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氷見市余川のツバキ

2017-09-11 18:30:25 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 北八代の松沢家を訪ねました。




 個人のお宅の墓所ですから、玄関の呼び鈴を押して訪問理由を伝え、ツバキを見せて頂きたい旨をお願いしました。


 すぐにご了承を頂き、ご自宅裏手の墓所へとご案内を頂きました。

 

 目通し140㎝の単幹の巨樹で、端正な樹形は墓守りにふさわしい風格を漂わせていました。


 幾世代にも亘る、松沢家の安寧な暮らしを代弁するかのような、見事なツバキでした。

 

 


 
 次に訪ねた余川の興聖寺は臨済宗の禅寺で、開山の念仏仏であったとされる聖観音菩薩坐像が氷見市の文化財に指定されています。


 お寺のご自宅を兼ねる庭に木が見えたので、玄関で声を掛け、ご住職の許可の下、ツバキを拝見させて頂きました。


 3本の株立ちツバキは県下最大級の富樫白(ユキツバキ系品種)です。


 白色中輪の八重咲き割しべで、花弁の基部は黄色みを帯びます。


 花糸も白くなく、ヤブツバキと全く異なる表情を見せていました。

 

 


 
 ご住職から、庭のサルスベリは幹回りが1mを超える巨樹なので、是非見ていって下さいと言われました。


 確かに見事なサルスベリで、今でも季節になると花を咲かせるそうです。


 サルスベリは中国南部原産で、300年程前に日本に入ってきたとされますが、江戸時代から日本海側を往来していた北前船が、当時としては珍しい花木を氷見にもたらしたのかもしれません。

 



 ご住職にお礼を述べて興聖寺を後にし、次に余川杉谷家のツバキを目指しました。


 丸山さんの資料には、「余川杉谷家のツバキは屋敷跡に佇む」と記されていますので、ナビの入力場所に着いたとしても分かり難いだろうと考え、探す作業の前に、道行く人に尋ねてみました。


 杉谷家の屋敷跡は、市道脇のネギ畑奥の、木立の中に埋もれていました。

 



 畑の先へ進んでゆくと、竹や雑木が覆いかぶさる藪の中に、僅かに紅色の花を付けたツバキを確認することができました。


 丸山さんが調査されたのは平成19年ですから、その時からすでに10年の歳月が流れています。


 ツバキは目通し128㎝の巨木ですが、あと10年も経てば、周囲の殆どを竹などに覆われてしまうかもしれません。

 

 


 
 杉谷家の屋敷跡のツバキを見終えて時計を確認すると、17時に近づいていました。


 今夕は、丸山さんを紹介してくれた、氷見ツバキ愛好会会長の川本さんにご挨拶に伺う心積りをしていましたから、今日の氷見のツバキ巡りをこの場所で終わらせることにしました。


 氷見市街に戻り、川本さん宅にご挨拶に伺うと、氷見ツバキ愛好会が世話をする、氷見ふれあいの森のつばき園にご案内を頂きました。



 川本さんは新幹線が通じるまで、金沢駅の駅長を務められたそうですが、定年退職された今でも、夏につばき園で潅水や下草刈りに汗を流されるそうです。


 楽しそうにツバキのお話をされるときの、満面の笑顔にお人柄が窺えました。


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中山家熊野権現のツバキ

2017-09-11 14:28:28 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 胡桃地区に来たのは、中山家熊野権現のツバキが目的ですが、ナビを頼りにはしって来たものの、周囲にそれらしきものが見当たりません。


 火神社の道路を挟んだ向かい側の、農作業用の建物で働いていた方に、丸山さんの資料を見せながら、中山家熊野権現の場所を尋ねました。


 年長者の方が、それなら、道を少し戻った、リンゴ畑の脇道を入った場所と教えて頂きましたが、


 「え・・! 東京からわざわざツバキを見に来たの? 」と非常に訝しげな表情で見られてしまいました。


 そうですよね、氷見市街からも結構な距離の山ですから、こんな所にツバキを見る為だけに東京から人が来るなんて、俄かに信じがたいのかもしれません。


 教えられた通りに、リンゴ畑の横の畦道を進み、2mほどの高さの崖下を回り込むと突然、目の前にツバキの森に包まれた小塚が現れました。


 足に絡まる葛の蔓と、ススキの枯葉の中を、塚に向かって近づいて行きます。




 斜度の緩い東側の斜面に回り込むと、塚の頂きに小さな祠が見えてきました。


 祠を包み守る、幾本ものツバキの巨木が塚の頂きで枝葉を広げていました。


 椿の花が、斜面の至る所に紅を射し、幾年もの間、朱色の花弁で染められた続けた塚の斜面は、赤味を帯びています。

 



 一歩ずつ祠へと近づゆきますと、株立ちとなって枝を広げたツバキの梢の狭間から、根が走り広がる祠の周囲へ、西日がちらちらと光のリズムを奏でていました。

 



 一人では抱えきれぬ程の太さの、株立ちツバキの枝々が祠の周りに柔らかな曲線を描いています。


 ツバキの根が、地を這う大蛇の装いで、邪悪な物から祠を守っていました。




 祠の周囲の、鈍色の枯葉や小枝が作る褥の上へ、5弁の椿が散り落ちています。


 傷み始めた朱色の花弁に包まれ、最後まで品性を失わない健気さで、目に刺さるほどの白さを保った花糸が鬱金色の葯を掲げていました。

 



 幻想の椿の中で、どれほどの時を過していたのでしょうか。


 去りがたい想いで、塚を下り振り返ると、熊野権現のツバキの杜が、西に傾く斜陽を受けて、現世とは異なる世界を垣間見せていました。



 

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地すべりと共生する里山

2017-09-11 11:27:55 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 白川地区で八幡社、高嶋家の大椿を確認し


 

