負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

美しい『火垂るの墓』は野坂昭如の重荷になった

2005年06月01日 | 詞花日暦
逃げすぎたことのやましさが、
胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる
――野坂昭如(作家)

 昭和二十年六月五日、神戸大空襲で野坂は家と養父母を失った。まだ十四歳の少年だった彼は、このとき自分が「逃げすぎた」とあとで告白した。逃げたうしろめたさが、のちまでずっと尾を引いていた。
 そのひとつは、まだ一歳六カ月の妹を餓死させたことだった。
 家と両親を失った彼は、阪急夙川駅から六甲山へ約十五分、満池谷にある遠縁の家に身を寄せた。ニテコ池と呼ばれた貯水池の下だった。焼け跡から食料などを大八車で運ぶとき、小川には蛍が飛び交っていた。
 幼い妹の世話は、父や母のようにはできない。泣き出すと夜中でもおぶって表を歩き、ときに汗としらみでまだらになった肌を海水浴でいやした。夜には蚊帳のなかに蛍を放ち、妹の気を紛らわせてやった。のちの小説『火垂るの墓』の光景だった。
 ***
 だが野坂は、この文章にはずいぶん嘘がまじっているという。
 石を並べたカマドでおかゆを炊く。おかゆをよそうとき、米粒を自分の茶碗に取り、妹には重湯の部分だけやる。それも匙で彼女の口に運ぶとき、熱を冷ましながらつい自分の口に入れてしまう。菜園から盗んだトマトを妹にと思いながら、つい自分の口におさめてしまう。
 ほかのことはなんでもした。おしめの洗濯も気にならない。ただ食欲のまえにはすべての愛もやさしさも色を失った。せめてあの小説に出てくる兄のように、妹をかわいがってあげればよかったとあとになって思う。無残な骨と皮の死にざまがくやまれる。
「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。育ち盛りの食欲に負け、美しい話にした逃避が、いつもやましさとして湧き上がってくる。

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4 コメント

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Heavyですね (彩木 翔)
2005-06-03 01:34:17
実にHeavyな話しです。

一言も出ません...。

音楽で言うとすれば、ビリーホリデイの「奇妙な果実」ってとこでしょうか...しかし、似たような悲惨な事は今も世界中で起きていると言う事を、改めて想い起こす切っ掛けになりました。
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大衆の夢 (菅原)
2005-06-03 09:18:55
野坂を「焼け跡派」というレッテルで納得し、小説やアニメの「火垂るの墓」の美しさや悲しさに涙する鑑賞者(感傷者)の存在は、フィクションの何たるかを考えさせます。寄ってたかって美しいく悲しい物語に仕立てて満足するだけでいいのです。その後の野坂の苦しい文学的営為など見向きもしません。「呪われた詩人」として、野坂は偽物のフィクション作家を超えた存在です。
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Unknown (glimi)
2005-06-07 07:45:00
私の体験をTBさせてください。
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TBありがとうございます (菅原)
2005-06-07 09:25:00
私は戦争自体を身近に体験できませんでしたが、関東に住んで東京大空襲の様子にひどく打ちのめされました。高層ビルの乱立する最近の東京にもその幻がいつも透かし彫りになって見えてきます。お書きのような体験談、身の引き締まる感じで拝読しました。
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