イケフェス2023開催しました(11/4)
当アトリエ改修の 立体最小限住宅No.32 も4年ぶりに参加しました
計24名もの方々に足を運んで頂き本当にありがとうございました
イケフェス2023開催しました(11/4)
当アトリエ改修の 立体最小限住宅No.32 も4年ぶりに参加しました
計24名もの方々に足を運んで頂き本当にありがとうございました
*画像はイケフェス大阪HPより
今回第2期として上写真の47件(第1期50件)が新たに選定され、
アトリエが携わった「最小限住宅NO32」と「寺西長屋」が選ばれました
アトリエの作品詳細ページはこちら(works since99へ)
大阪市の大阪セレクション詳細ページはこちら
*画像はイケフェス大阪HPより
当アトリエ設計の「ARCHITEKTON 」も
昨年よりイケフェス大阪に参加しており、
今年もオープンハウスを開催する予定です
10月28・29日予定
「最小限住宅NO32」と「寺西長屋」はイケフェス大阪HPで別途ご確認ください
写真は、2022年のARCHITEKTON のオープンハウス様子
アトリエでリフォーム修繕した 池辺陽最小限住宅NO32再生 が
今年も「生きた建築ミュージアムフェスティバル2021」に参加します
昨年同様インターネット上で写真や動画等を公開する「バーチャルな建物公開」
を中心に実施する予定となっています
開催日:10月30・31日(土・日)
ホームページはこちらです OPEN HOUSE OSAKA | 生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2021 | イケフェス大阪2021
これです
池邉陽設計の最小限住宅No.32
1955年に竣工しています
これをSUGAATLIERにて保存改修させていただきました
こうご期待ください
この家の外壁として、焼き杉が縦貼されているが、中は同じく杉板が中の柱・梁に斜貼りされていた。右の波鉄板は外壁が老朽化してからのカバーである。内側はMDFボードであるが、この斜貼りはたぶん耐震的な配慮から決められたのだと推測されるが、あと仮に水が入っても下に流れやすいことも考えられている。焼き杉下に、黒いルーフィングが少し見えているが、これらでしっかりと守られていたことは、写真の木の色からも分かってもらえると思う。このシンプルさと合理性は見ていて気持ちがいい。
自然に向き合う建築の外壁として、このレベルまで考えられているか、今の建築に問われている問題は小さくないと感じざるを得ない
池辺陽が大阪市東住吉区に1955年に竣工させた 最小限住宅No32がイケフェスにて紹介されます 10月26日、27日の両日10時と13時半の2回ですが、予約制です。詳しくはイケフェスHP確認お願いします
上記写真は河合止揚氏の撮影ですが、竣工時当時の湧き出るエネルギーみたいなものを感じる素晴らしい写真だと思います
当アトリエで監理した修繕工事の跡が残る、天井部写真です
No.32 再生に至るまでの工事記録をご紹介します
・解体
トタンの下に現れた当初の焼杉の外壁
水下側の斜貼の杉板は漏水によって傷んでいました
・屋根
けらばの唐草を外す様子
撤去した当初のアルミ板金
ハゼの折り重なっていた所は、60年たった今でも光沢が残っていました
痛みのあった水下側の杉板を修繕
・内部
色の濃いところが当初の間仕切壁の下地
MDF仕上げ
当初のままのMDFの方が少し赤茶色
・家具・照明
ミニキッチン
屋外ベンチ椅子
照明
蛍光灯からアトリエデザインのシーリングに変更
最後に、お庭で見つけたアゲハチョウ
柑橘系の植物しか食べないはずアゲハの幼虫が南外壁そばにいました
10月28日、No.32にて10月例会を開催致しました
クライアント様より設計当時のお話を伺う様子
ほぼ当時の姿に再生したNo.32を見学する様子
池辺陽の本に載っている池辺の写真が楽しい
の当時の建築家の写真というのは、
いわゆるポートレイト写真で、普通それなりの良さげなポーズをとっていたりする
しかし池辺の場合、自宅でくつろいだ、家族も含めての写真が載っている
そして、もう一つの特徴は、後年の写真では特にそうだが
家の内外がうっそうとまではいかないが、緑が入ってくる
家内部にゴムの木等が繁茂したりしている
一説によれば、植木鉢ではなく地植えをしていたという話がある
写真ではその詳細は分からないが、木の茂り具合でいうと、地植えの感じがする
ただこれらに終わらず、まだすごい特徴がある
池辺は植物に限らず動物も好きだったようで、写真に
鳥、フクロウ、猫?等がいるのだ
それもフクロウまでが、ケージでなく、部屋飼い状態になっているのだ
近年ペットでの室内飼いは珍しくはないが、その当時、かつフクロウを室内で飼っているのは、
全く特殊と言ってよいのだろう。
フクロウは生肉しか食べないし、人に慣れたりする動物ではない
なぜ池辺は、例の少ないこのようなことをしていたのだろう
彼に特殊な友人がいて、その感化を受けたとは信じにくい
池辺というと工業化、モデュール等に結びつきがちだが、
実際は、もっとスケールの大きな人で、各種のことに興味があったのだろうと思う
池辺が、省エネルギーについての文章で、その当時批判していたのだが、
材料やエネルギーを使って何が成し遂げられるかがまず大事で、
効率のように、枠を決めての論には、発展性がないと言ったことを書いていた
池辺はこのように何かににおいて、チャレンジすること、新しい達成を求めていた
寒さや暑さ、多少の不便さ、動植物との共同生活等の困難を差し置いても
今とは異なる新しい未来、進歩史観のようなものが強くあったのだと考える
むろん敗戦からの新生が、彼の底辺にあったと想像できるし、
釜山生まれの彼には、大陸の原風景があったのかもしれない
一見クールそうにも見えるのだが、情念が渦巻いていたようにも思える
池辺陽の自邸写真ですが、これは初期にRC住宅(1954年)で建てたものです
これの下が下記写真です
ほゞ左右対称で、2軒の共同住宅になっています
このRC住宅の池辺邸部分の南側全面をおおうように、
鉄骨+CB造で増築(1968年)したもので、
内部は下のような感じになっていた
フクロウをこの家の中で、放し飼いに近い形で飼っていたということだ
その他の写真をも見ても、庭のみならず室内にも多くの植物を植え、
犬や鳥も家族として一緒に生活していたのがわかる
下記の写真が、池辺の名を有名にした立体最小限住宅No.3(1950年)だが、
池辺個人の方向性を知るのに、このNo.3 から、
私の目からは仮設的でいてユートピア的な彼の自邸への変遷は
単に自邸だからその場その場で考えましたというような話ではなく、
とても彼の考えを知る深い意味を持っていると思う