八幡社                高嶋家


 五十谷(いかだに)地区へ向かいました。


 県道70号線をはしり、なだらかな丘陵地帯を上ってゆくと、緑に包まれた菖池家墓地が見えてきました。


 この辺りは昭和52年(1977年)3月に大地すべりが発生したことで知られています。


 警戒と対策協議のために集まった70余名の人々を乗せたまま、幅200~250m、長さ1200m、面積34haの規模の大地すべりが発生したそうです。


 丸山さんの資料には、そのような地区にあっても菖池家墓地は被害を免れたと記載されていました。

 



 車を路肩に停めて近づきますと、ツバキの古木群が杜をなしていました。


 石面が崩れて字が読み取れない墓標もありましたから、百年以上の歴史を数える墓地なのかもしれません。


 それにしても、鬱蒼とした緑に包まれた墓地は、たまに大地すべりなどが起きたとしても、安泰な暮らしが続いてきたことを示すように思えます。


 何とも、見事な樹幹のツバキではありませんか。

 

 


 
 前方に石川県との境をなす宝達丘陵の峰々が横たわります。


 車は標高200m程と思える、尾根と谷が入り組む道を縫い進んでゆきました。

 


 磯部の永徳寺のツバキは桃色一重椀咲の中大輪で目通し175㎝。


 10月から4月にかけて花を咲かせ、地区を代表するツバキと評されています。

 

 


 
 磯部神社の社叢は氷見市指定の天然記念物に指定され、


 掲示板には「標高約100m。高木層はウラジロガシが優占し、参道にはスギが並び、低木層はヤブツバキ、ヒメアオキ、シロダモがみられ、社叢西向きの正面には大きなフジが高木にからみ、花期には紫色の長い花序を垂れたフジの花が見られる」と記載されていました。

 

磯部神社

 

磯部神社のツバキ等


 

磯部神社の鳥居        磯部神社のフジ



 磯部から針木へ回り、長家の白ツバキを訪ねた後で、

 

 


  
 胡桃地区に向かいました。


 胡桃地区は宝達丘陵の南東に位置しますが、この場所でも昭和39年(1964年)に大きな地すべりが発生し、わずか3時間ほどの間に、87戸の胡桃集落を一挙に壊滅させたそうです。

 

 地すべりは7月16日の正午頃に発生し、東西約500m、南北約1500m、面積70haの広大な山地斜面が崩壊・移動したようです。


 日中だったこともあり、幸いにも村人は難を免れ、死傷者は全く出なかったそうです。

 



「地すべりと共生する里山の地域づくり」の標示を目にした場所に、火神社がありました。

 



 社殿の周囲を壮齢のツバキが覆い、

 

 


 
 杜の周囲に、白いキクザキイチゲの花が揺れていました。



 

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長寿を迎える椿の条件

2017-09-09 20:59:09 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 石動山を下りて棚田まで戻り、中田山口家の椿を訪ねました。


 ナビが「目的地に到着しました」と告げた場所の周囲にそれらしきものが見当たりません。


 付近の家を訪ね、お尋ねしたところ、防火水槽脇の路地を入った奥、とのことでした。

 



 教えられた細い道を進んでゆくと、民家の裏山の斜面に見事な椿の古木が8本、瞑想の時を過ごす表情を見せ佇んでいました。

 

 


 
 杉の葉に包まれて座る端正な姿の椿花は、仄かにユキツバキの血を感じさせます。


 ミヤマカタバミの幼き白さを嬰児に例えるなら、齢を重ねてなお赤い5弁の椿は、何に例えればよいのでしょうか。

 

 
 

 中田山口家の椿を訪ねた後、再び長坂に戻り、長坂の大つばき跡を訪ねました。


 そうです、悲しいかな「つばき跡」なのです。


 私は今から7年前の2010年3月にこの地を訪ね、長坂の大つばきをフィルムカメラで撮影しています。


 その時に写した一枚が下の写真です。




 その頃は漠然と、定年後に花を眺め過ごしたいと考えていました。


 暇を見つけては、何時何処に行けば花に出会えるかを調べ、調べた内容は誰かの役に立つだろうとも考え、お裾分けのような気持ちで、花の名所に関するホームページを立ち上げました。


 ツバキに関して調べた内容をまとめたページが「椿の名所」です。


 しかし、花の名所をインターネットで公開したことで、内容に誤りがあれば申し訳ないので、自分の目で確認すべきだと思い、定年を待たずに、全国に花を訪ね歩く旅をスタートさせたのです。


 そんな旅の一つが、2010年3月の氷見の椿を訪ねる旅でした。


 そのときは、長坂の大つばきを含め、氷見で5か所の椿を訪ね、それが氷見の椿のほぼ全てと思っていました。


 ところが今年の2月頃、氷見ツバキ愛好会の丸山志郎さんの資料を見て、居ても立っても居られない思いにかられた経緯は以前のページに記した通りです。


 久しぶりに訪ねた氷見長坂の風景は大きく変化していました。


 砂利道が丘の斜面を縫いながら通じていた場所は、丘自体が掘削されて、車が走りやすそうな舗装道路が貫いていました。




 そして、その舗装道路のすぐ脇で、「長坂の大つばき」の切り株が無残な姿を晒していました。


 右下の写真が、7年前に同じ場所から撮影した「長坂の大つばき」です。


 数百年かけて育んできた命でさえも、舗装道路の利便性と引き換えに、一瞬の出来事だったようです。


 

 

 
 長坂の「つばき跡」を確認した後、次に、戸津宮大石の大椿を訪ねました。


 丸山さんの資料には「目通し240㎝ 3幹 第一級の老樹として保護すべき」と記されています。


 民家の横の、畑へと続くだろうコンクリートを打った畦道の横に、3幹の椿が見えましたが、とても第一級の老樹のようには見えません。

 

 


