負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

「愚」に徹しきれない私は無私の「美」の宣教者でありたい

2005年06月05日 | 詞花日暦
本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ
「分け入っても分け入っても青い山」
――種田山頭火(俳人)

 山頭火がまだ十代のはじめのころだった。彼の出生地、山口県防府市から瀬戸内海を隔てた至近の松山に生れた正岡子規は、旧来の連句は文学ではない、発句(俳句)こそ文学であると説き、写生による俳句革新を提唱した。
 二十代の山頭火は、早稲田大学を退学し、生家の酒造業に精を出しながら、ときおり句作を行った。三十代のはじめには、荻原井泉水が主催する句誌に投稿して入選した。三十二歳のとき、防府市に井泉水を招いて句会を開いた。この年、井泉水は俳句の季語廃止を宣言している。
 四十代と五十代の山頭火は、ひたすら放浪の旅にあった。禅門に入って、出家得度した直後だから、袈裟に身を包み、一鉢一笠の行乞放浪である。このとき、有名な「分け入っても分け入っても青い山」を発表、本格的に俳句へ復帰する。出身地の山陽道はもちろん、近くの九州一円、さらに関西、関東、東北へ足跡を残している。
 ***
 五十代のはじめに「私は労れた」と書いた。袈裟の影に隠れ、嘘の経文を読み、托鉢に技巧を弄する行乞に耐え切れなくなっていた。
 一方で日本は中国に侵略し、戦争の時代がはじまっていた。「征服の時代である、闘争の時代である。……人と人とが血みどろになって掴み合うている」。無能無力、時代錯誤的性情の自分は、ラッパを吹くほどの意力もない。
 山頭火はひたすら「私」にこもり、「時代錯誤的生活」に沈潜する。「空」の世界、「遊化」の寂光土に精進するほかないと結論付ける。「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ」と自らにいいきかせる。
 句作と放浪生活は、好きなものを好きといい、きらいなものをきらいという幸福を貫いた。五十八歳、心臓麻痺でひっそりと死んだ。「端的に死にたい」という希望通りだった。

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2 コメント

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愚と言えば.. (彩木 翔)
2005-06-10 00:19:21
丁度その頃ではなかったか?....と思うのが『山下清画伯』であります。

一見愚か者のようですが、満州事変の勃発と言う時に、日本中を自由気ままに歩き、好きな絵を描きまくった自由な生き様は見上げた所業ではありませんか、....実はとんでもない知能犯だったのかも知れない....と疑いたくもなります。.....例えば、線路に沿って旅をする事は馬鹿でも思い付くとしても、彼は三角定規を巧みに使って、縮尺された距離を算出し、旅の計画を立てていたのですから.....(^^)
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文句なしに (菅原)
2005-06-10 10:58:01
山下清の作品、好きです。山頭火よりやや遅い時代ですね。私は東海道の概略を尋ねていますが、北斎などの浮世絵とヤジキタ道中記と山下清の東海道とを見ながら、かつての旅を追体験しました。三角定規の話は知りませんが・・・。国民的憧れの寅さん(私はこの映画を2~3作観てやめました)なんかより、はるかにすばらしいです。
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