仮相などがあります。
そのような真理に触れられた方の多くは、これこそ真実であると信じ込み、握りしめてしまいます。
そして、この現実の世界は仮の世界であり、その奥に真の世界があるのだ等と仰います。
例えば、私たちはいま、個という分離を経験しているが、それは仮の姿であり、本当はひとつであり、みな最後はそこに帰っていくんだなどと仰います。
不意に訪れた体験等により、真理を信じてしまうお気持ちは分かります(私も真理を掴みかけていた時期がありました)。
しかし、敢えて申し上げたいのです。
そのように盲目的に真理を信じ続けるのではなく、一旦立ち止まって、あなたが仰るその真理について、一度じっくりと吟味して頂きたいのです。
この現実世界のことは、仮初めの世界だ等として見切られるのに、真理についてはどうしてそうも簡単に、それが絶対であり真実であると信じ込んでしまわれるのでしょうか。
その真理について、どうしてそれを絶対だと思われるのでしょうか。
本当にそれは絶対的なものなのでしょうか?
もっと言えば、絶対と言えるものなどあるのでしょうか?
その真理が絶対だと考えているのは誰ですか?
何か妙だと思われませんか?
ご自分の心の中に、何かあやふや部分がないか、誤魔化しているところがないか、徹底的に確認してみて頂きたいと思います。
とは言っても、真理は悪いものではありません。
真理は悟りの道を歩む際、いい導き手になります。
ただ最後はそれも手放すときが来る、そういうことなのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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結果としてそうなると言っているだけの人もいるでしょう。
ただそれに固執してしまっている人が多いのは事実ですね。
固執してしまいその想念が膨らめば全体につながることはありません。
同じように真理をつかまないということにも固執してはいけません。
考えを手放すのは難しいです。
今自分が存在しているということは頭の中はまだまだ想念だらけということです。
それをなくそうと思えばなくそうという想念がふくらみ
ふくらみます。
だからサマタ瞑想のような一点に集中する方法がとられるのです。
一つの何かに心をとどめることで他の想念をなくしていく。
その一つの対象は心をとどめるだけで膨らまないようにし
最終的にはその一つの想念をなくす。
もしくは今見ている移り変わる何かに集中する方法をとる。
こちらはヴィパッサナー瞑想ですね。
最終的にはこういう修行になってしまいます。
考えをなくす。
これが大事なのは本当に同意します。
個人的には自分の思考の根っこまで知ることでそれ以上考えが膨らまないようになることはあってもたまっているものをなくすのは難しいと考えています。
なくすにはどうしても瞑想なようなことが必要になってくると。
ただ自分を心底知ることでそれができるのならそれにこしたことはありません。
だからこちらをこれからも興味深く読ませていただいています。
こういった貴重な情報を発信して頂けることに感謝いたします。
私のブログを真剣に読んで頂いているようで、恐縮いたします。
そうなんです、最終的には瞑想的な手法がどうしても必要になるのだろうと私も思っています。
もっと言えば、自分がどういう考えに囚われていて、その囚われによりどのように迷っているのかを気づくためには、「私」、あるいは「私の意識の動き」に意識を集中する必要がどうしてもあるのです。
ただ一点、書いて頂いたコメント中に気になる部分ありますので、指摘させてください(いつものお節介心がうずきまして、(^_^;))。
気になる部分は、この部分です。
「悟ると自動的に全体につながって自分がなくなってしまいます。」
さはらさんは、おそらくその感覚をご存知なのでしょうね。
でも、その「全体」という概念が怪しいのです。
「全体」とは何なのか、徹底的に追求して頂きたいと思うのです。
また、「自分がなくなってしまう」と仰いますが、そう簡単に自分が無くなったりしません。
特に、全体と繋がって自分が無くなることは決してありません。
そこには、全体と繋がっていることや、自分が無くなっていることをちゃんと認識している自分があるはずです。