 
 目当てのツバキはどれだろうかと周囲をうろうろしていると、民家からご婦人が出てこられたので、大石の大椿を探していることを伝えると、「この木がそうです」と指さしてくれました。


 「だいぶ弱ってきたけど、近寄れば大きさが分かりますよ」と言われ、裏庭に通じる道を近づくと、貫禄ある姿が見えてきました。


 「数年前にツバキ協会の人が来て、貴重なツバキだから大事にして下さいと言ってた」と誇らしげな顔をほころばせておられました。

 

 


 
 氷見市白川共同墓地にはツバキの巨樹が立ち並んでいました。

 



 この場所も含め、ここに来るまでに見てきたツバキの巨木は、どれもが、人の気配のある場所に育ちます。


 しかも、かなりの大きさであっても、生活の邪魔にならないスペースが確保されていました。


 氷見にツバキ古木が数多く残されているのは、生育に適した気象条件と、開発され過ぎなかった居住環境等が数百年単位で保たれてきたからに違いありません。


 それと、何と言っても、ツバキ古木の周囲に陰を落とす雑木が少ないことは、人々が愛着をもってツバキを見守ってきた証であり、そのことも、ツバキ長寿の大きな要素の一つのはずです。


 ツバキ古木は殆どの場合、開発され過ぎていない、人の息遣いの感じられる場所に育ちます。


 百年単位の平和と平穏に裏打ちされた、人々の暮らしに添いながら、花を愛でる人々の視線を浴び続けることで、椿は齢を重ねられるのかもしれません。


 墓の周囲の石畳の上に、人の手で留められた如き趣で、白い斑入りの椿花が、何かを語りかけたい表情を見せていました。


 


 

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長坂棚田と石動山大宮坊

2017-09-09 15:24:45 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 氷見市北端の「脇」から国道を戻り、途中の中波から山の中へ進む道に入りました。



 

 ルートは事前に決めてありますから、ナビに入力可能な5個の目的地をインプットし、最初の目的地に着いたら、次の新しい5番目の目的地を再入力してドライブを続けました。


 一度走り出せば、どのような道筋を辿るかは全てナビ任せです。


 丘陵地帯をはしると、目の前になだらかな尾根が続き、長閑な田園風景が広がります。



 

 道路脇にスミレが咲きほころび、ハンノキが萌木色の葉を青空に広げていました。

 

 

 

 暫く進むと、「日本の棚田百選 長坂棚田」の石碑が見えてきました。


 へー、そうなんだ、棚田百選か、これを見逃す手はないですよね。



 

 写真写りの良さそうな場所を探してパチリ。


 しかし写真歴50年近い年季がある者としては、納得がいきません。


 高い所に上れば、もっと良いポイントが見つかるかもしれません。




 農道を上がってゆくと、「石動山大宮坊の歴史」と記された看板が目に留まりました。


 どうやら棚田の上の林道の先に、歴史を纏った、眺望の良さげな場所がありそうです。



 

 車一台がやっと通れるほどの林道を慎重に登ってゆくと、小高い尾根の突端に展望台が設けられていました。


 期待したほどの眺望ではなく、どうやらこの場所が石動山(せきどうさん)山頂でもなさそうです。



 

 それらしき山が目の前に横たわっていました。



 

 ここまで来たら行くしかありません。


 谷を見下ろすと、林の奥に白い雪が消え残っていました。



 

 石動山に人気は無く、苔むす茅葺屋根を被った、旧観坊に残る落雪の塊が、この地の冬の様子を物語ります。


 

 

 石動山大宮坊は、石川県鹿島郡中能登町、七尾市及び富山県氷見市にかけて広がる寺院跡、城郭伽藍跡なのだそうです。


 泰澄が、百済から仏教が公式に伝わったとされる752年の僅か数年後の756年、この地に天平勝宝寺を建立し、南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと再興を経て、明治の廃仏毀釈によって廃寺となりました。


 平成2年(1990年)から発掘調査が始まり、以下の写真の御成門(おなりもん)等の復元が進められたそうです。



 

 改めて石動山の歴史を紐解くと、足利尊氏、上杉謙信、織田信長や前田利常などの名が連なります。


 越中、能登、加賀の国境に位置する石動山に繰り広げられた、数多くの物語を垣間見た思いで、私は山を下り、再び麗らかな椿の旅へと戻ってゆきました。


 

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氷見海岸のミカン畑

2017-09-08 21:27:16 | 氷見に椿古木を訪ねる


 国道へ戻ると、右手の海岸の先に何かが見えています。


 車で行けるところまで行って、徒歩で近づきますと、社が姿を現しました。

 



 その後の崖の下には洞窟が口を開き、その中に祠が見えます。

 



 解説板の概要は、


 「国指定史跡 大境洞窟住居跡 大正11年3月8日指定


 この洞窟は大正七年(1918)白山社改築のため洞窟内の土砂を取り除いた際に、人骨、土器、石器等が出てきた・・・ 洞窟は標高約4mにあり、約七千年前の縄文期に波の浸食によって形成され、高さ8m、幅16m、奥行き34mで、一番奥には湧水がありました。


 日本で最初に発掘調査された洞窟遺跡です。」


 と記載されていました。

 



 遺物を含む地層は落盤によって六つの層に分かれ、調査の結果、縄文の文化層が弥生の文化層よりも下にあることから、両者の新旧関係を裏付けたそうです。

 



 第2層からは、奈良時代から平安時代の須恵器などが出土したと記されていました。


 奈良、平安時代といえば、修学旅行で訪ねた奈良や京都の荘厳な寺社のイメージがありますが、庶民の多くはこのような洞窟で生活していたのでしょうか。


 万葉集が編纂された7世紀後半から8世紀後半、文字を使う人達と庶民の生活の格差に気付かされました。


 洞窟を見学した後で、崖の上に上がってみました。


 目の前に穏やかな富山湾が広がっていました。

 



 そして、驚いたことに、海に面した坂道の途中でミカン畑を目にしたのです。


 ミカンは、和歌山や静岡の温暖な地域でしか栽培できないと思い込んでいたので本当に目を疑いました。


 丁度、農作業の手押し車を押して坂を上ってきた高齢のご婦人に、「この木はミカンですよね、この辺でミカンが採れるのですか」と尋ねてみました。


 すると、「この辺の海岸沿いは温かくて、昔から甘いミカンが生るんですよ」との答えを頂きました。


 そうだったんですか!


