けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2012年02月08日 | Weblog

ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務

The Fatima Crusader Issue 74, Summer 2003より

ニコラス・グルーナー神父 S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

 最近、多くの平信徒、司祭、ならびに司教、枢機卿から、ファチマの聖母を信じ、聖母に従う義務に関してある非公式の調査が行われました。驚くことではなかったのですが、その問題に関する自称専門家である人々の中に、危険な考え方があります。その問題は数百万、そしてそれ以上の霊魂の永遠の救いにとって非常に重要なことであり、それは世界平和のために絶対不可欠ですから、私たちはここに、2001年のローマでの司教会議においてグルーナー神父が行った話の編集版を提供します。
 私たちはファチマの聖母のメッセージを信じそれに従う義務についてこれから話すことにしましょう。ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務、また私たち自身の個人的義務に関してはさまざまの神学的立場があります。

 第一に、ファチマは「私的な啓示」である、そしてそれゆえにわれわれはファチマを信じる必要はないし、またわれわれは、あるいは教皇でさえ、それに従う義務はないと言う人々がいます。それゆえ、これらの人々はこう言います、あなたは、もし好むならば、それを信じることができる、そしてもし好むならば、それが促進する敬虔な信心を果たすことができる、しかし、あなたは誰かに、それを信じ、それに従わなければならないと言うことはできない、と。

聖母を愛していると主張し、そのような事柄を言う司祭たちがいますし、ファチマ組織があります。彼らの立場は、広く支持されていますけれども、誤りであり、危険です。そしてこの立場を支持する多くの人々を最終的には地獄へまっすぐ導くことがあり得るでしょう。

 それがなぜ誤っており、危険で悪いことなのでしょうか?私たちは、上に要約した立場にいずれも反対する他の二つの神学的立場を検討することによって見ることにしましょう。

第I部

ファチマは聖書の預言の中にある
 ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務を支持する最初の立場は次の通りです:ファチマのメッセージは預言によって聖書の中に含まれている。そしてそれがそこに含まれているならば、それは信仰の遺産の一部である。そしてそれが信仰の遺産の一部であるならば、そのとき、われわれは神的なそしてカトリックの信仰でもってそれを信じなければならない。

 換言すれば、この立場に従えば、ファチマ・メッセージは聖書において聖霊によって保証された公的啓示の一部です。この神学的立場は明らかに直接的に「ファチマは私的啓示である」と言う人々に対立します。

 多くの人々にとって、司祭や神学者のような敬虔な人々にとってさえ、この立場(それを「ファチマは聖書の中にある」という立場と呼ぶことにしましょう)は擁護できないもの、過激で、そして余りにも急進的過ぎます。私はこの立場を確実な立場とは主張しません。しかし、それは理解するために非常に有益であることが分かるでしょう:第一に、それは真であり得るでしょうし、またいつか教導職の教えとなってさえいるかもしれません。そして、第二に、以下に述べる第二の立場--それもまた信じ、従う私たちの義務を主張します--をよりよく理解する助けとなります。

反対する神学者沈黙させられる
 ところで、「ファチマは聖書の中にある」という立場に関して、私が一人の神学教授とした神学的議論によって説明させてください。その議論はずっと以前にローマのマリア神学校Marianumのクラスで公に行われたものです。神学教授は、われわれはファチマを信じる必要はまったくないと私に提案しました。それで私は彼に言いました。「それが聖書の預言の実現でないということをあなたはどのようにして知るのですか?あなたはそれが信仰の一部でないということを断言的、絶対的に主張することができますか?」そして彼は、私の立場に完全に反対であったけれども、それを論駁することができませんでした。彼は答を持っていませんでしたし、またそのことを認めました。

 その教授は、反対していたのだけれども、なぜ認めたのでしょうか?簡単です。議論は非常に単純で直接的で論理的だからです。その力を理解するためには私たちはいくつかの基本的なことをよく調べる必要があります。

 私たちがカトリック信仰告白によって信仰しなければならないということはどういうことでしょうか?信仰のということはどういうことでしょうか?聖トマスは、それは神が啓示なさったすべてであると私たちに告げています。カトリック信仰のということはどういうことでしょうか?聖書の中にあるすべてです。カトリックの伝統の中にあるすべてです。それがカトリック信仰です。

