
逃げすぎたことのやましさが、
胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる
――野坂昭如(作家)
昭和二十年六月五日、神戸大空襲で野坂は家と養父母を失った。まだ十四歳の少年だった彼は、このとき自分が「逃げすぎた」とあとで告白した。逃げたうしろめたさが、のちまでずっと尾を引いていた。
そのひとつは、まだ一歳六カ月の妹を餓死させたことだった。
家と両親を失った彼は、阪急夙川駅から六甲山へ約十五分、満池谷にある遠縁の家に身を寄せた。ニテコ池と呼ばれた貯水池の下だった。焼け跡から食料などを大八車で運ぶとき、小川には蛍が飛び交っていた。
幼い妹の世話は、父や母のようにはできない。泣き出すと夜中でもおぶって表を歩き、ときに汗としらみでまだらになった肌を海水浴でいやした。夜には蚊帳のなかに蛍を放ち、妹の気を紛らわせてやった。のちの小説『火垂るの墓』の光景だった。
***
だが野坂は、この文章にはずいぶん嘘がまじっているという。
石を並べたカマドでおかゆを炊く。おかゆをよそうとき、米粒を自分の茶碗に取り、妹には重湯の部分だけやる。それも匙で彼女の口に運ぶとき、熱を冷ましながらつい自分の口に入れてしまう。菜園から盗んだトマトを妹にと思いながら、つい自分の口におさめてしまう。
ほかのことはなんでもした。おしめの洗濯も気にならない。ただ食欲のまえにはすべての愛もやさしさも色を失った。せめてあの小説に出てくる兄のように、妹をかわいがってあげればよかったとあとになって思う。無残な骨と皮の死にざまがくやまれる。
「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。育ち盛りの食欲に負け、美しい話にした逃避が、いつもやましさとして湧き上がってくる。
胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる
――野坂昭如(作家)
昭和二十年六月五日、神戸大空襲で野坂は家と養父母を失った。まだ十四歳の少年だった彼は、このとき自分が「逃げすぎた」とあとで告白した。逃げたうしろめたさが、のちまでずっと尾を引いていた。
そのひとつは、まだ一歳六カ月の妹を餓死させたことだった。
家と両親を失った彼は、阪急夙川駅から六甲山へ約十五分、満池谷にある遠縁の家に身を寄せた。ニテコ池と呼ばれた貯水池の下だった。焼け跡から食料などを大八車で運ぶとき、小川には蛍が飛び交っていた。
幼い妹の世話は、父や母のようにはできない。泣き出すと夜中でもおぶって表を歩き、ときに汗としらみでまだらになった肌を海水浴でいやした。夜には蚊帳のなかに蛍を放ち、妹の気を紛らわせてやった。のちの小説『火垂るの墓』の光景だった。
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だが野坂は、この文章にはずいぶん嘘がまじっているという。
石を並べたカマドでおかゆを炊く。おかゆをよそうとき、米粒を自分の茶碗に取り、妹には重湯の部分だけやる。それも匙で彼女の口に運ぶとき、熱を冷ましながらつい自分の口に入れてしまう。菜園から盗んだトマトを妹にと思いながら、つい自分の口におさめてしまう。
ほかのことはなんでもした。おしめの洗濯も気にならない。ただ食欲のまえにはすべての愛もやさしさも色を失った。せめてあの小説に出てくる兄のように、妹をかわいがってあげればよかったとあとになって思う。無残な骨と皮の死にざまがくやまれる。
「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。育ち盛りの食欲に負け、美しい話にした逃避が、いつもやましさとして湧き上がってくる。
一言も出ません...。
音楽で言うとすれば、ビリーホリデイの「奇妙な果実」ってとこでしょうか...しかし、似たような悲惨な事は今も世界中で起きていると言う事を、改めて想い起こす切っ掛けになりました。