 雪国とばかり思い込んでいた氷見ですが、照葉樹の椿古木が多い謎が瞬時に解けたような気がしました。




 驚き、桃の木、山椒の木の旅を続けながら、


 次に、氷見市姿の白山神社のツバキを訪ねました。

 



 ここも場所が分からなかったので、通りすがりの小父さんに道を尋ねると、ご丁寧に神社まで案内をしてくれました。


 社へと続く石段の脇に、見事な椿枝を広げていました。


 幾輪もの艶やかな花が、枝先で笑顔をほころばせていました。


 この地方にはユキツバキとヤブツバキの交雑種であるユキバタツバキが咲くそうです。

 

 そのような目で白山神社の花を見ると、もしかするとこの木にも多少はユキツバキの血が混じっているかな~と思えます。

 

  


 美しい姿を保ったままに、朱の花が地を彩っています。


 散り落ちた後も、姿勢を崩さない品格が、ツバキの大きな魅力の一つなのです。

 



 道案内をしてくれた小父さんから「東京からわざわざ椿を見に来たの?」と聞かれたので、旅の経緯を説明していると、丁度そこへ、隣の民家から出てきた方に、


 「おい〇〇さん、この人は、わざわざ東京からツバキを見に来たんだってよ」と小父さんが声を掛けました。


 「へー 東京からわざわざかい、そりゃまたご苦労なこって。そんな価値があるんだ、邪魔くさいから切っちまおうと思っとったけど、切らなくてよかったな~」


 「ほんとよ~」と、お互いに顔を見合わせながら頷きあっています。


 「そうなんですよ、切るなんて言わずに、どうぞこれからも大切にしてあげて下さい」と、お願いして、


 「いいものを見せてもらいました、ありがとうございました」とお二人にお礼を述べ、白山神社を後にしたのでした。


 氷見海岸の道の駅を朝7時に出発してから約3時間、富山湾沿いの国道を北上し、氷見市北端の「脇」にやってきました。


 畑の横の畦道の先の斜面にヤブツバキが繫みを作っていました。


 どうやらこれが氷見市脇北島家の椿林のようです。

 



 丸山さんの資料には「4幹の古木を中心に約千本近く群生するさまは見事である」と記載されています。

 

 


 
 つい先ほど、大境の崖に育つミカンを見てきたので、紀伊半島先端の串本町大島の「つばき咲く道」を思わせる樹勢の椿林に、違和感を覚えることはありませんでした。


 

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万葉の里 ひみ椿物語

2017-09-08 14:50:05 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 薮田から車を10分程はしらせた辺りで泊共同墓地のヤブツバキを探しました。

 国道脇に佇む一軒の民家を訪ね、氷見ツバキ愛好会の丸山志郎さんの資料を基に椿の古木を訪ね歩いていることを説明し、泊共同墓地の場所をお尋ねすると、すぐに所在地を教えて頂くことができました。


 丸山さんの調査を基に、氷見市が「万葉の里 ひみ椿物語」というパンフレットを作成したこともあり、氷見の街で、丸山志郎さんのお名前を出せば、誰もが「ああ、あの丸山さんが調べた椿ね」と親切に答えてくれました。

 


 泊共同墓地は国道を見下ろす丘陵の突端で、富山湾に昇る陽の光を浴びていました。

 



 それらしきツバキが、墓地の片隅で紅色の花を咲かせています。


 丸山さんの資料には、「泊共同墓地 根元128㎝ 地上65㎝で2幹の古木」と記載され、目の前のツバキも腰の高さ辺りで二股に分かれていますので、この木に間違いはありません。

 

 

 
 泊共同墓地のツバキを難なく探し出せたことで、私は今回の旅が予定通り恙なく終わるであろうことの確信を得ることができました。


 ツバキの横で、ヒサカキが白い小粒の花を枝一面に咲かせていました。


 旅の目途が付いたことで、ツバキ以外の花木にも目を向ける余裕が出てきました。

 

 


 
 氷見市小境の朝日社叢は、国道脇に建つ鳥居の存在で、すぐにそれと分かりました。

 



 掲示板には、


 「朝日社叢 昭和四十年一月一日指定


 この社叢は、タブノキ、スダジイ、ヤブツバキ等の暖地性の常緑高木やアオキ等の常緑低木を中心に構成されている。


 スダジイ等の常緑広葉樹は、日本海側の北限分布域にあたり、イヌシデ等冷温帯で見られる落葉広葉樹も混交している。云々 富山県教育委員会」と記載されていました。

 


 金刀毘羅六権現の石碑の周囲に降り注ぐ、落ち椿が贅沢な光景を見せてくれていました。

 



 氷見市小境の髪塚は、昨年閉校になった氷見市立灘浦中学校の裏手に立つ標識で位置を確認することができました。




 高さ約180cmの自然石の石塔正面に、月輪と梵字「バク」、その下に「貞和三年□十五日」(1347年)と刻まれています。


 後醍醐天皇の第8王子である宗良親王が、この地の大栄寺で剃髪し、その髪を埋めたとされる髪塚だそうです。


 髪塚の周囲に、椿の古木が繫みをなしていましたが、海岸から少し奥まった場所の為か、この場所での開花はもう少し先のようです。

 

 