 聖トマスは『神学大全』の中で、もし聖書がダビデは70人の息子を持っていたとあなたに告げていることをあなたが知っているならば、そのときあなたは、神的なカトリック信仰によってそれを信じなければならないと指摘しています。ですから、神学者は平均的な平信徒よりは信仰についてより高い基準を持っていると主張されるのです。

 救われるためには、すべての人は使徒信経の12の項目を信じなければならないと聖トマスは言います。しかし、神学者はそれよりももっと多くのことを信じなければなりません。なぜなら、信仰の遺産の中には決定され、教えられ、受け伝えられてきたもっと多くのことがあるからです。注1

 聖トマスは、もしあなたが聖書の中でダビデがイェッセの息子であると言われているということを知っているならば、それを神的なカトリック信仰でもって信じなければならない、なぜなら、神がそれを啓示なさったからだ、と言っています。神学的な信仰の徳の本質は、彼の意見が神の御意見に一致するから信じるのではなくて、神が啓示なさったことを受け入れるから信じるのだということです。注2

 私たちは、まったき聖であられる神が嘘をつくことがお出来にならないということを知っています。私たちは、全知であられる神が誤ることはあり得ないということを知っています。もし神が何事かを私たちに告げられるならば、そのときわたしたちはそれを信じなければなりません。さもなければ、私たちは神を冒涜するのです。なぜなら、その場合には、私たちが神を嘘つきと呼んでいるか、あるいはすべての真理を知られる神の能力を否定しているかのどちらかだからです。信じない人は神を明白に冒涜しようと意図しないのかもしれません。しかし、彼は不信というまさにその行為によって神を冒涜しているのです。

信仰を否定する大罪
 それがカトリックの信仰の一つの箇条を否定する大罪である理由です。教会は、聖書そのものがそうしてきているように、数世紀にわたって教えてきました。聖パウロはガラテヤ人への手紙1:8においてこう言っています。「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げしらせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(それの意味するところは、彼は切り離されるがよい、彼は呪われるがよい、彼は永遠の地獄に行くがよいということです。)

 教会は、霊魂に対するその憐れみと愛において、救われるためには、ある事柄は信じられねばならないということを明らかにしてきました。それが、教会が荘厳な決定をくだす理由です。荘厳な決定に反することを言う人あるいは信じる人は誰であれ、破門にされるがよい。切り離されるがよい。

 ところで、第三の秘密によれば、私たちの時代にはカトリック教会における多くの人々が教義の感覚を失っています。(真理は変わらない:もし私たちが教義を失うならば、信仰を失うのであるを参照。)しかし、単に他の多くの人々が教義の感覚を失ってしまったという理由だけでは、誰も信仰の諸真理を信じることから免除されません。教義的な信仰は救いのために要求されます。必ずしも誰もが教導職の教義上の教えを知っているわけではありません。しかし、すべての人は、教会が神的なカトリック信仰に属するものであると荘厳に決定したと知っている事柄を明確に信じなければなりません。

  たしかに、神学者は平信徒よりも多くそれらを知り、それらを信じる義務があります。

 しかし、平信徒でさえ、ひとたびある教義上の教えが彼の注意を呼び起こしたならば、神学者と同じようにはっきりと信じる同じ荘厳な義務を持っています。聖アウグスティヌスは私たちに、誰もが同じ理解の賜物を持っているのではない、そして知力がそれほどないために、才能がそれほど与えられていない人々は、その責任ももっと軽いと告げています。しかし、基本的な義務は誰にとっても同じです。すなわち、神が教え給うことを私たちは信じなければならないのです。神が教え給うことを信じるのを拒否することはあなたを永遠の地獄へ断罪するに十分です。

 そしてそれゆえ、この立場の主要な論拠は、ファチマでの聖母の御出現は聖書に含まれているということです。なぜなら、それは黙示録第12章に予告されているからです。換言すれば、もし1917年のファチマでの聖母の御出現が事実聖書の中で予告されているならば、そのとき私たちはそれを今や起こった予告された未来の出来事として信じなければならないのです。そしてそれは、それ自体信仰の遺産の一部なのです。私がこの立場を確実なものだと主張しているのでないことを思い出してください。しかしながら、私はそれを尊重しています。そしてそれに反対するどんな論拠も持たないからです。