「私」を見失わないよう、しっかりと捉えていて頂きたいと思います。
もし「私」を見失っておられるのなら、「私」に意識を向けられて「私」を捉えて頂きたいと思います。
せっかく好意的なコメントを頂いているのに、また偉そうなことを言いまして、すみません。
これは私の不治の病です。(^_^;)
自分がなくなるということに関しては誤解させてしまう書き方でした。
自分が消えるというのは最終的にということです。
もちろんその境地には行っていません。
ただ考えをなくしていくと自分がなくなっていく感じがするだけで自分は当然あります。
なくなった感覚ではなくなくなっていくという感覚です。
自分がほんの少し減ったなというような感じです。
その時全体に溶け込むような感覚があるのです。
少しです。
量の問題ですね。
なくした分だけ気持ちよい解放感を感じます。
全部なくなったところが解脱だと思っています。
ただ結果的にそうなるということでそこを目指しているわけではありません。
ただ考えをなくしていくだけです。
それだけでいいんです。
ご指摘ありがとうございました。
これも違えばどんどんご指摘下さい笑
「悟ると自動的に全体につながって自分がなくなってしまいます。」
とは、そういう意味だったのですね。
すみませんが、さらに気になる点がありますので、さらに指摘させていただきますね。(^_^;)
「考えを無くす」と仰っているのですが、そこが少し違うのです。
「考えを無くす」ことはターゲットとはならないのです。
あくまでもターゲットは、自我が握りしめている考え(囚われ)であり、それに気づくことなのです。
囚われが、考えの連鎖の種になっているんです。
囚われに気づき、それを手放すことで、結果的に、起こってくる考えが減るのです。
そして、最終的には一切の考えが起きてこなくなると、解脱ということになります。
これは自分とは根本的な違いがありそうです。
その線もこれからは念頭に入れていきたいと思います。
ありがとうございました。
さはらさんは、「考えを無くす」という考えに囚われておられます。
ご自分に意識を向けられ、そこに囚われているご自身に気づいていただきたいと思います。
悟りの道は最終的に、自分に意識を向けるというひとつの道に収斂していきます。
間違いありません。
あなたは思い込むところがありますね。
なぜそう思い込んでしまうのか内面に意識を向けて頂きたいと思います。
それと言いたくはなかったのですがあなたは解脱の悟りを得たわけではありません。
今だに苦しみを感じている以上考えはありますし囚われております。
大きな幸福感を伴ってない以上何も得てないも同然です。
この文章を読んだ時の感情を深く探っていくとよいと思います。
まだまだ何も終わってないということです。
自分が得たものが絶対だと思ってしまうのは悟りを得る可能性を縮めてしまいます。
だから私はあなたの考え方もそのまま受け入れると言いました。
自分のやり方で毎日毎秒毎秒がエクスタシーに満ちているにも関わらずです。
他人を正す前にご自身を見つめ直して下さい。
あなた自身が囚われているということに気づいて下さい。
悟りの道で自分の考えが正しく、それが絶対だと思ってしまうのはほとんどの人が通る道です。
それでも私は違う、本当に正しいのだから問題ない、みなそのように思います。
囚われです。
一時はこれ以上のやり取りは無駄だと思い、流そうとしたのですが、気が変わりました。
乗りかかった舟ですので、今回はさらに指摘を続けさせていただきます。
考えを握りしめておられる方は、言葉を発すれば発するほど、囚われた考えが表面に出て来ます。
さはらさんもまさにそうなのです。
>今だに苦しみを感じている以上考えはありますし囚われております。
苦しみと囚われを短絡的に結びつけておられるようです。
これは思い込みです。
>大きな幸福感を伴ってない以上何も得てないも同然です。
これについても、悟りと幸福感に関する囚われが見て取れます。
>悟りの道で自分の考えが正しく、それが絶対だと思ってしまうのはほとんどの人が通る道です。
これは誤解です。
私は絶対のものなど何も無いと言っているのです。
ご返答をお待ちしております。
終わりましょう。