 
 氷見市大境の慈光寺に淡桃色の一重椀咲 中輪の椿があるはずなので、人気のない寺の裏手に回り、それらしき椿を確認しましたが、枝が剪定されていた為に椿花を確認することはできませんでした。

 

 前庭で梅の木が、幹を捩り、枝を伸ばし、青い空と白い雲を背に、桃色の花を咲かせていました。


 のどかな季節の、のどかな花の風情に心が和みます。

 

 

 

 紅の花を訪ねる旅は、春の日のぽかぽか陽気に恵まれ、微笑みの時を刻みながら、麗らかな道行を続けました。

 

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氷見市薮田のヤブツバキ

2017-09-07 14:37:35 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 氷見海岸道の駅で朝を迎えました。




 昨夜買っておいたバターロール片手にハンドルを握り、富山湾に沿って国道160号を北へ向かいます。


 車の旅では、朝食はいつもこんなふうに済ませます。


 せっかく見知らぬ土地へ来たのですから、ありきたりの朝食などに時間を割いていては勿体ないじゃありませんか。


 朝陽を浴びた紅梅が列なす国道を、潮風を車内へ取り込みながら、のんびりペースで車をはしらせます。

 

 事故でも起こせば、楽しい旅も台無しですから、一旦走り出せば、はやる気持ちは封印します。

 


 しばらく進むと、国道の左手に誰かの銅像が見えてきました。


 車を停めて近寄りますと、浅野総一郎の像であることが分かりました。


 浅野総一郎は1843年(嘉永元年)、今から170余年前に氷見郡薮田村の医師の長男として生まれ、東京へ出て浅野セメントを創業し、東京から横浜にいたる京浜工業地帯の形成に寄与し、巨万の富を成した実業家です。


 しかし成功するまでに何度も失敗を繰り返したため、像の台座には「九転十起の像」と記されていました。

 



 浅野総一郎が生まれた6年後にペリーが久里浜に来航しています。


 その頃、横浜は粗末な漁師小屋が点在する漁村だったのですから、そのことを思えば、当時のこの辺りの光景が容易に想像できます。


 筆者は横浜生まれですが、思いがけないところで、生まれ育った郷里の復興に携わった人物に巡り会うことができました。

 

 話しは少し脱線しましたが、今回の旅は、氷見の古木椿を訪ね歩くことが主目的で、氷見の丸山さんから送って頂いた詳細な資料に、丸山さんお勧めの椿にマーカーでチェックを付けて持参しました。


 ネットの地図検索ページなどを使い、それらを訪ね歩くルートを事前に作成しましたので、そのプラン通りに車を進めて行きます。
 
 最初に訪ねたのは、氷見市薮田の穴倉家墓地のヤブツバキです。


 波打ち際をはしる国道160号と、海岸のテトラポットの狭間に民家が並び、

 



 その民家の背後、国道を渡た先に、20mほどの高さの小山へ登る階段を見つけました。

 


 階段を登りながら後ろを振り返えれば、昇る朝陽が静かに、豊穣の海を照らしていました。


 海に輝く朝日を見たくて、このルートを設定しましたが、思惑通りの展開になっています。

 



 石段を登り進んでゆくと、見事な椿林が陽の光を受け、木肌を輝かせていました。

 

 


 雨風に洗われたコンクリートの上で、朱色の椿が黄色い蕊の華やぎを見せて、笑顔をほころばせていました。

 



 石段を登り詰めれば、椿の古木が風雪に耐え身を捩らせています。


 もしかすると、浅野総一郎が寒村に志を立てた頃に花を咲かせていた樹齢の椿かもしれません。

 

 

 

 潮騒の中で、沈丁花が春の香を放っていました。

 

 

 

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氷見市内へ

2017-07-02 21:06:02 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 高岡で気多(けた)神社に寄り道して氷見へ向かうことにしました。


 気多神社は、車で勝興寺から北西へ5分ほどの二上山の山裾に鎮座し、静かな境内に人影はありませんでした。




 境内の石段の脇で、ショウジョウバカマが桃紫色の花を掲げていました。


 ショウジョウバカマを見るのは久しぶりの気がします。

 



 境内の片隅に、大伴家持が「二上山」「布施の水海」「立山」をモチーフに越中三賦という長歌を詠んだことを顕彰する三石が設けられていました。

 



 このようなモニュメントを見ると、この地の人々の大伴家持に対する敬意と郷土愛の深さが分かります。


 予想以上に、この地の人々の心底に秘めるマグマの熱は高そうです。


 気多神社から海岸に沿った国道を氷見へ向かいました。


 氷見市で最初にたずねたのが手向神社です。


 菅原道真が古今和歌集で「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んだ、あの手向山と何か関係があるのでしょうか。




 境内に古木が聳え、社殿に風格をもたらしています。

 

 


 目的とするツバキは地上50㎝程で二幹に分かれています。


 今回の旅の契機となった氷見市の丸山さんの資料に由れば根元周り140㎝だそうです。

 

 境内の片隅で、さりげない風情に紅色の花を散らせていました。 


 


 今回の旅の主目的である、氷見の古木椿との初対面を無事に済ませ、安堵の気持ちで次の椿へと向かいました。


 次は気多神社からほど近い、氷見市園334の高木家墓地の椿です。

 

 ナビが目的地に到着しました、と告げた場所にそれらしき椿が見当たりません。

 



 周囲に人影はなく、問い合わせるべき人も見当たりません。


 周囲の様子を窺っていると、民家の脇道の奥に椿の花を認めたので、そちらへ向かって歩を進めました。

 



 花を咲かせた椿まで歩を進めると、その先の斜面に椿の古木が見えてきました。


 この辺りは、どなたかの個人の所有地のようです。


 すぐ脇のお宅のドアをノックしてみましたが、お留守だったので、路地奥へは入らず、ほどほどの場所からそれらしい椿の写真を撮影して、早々に退散しました。

 