あなたはファチマを無視することができると言う盲目の指導者たちに私たちは従ってはならない
 さて、もしファチマが実際聖書の中の預言のうちに含まれているならば、現代に生きている私たちは今や、最も荘厳な仕方で非常に特別の義務を持っているのです。なぜなら、私たちひとりひとりは今や私たちの永遠の運命を決定するであろう永遠の真理に直面しているかもしれないからです。私たちは単純にこのことを脇へ押しやること、あるいは無視することまたそれを熟考しないことはできません。われらの主の時代に多くの人々がそうしたのと同じように、私たちは単純に、他の人々に、たとえ言うところの専門家でも、私たちの代わりに決めさせることはできません。

 ファリザイ派の人々は目の見えない人々であり、目の見えない人を導く人々でした。そして両者は共に地獄の穴に落ちました。ここでしばらくの間われらの主の生活との類似点について考えてみましょう。われらの主の到来は旧約聖書において予告されていました。そして旧約聖書のファリザイ派の人々は自分たちは聖書を持っていると主張しました。それゆえ、彼らはなぜナザレト出身のこの「無知な」大工に耳を傾ける必要があるのかと主張したのです。彼らが忘れていたことは、彼ら自身の聖書が預言を含んでおり、それらの預言はナザレト出身の大工について語っていたということです。そしてそれゆえに、自分たちがその保持者であり、主人であると主張していたまさにその預言において、彼ら自身が悪役としての役割を果たしたのです。そして彼らが断罪されたのは、彼らが神を信じなかったから、そして(自分たちは神を信じていると主張していたけれども)イエズスがおこなった奇跡を信じなかったからなのです。  われらの主の到来は多くの預言者たちによって旧約聖書の中で予告されていました。そしてキリストは予告されたその時に来られました。注3 キリストがなされるであろうこと、キリストがどのような死に方をなさるかということ注4、キリストについての多くの事実が予告されていました。

 そしてファリザイ派の人々は聖書に忠実であると主張していたけれども、彼ら自身キリストを十字架にかけた罪を負いました。(このことは、すべての罪人がある仕方でキリストを十字架につけるのだということを無視するものではありません。しかし、私たちは今時間におけるキリストの肉体的な死について語っています。そしてそれは予告されたものでした。)ユダヤ人の指導者たちは彼らの師として神を持っていると主張しました。しかしわれらの主は彼らにこう言われました。「もしあなたたちが父として神を持っていたならば、そのとき私を認めたであろう。なぜなら、私は父の似姿であるから。」「父と私は一つである。」(ヨハ10:30)「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」(ヨハ8:44)

 そして聖パードレ・ピオがかつて言われたように、聖書を支持するという名において、彼ら自身の時代における明白な奇跡を否定する人々がいます。そして彼らはそこからだんだんと、キリストが聖書の中で行われた奇跡をさえ否定することへと落ち込んで行くでしょう。

 これらの事実はどのようにここ、そして今、私たちに関わるのでしょうか?非常に単純です。ちょうどキリストが来られることが聖書の中に予告されているのと同じように、もし聖母がファチマに来られることが聖書の中に予告されているならば、そのとき聖書の預言はそれが実現されるとき信じられなければなりません。ファリザイ派の人々がキリストが行われた大きな奇跡を与えられたとき、彼らがキリストを信じることを拒否したことは彼らを罪ある者としたのです。

 父なる神がお送りになった預言者を信じることを拒否する彼らの言い訳として聖書を信じるという彼らの主張は彼らを容赦しませんでした。注5 彼らはその罪のうちに死にました。

二人の教皇が私たちに告げておられる!
 ファチマの聖母はいつ来られたのでしょうか?聖母は聖書の中でいつ予告されたのでしょうか?

 ところで、私たちは、黙示録の第12章第1節において示されているのはファチマの聖母であると過去37年間に私たちに告げている二人の教皇を持っています。両教皇は、黙示録第12章第1節のうちに含まれている預言を実現したのは、単に聖母ではない--そしてたしかにそれは聖母です--しかし、単に聖母ではなくて、ファチマの聖母であるということを明白に指摘しておられます。ところで、私たちは両教皇のこれらの陳述をどこに見つけるのでしょうか?私たちはまず第一にそれをパウロ六世の回勅Signum magnum注6 の冒頭のパラグラフの中に見つけます。そのラテン語の訳は「大いなるしるし」です。そして黙示録第12章第1節はラテン語で"Signum magnum apparuit in caelo"で始まっています。--これは「天に大いなるしるしが現れた」という意味です。そしてパウロ六世は明らかに、これは絶対にファチマの聖母であると決定あるいは言明してはおられません。しかし、教皇は明らかにそうであるということを暗示したいと思っておられます。