 

 

 確認はできませんでしたが、多分写真中央に写っている一番太い木が高木家墓地の椿だと思うのですが、自信はありません。
 
 高木家墓地を去る時に時間を確認すると17時を過ぎていました。

 今日はこの場を最後にして、氷見の椿に関する資料を提供してくれた丸山さんへ御礼のご挨拶に伺うことにしました。


 丸山さんは、氷見市内で著名な大規模小売店に務めておられますが、職場に伺うと、お忙しい時間を割いて、氷見の椿に関連する情報などを説明して頂くことができました。


 丸山さん、その節はお世話になりまして本当にありがとうございました。


 そして、丸山さんがお勤めの店で買い求めたのが、氷見地酒の曙です。

 


 今夜は氷見市内の道の駅で車中泊し、一緒に買い求めた幕の内弁当のおかずをつつきながら、これで旅の疲れを癒すことにします。


 今日も目いっぱい走り廻り、充実感に溢れる一日でした。


 

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椿の花に包まれる勝興寺

2017-06-30 16:24:36 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 高岡古城公園を出て、高岡市伏木古国府にある勝興寺へ向かいました。


 朝出発する時、ナビへ目的地を入力してあるので、エンジンをスタートさせれば、ナビのおねえさんがすぐに道案内を始めてくれます。


 高岡市内で銭湯やイオンなどのスーパーを確認しながら、目的地へ車を進めました。


 車に寝泊まりする旅ですから、お風呂や食糧などの買い出しの見当を付けておくことは、心地よい旅の為の必須条件です。


 ナビが目的地到着を告げた場所に「越中国府関連遺跡(御亭角廃寺跡)」の解説を見付けました。


 その掲示には「この付近には御亭角【おちんかど】と称される勝興寺御亭があったため、この地名がついた。・・ 御亭角廃寺跡は福井県越前市の深草廃寺とともに北陸では最古の寺跡とされる。・・・」と記されていました。

 



 しかし、周囲に寺らしき建物がみえません。


 周囲に見えるのは、背高く咲き誇るヤブツバキの花群れだけです。


 今回の目的はツバキですから、それで問題はないのですが、本当にここが勝興寺なのでしょうか。


 実は十年ほど前に、私は勝興寺を訪ねているのですが、その時の記憶と様子が異なります。

 



 少し歩くと、「椿の道 入口」の看板が見えてきました。




 そして、その「椿の道」が秀逸でした。


 土塁に見事な椿の古木が連なり、遥か先まで、散り椿が行く手を赤く染めています。


 以前訪ね来た時も歩いたはずなのですが、その時は時間に追われていた為でしょうか、同じ景色も異なって見えていました。

 

 


 
 静寂に包まれた木々の梢に、てらてらとした葉を褥に寛ぐ、真紅の花が見え隠れしています。

 

 


 
 昔訪ねた三ヶ日町の姫街道のヤブツバキも見事でしたが、その光景を想いださせます。


 近頃は行く先々で、旅に過ごした日々のその時々が、連想ゲームのように脳裏に浮かび上がります。


 「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」日が来るまでは、今を存分に目に焼き付けておきたいものです。


 「椿の道」の最後に、万葉寺井の跡と示された史跡がありました。


 大伴家持が「もののふの八十娘子らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花」と詠んだ寺井はこの井戸だったそうです。


 ああ、そうだったんですね、


 高岡古城公園の一隅にカタクリの群落があったのは、この歌と関係するのですね。


 え、そうですか、高岡市はカタクリを市の花としているのですか!




 万葉寺井の跡から元来た道を戻り、途中で空濠を越え、勝興寺の境内へと入りました。


 どうやら私は寺の裏手から境内に迷い込んだようです。


 境内では、あちらこちらに足場が組まれ、寺全体が改修作業中のようです。


 最初に目にした「経堂」は1805年(文化2年)に建立された国の重要文化財だそうです。

 


 その他本堂、総門、唐門、鼓堂など、境内に数多くの重要文化財が並んでいました。


 唐門は周囲と異なる雰囲気を感じさせます。


 1769年(明和6年)に京都の興正寺で建立され、1893年(明治26年)に譲り受けて、北前舟で運ばれ移築されたのだそうです。




 境内に「実ならずの銀杏」の名が付いたイチョウの老木がありました。


 雄イチョウならば実が生らないのは当たり前なので、なんで?と思ったのですが、それなりの理由があるようです。


 「実ならずの銀杏」でネット検索してみて下さい。

 きっと答えが見つかります。

 



 次が「三葉の松」。


 これも、海外にはリギダマツなどのように三本葉の松もありますから、それなんじゃない?と思いましたが、残念ながら、私には見分ける目がありません。


 これも「三葉の松」でネット検索すると、その答えが見つかります。

 



 植物全般に興味がありますので、イチョウやマツを見れば事実を極めたくなりますが、夫々の地に伝わる逸話だけでも十分に楽しめます。


 746年(天平18年)この地に大伴家持が国守として赴任して以来、いや、それ以前から、海路を介して京都や新潟などとの交流を重ねながら、恵み豊かな地で文化を育んできた歴史を垣間見る、勝興寺の訪問となりました。


 

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高岡古城公園のツバキ

2017-06-28 14:47:32 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 射水市の本橋家跡地から20分ほどはしり、隣の高岡市高岡古城公園に到着しました。


 高岡古城公園は全国桜百選に名を連ねる桜の名所ですが、今日はまだ僅かに蕾が膨らみ始めた程度で、花を楽しむには少々早すぎるようです。



 そうそう、常々感じていることですが、欧州や米国でツバキが賞賛されるほどに、原産国の日本でツバキ熱が盛り上がらないのは、ツバキが桜の季節と少々重なる為ではないかと思うのです。


 日本では花と云えば桜ですから、どれほど花好の人でも、椿園に足を運ぶ人は、桜を見る人ほど多くありません。


 ツバキ目的で旅する私でさえ、今の高岡古城公園の桜を見て、ああ残念だったな~と嘆くほどなのですから。


 ツバキの品種開発に携わる人は、花色や型にのみ囚われず、桜と競合しない季節に花盛りとなるツバキ等、花を愛でる人の側に立っ開発戦略が求められると思いますが、如何なものでしょうか。


 ツバキだって、見られ愛でられてこその花ですよね。



 高岡古城公園を散策していると「夕日」の曲のモニュメントを見つけました。


 「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む・・・」という、日本人なら誰でも知っている、あの名曲です。

 



 モニュメントのすぐ脇に、「夕日」の作曲者である室崎琴月を紹介する一文が掲げられていました。


 室崎琴月は高岡市小舟町に生まれ、東京芸大を卒業し、東京で音楽学校を設立しました。


 そして葛原しげるの詩に曲をつけたのだそうです。


 その音楽に関する多大な功績によって、勲四等瑞宝章が授けられたと記されていました。


 何でしょう、旅先でこういう話に接すると、得した気分になるから不思議です。


 伊豆大島で出合った、「公園の手品師」のレリーフを思い出しました。

 



 桜の季節に運行される遊覧船も今日は運休のようです。

 



 高岡古城公園には多くのツバキが咲くはずなので、ツバキを探していると、少し傾き始めた陽射しの中で、赤い花を散らすヤブツバキに目が留まりました。

 

 今回はツバキを訪ね歩く旅ですが、タイミングに間違いはなさそうです。 

 



 公園の一隅でカタクリが可憐な花を咲かせていました。


 雪国では全ての草木が一斉に花を咲かせます。


 人気のない公園で、贅沢な時間を存分に味わうことができました。

 

 


 
 その先へ歩を進めると、


 「うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花 いつしか君と手折りかざさむ」


 大伴家持の歌碑が建てられていました。 

 



 大伴家持は万葉集の編纂に重要な役割を果たしましたが、天平18年(746年)に越中国の国守として今の高岡に赴任し、在任中の5年間に詠んだ223首が万葉集に残り、越中国は万葉故地として知られるようになりました。


 高岡市はそのことに誇りを持ち、文化財などの保護に努めているようです。


 「うぐひすの 鳴き散らすらむ 春の花 ・・」とは梅の花を指すのでしょうか、公園の中の梅園に咲き残る紅梅の姿を認めました。

 



 濠を渡ると、

 


 「国際児童年記念植樹」の表示とともに、数多くのツバキ品種が植栽されたエリアに出ました。

 


 本丸跡を巡る遊歩道に沿って、ツバキが花を咲かせています。

 


「高岡古城公園のツバキ」とはこのことだろうと納得し、この辺りから駐車場に戻り、公園を去ることにしました。


 後から知ったのですが、高岡古城公園の南外濠に椿山と呼ばれる場所があって、「高岡古城公園のツバキ」とはそこを指すようです。


 富山には中央植物園もあることですし、もう一度訪ね直す必要がありそうです

 

 

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日本古来の文化財である椿を誰が守るのか

2017-06-08 21:31:28 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 富山県立中央植物園を出て、富山市宮尾の内山邸に向かいました。


 国登録有形文化財の内山邸は、富山平野を貫き富山湾に流れ込む神通川の氾濫原野を、新田開発した豪農の住居です。

 明治以降、地主制度のもとで最大の繁栄を迎えました。


 昭和52年に13代内山季友氏から富山県に譲渡され、現在は富山県民会館の分館として市民に開放され、お茶、お花などの文化的行事の催事場としても利用されています。

 



 今回、内山邸を訪ねたのは、富山市内最大の椿木があるので、一度見ておきたかったのです。


 そしてこれが、その椿の古木です。


 背後に、雲の中に見え隠れする立山連峰を肉眼で認めましたが、写真には写っていませんでした。

 



 内山邸の椿は富山市内最大ですが、内山邸には庭に60本の梅が植栽され、花の季節には多くの市民が梅目当てに訪ね来るようです。

 



 邸内には、枝垂れ桜をはじめとする4本の桜の大木があり、3月下旬から4月中旬にかけて見事な花を咲かせるとのことです。

 しかし今は、春を待つ間の風情を醸しつつ、桜は風にそよぐ枝を見せるばかりでした




 庭園の一隅に設けられた蹲踞の水面に、散り落ちた椿花が華やぎを添えていました。

 


 
 邸内も観覧させてもらいましたが、大正時代の画家 内海吉堂が描いた鶏の襖絵や板壁に描かれた鹿の絵など、一地方農家の概念を超えた調度品の数々に目を瞠る時を過ごしました。


  

 
 

 内山邸を1時間程で切り上げ、富山市に隣接する射水市旧家の本橋家を訪ねることにしました。


 本橋家の椿古木も近隣に名をとどろかす銘木だそうです。


 ナビに住所を入力し、射水市殿村の辺りを探し廻りましたが、それらしき民家が見当たりません。


 土地の人に道を尋ねながら車をはしらせ、最後に小さな個人商店で本橋家の所在を伺いますと、その商店裏手の大きな空地が本橋家の跡地だというのです。


 2年程前まで、敷地には鬱蒼と木々が茂るお屋敷だったそうですが、後を継ぐ人もなく、椿の古木は切り倒され、今は宅地造成の工事が進められているそうです。

 



 室町鎌倉時代の頃から、何世代にも亘って慈しみ育ててきた地域を代表する椿の古木でさえ、世代を継いで財を蓄積する不公平を是正する方針に基づく日本の相続税制度下では、日本固有の文化財としての価値を持つ椿の古木や品種であっても、個人が所有物する限りは、守りきれないようです。

 