 これは、教導職がファチマの聖母は太陽をまとった女であると言ったということを言っているのではありません。しかしながら、パウロ六世はその回勅の中で、明らかにそのメッセージを伝えようと意図しておられます。それは非常に微妙な言葉遣いをされています。しかしそれは教皇が意図なさっていることだということは明らかです。さらに、ヨハネ・パウロ二世もまた同じ指摘をされました。そして私は2000年5月13日の教皇のファチマでの説教のうちに、もっと強力にさえそれを見ます。注7 そこでは、ヨハネ・パウロ二世は同じ示唆を与えましたが、それについてより決定的でさえありました。ファチマに行かれた二人の教皇が、ファチマの聖母の御出現は聖ヨハネの聖書的預言の書の第12章の聖書的預言の実現であるということを示唆し、述べ、指示なさったということは最も注目に値することです。

 もしそれが実際聖書的預言の実現であるならば、そのとき、それは単に公的な預言的啓示--そのことを私はこの後すぐにあなたたちに説明しようと思います--であるばかりでなく、実際信仰の遺産であるという議論をすることができるでしょう。

教皇はそれを決定することができるであろう!
 「ファチマは聖書の中にある」ということは、たとえそれが広く支持されていないとしても、一つのちゃんとした神学的な立場です。私はこの立場が決定的である、とは言いません。すなわち、真の教導権を必要とするだろう、もっと正確に言えば、すべてのカトリック者をしばるようにするこの立場に全教会をしばることを意図する一つの荘厳な宣言を教皇にさせるだろう、とは言いません。それにもかかわらず、今までのところ、それが正確で、真ではないということを証明できる人は誰もいません。特に、二人の教皇が、ファチマの聖母は実際この聖書的預言の実現であるということを、非常に公的に、非常に明確に指摘された--おそらくあり得ることですが、まだ十分にはっきりと公開されていない完全な第三の秘密に基づいて--とき、私はあなたたちに、カトリック教会においてファチマに反対する人々(そして近代主義者から進歩派、自由派、保守派、ある「伝統主義者たち」すらにいたる多くの人々がいます)は「ファチマは聖書の預言の中にある」という立場に反対する何らの論拠も持っていないのだ、と告げることができます。私も論拠を何ら持っていません。

 もし教会がそれを決定するならば--教会はできるでしょう--この立場に対して開かれた選択肢を残すでしょう。事実、まさにこの点に関して、第五ラテラン公会議--1512年ころ開催された--は、教皇だけが預言的啓示の問題に関して決定すると決定しました。注6 国務省長官の枢機卿ではなく、信仰教義聖省長官ではなく、ただ教皇だけが決定できるのです。そして私たちは、私的な神学者としてではなくて、教師としてのその公的な能力における教皇について話しているのです。

いくつかの必要な説明
 この点において、一人の教皇と一人の裁判官の間には大きな相違はありません。裁判官の例を取り上げましょう。彼の妻が彼に殺人の裁判の途中である夜尋ねます。「ところで、その被告人は有罪なの、それとも無罪なの?」そしてその裁判官は妻に、その家庭のプライバシーの中で「有罪だと思うよ」と言うことはできるでしょう。しかし、その裁判官の見解は裁判の公式の陳述を構成するのではありません。それは彼の見解です。そして一人の教皇は同じように教会内に起こっているさまざまな事柄について意見を持つことができます。しかし、それらの意見の表明は、公的な場においてであっても、教導権の表現を構成するのではありません。それはそれ自体教導職の決定あるいは陳述を構成しないのです。

教皇の側で教導職上のものであるためにはある事柄に対してある種の厳密な要件があります。私は単に荘厳な決定についてだけではなく、教皇の通常の普遍的な教導職の行使についても話しています。それは他の全体的な議論です。しかし、それは必要です。なぜなら、今日その点に関して多くの混乱があるからです。私が得ていることは単純に預言的啓示についてのこれらの問題においては、教皇が最終的な唯一の判定者であるということです。しかし、教皇が教導職の上で宣言する時までは、私たちは自分自身の意見を持つ権利があります。聖アウグスティヌスは私たちに、「本質的な事柄においては一致が、本質的でない事柄においては自由がなければならない」と告げています。そしてそれゆえ、私たちは、真摯にそれを主張するかぎり、すなわち、証拠をはかりにかけ、問題になっていることを理解するために最善を尽くした後に、私たちの意見を持つ権利があります。