 唯一日本のみに伝わる椿の古木や、数百年の時を継いで守られてきた椿品種群の価値を認め、保存を図る意志と行動力を持つ人々が現れてほしいものだと、今は切に願うばかりです。

 

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富山県中央植物園でユキツバキを見る

2017-05-17 20:55:03 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 富山市東部のパーキングエリアで目を覚ますと、周囲の車の中で会社員らしき人々がスマホに目を落とす姿が見えました。


 数年前まで私も同じような時間軸の中にいたことを思い出し、まるで舞台袖から演技を覗き見るような不思議な感慨に包まれたことでした。


 そういえば芭蕉翁は数百年前に、この道をどんな想いで旅して行ったのでしょうか。


 来し方を望むと、立山連峰の上に昇る朝陽が柔らかな光を雪の残る峰々に注いでいます。


 パーキングエリアの周囲の田畑は朝靄をまとい、国道を間断なく走る車の走行音が、旅人に新たな一日の始まりを告げていました。


 寝袋をたたみ、車内を整え、エンジンを回し、ナビに富山県立中央植物園の住所を入力しました。


 到着予定時刻は開園直前の8時55分と表示されました。


 全てが思惑通りに始まってくれたようです。


 パーキングエリアを出て、国道を流れる車列に加わりました。


 ゆったり流れる車列の中で、ナビのお嬢さんのガイドに任せ、富山市近郊をはしり抜け、時間通りに植物園の駐車場に車を滑り込ませました。


 途中のコンビニで買い求めた調理パンと温かいコーヒーの朝食を、駐車場で済ませました。


 植物園に入り、まずは「四季の花」のための撮影に取り掛かりました。


 温室で熱帯植物や唐椿などにカメラのレンズを向けます。

 

 

左:シロバナソシンカ        右:唐椿            


 ホームページに「四季の花」を立ち上げたのは1999年の7月ですから、今年で18年目になり、無事これ名馬の域に達しつつあると自負しています。


 温室で2時間程を費やした後、園内を見て回ることにしました。


 東の空に白い立山連峰を望みましたが、コンパクトデジカメでは何を写したか分からないような写真しか撮れていません。

 

 
 池の畔に咲くポルトガル原産のキズイセンが花の季節の到来を、散策路の傍らで、アカシデの花が過ぎ去る冬を物語っていました。

 

 

左:キズイセン           右:アカシデ          


   
 一番奥のエリアでユキツバキやユキバタツバキの名札を付けた木が花を咲かせていました。


 ユキツバキは花弁を開いて咲かせ、ヤブツバキは花を筒状に咲かせ、ユキバタツバキは両者の中間の特徴を持つそうですが、花を見ただけでは殆ど区別が付きません。

 

 

左:ユキツバキ            右:ユキバタツバキ       

 
 今回の旅のテーマは北陸の椿の古木ですが、こんな様子で、ツバキをきちんと見分けることができるかどうか、些か不安を感じながら、正午過ぎに植物園を辞しました。


 

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氷見に椿の古木を訪ねる 

2017-04-10 18:26:34 | 氷見に椿古木を訪ねる

 

 正月気分も抜けた2月如月の頃、私は偶然手にした神戸つばき愛好会の機関紙に目を疑いました。


 その冊子には、富山県氷見市の丸山さんが寄稿した、氷見市内の百を超える椿古木が紹介されていたのです。


 実は私は、10数年前に「芦川のホームページ」を立ち上げ、その中で全国の椿花の名所をリストアップし、暇を見てはそれらの地を訪ね歩いていました。


 リストには氷見老谷の大椿長坂の大椿(近年枯死)があり、私もホームページ設立後の早い時期に氷見を訪ねていたのですが、まさか氷見市内にこれほど沢山の椿古木が眠っているとは予想だにしていませんでした。

 
 え~ そうなんだ!


 手元まで手繰り寄せた鯛を、寸前のところで取り逃がした、そんな残念さに染まる我が身を感じていました。


 このままでは精神衛生上良くない。


 そう思い始めると、もうじっとしてはいられません。


 思いつく限りの手立てを尽くし、著者の丸山さんとの連絡方法を探索しました。


 何とか電話番号を知ることができたので、憚りもなく直接電話を掛けて、丸山さんの記事に触発され、氷見の椿の古木を巡りたい想いをご本人に伝えました。


 そして、氷見の椿古木の詳細なデータ提供のお願いをしたのです。


 丸山さんは、氷見市内で著名な会社の常務さんを務め、多忙な日々を過ごしておられますが、一週間も経たぬ間に椿の詳細住所を調べ、一度も会ったこともない、見ず知らずの私宛に膨大な資料を送って下さったのです。


 そして4月2日の夜、氷見に椿の花が咲き始めたことを確認し、私は夜の闇に包まれた関越道を、氷見へ向かって車をはしらせました。

 



 夜の間の中、目的地に向って車を走らせるのは私の旅のセオリーです。


 夜半までに目的地に近づけば、朝からフルに活動することができます。


 夜明後に1~2時間走れば目的地に着く場所に車を停め、車内で朝を迎える予定です。


 時間の経過を見ながら、長野ICで高速道路を下り、一般道を糸魚川へ向かいました。


 23時を過ぎたころ、車は糸魚川市街を抜け、市振の街に差し掛かりました。

 車窓の右手に、漆黒の日本海へロゼワインを注いだように染め照らす、上弦の月が浮かんでいました。

 


 市振の街は、新潟と富山の県境に位置する、新潟県最南端の街です。


 松尾芭蕉が元禄二(1689)年に奥の細道の旅で一夜の宿をとり、


 「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月


 の名句を詠んだ地でもあります。


 帰路に再び市振に寄り、長円寺境内にある芭蕉句碑を確認しました。



 良寛もこの地に一宿し、



 「市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月」


 と詠んだそうです。



 では、臆面もなく私も一句



市振や 漆黒の海 ロゼの月

 

 

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