石動山を下りて棚田まで戻り、中田山口家の椿を訪ねました。
ナビが「目的地に到着しました」と告げた場所の周囲にそれらしきものが見当たりません。
付近の家を訪ね、お尋ねしたところ、防火水槽脇の路地を入った奥、とのことでした。
教えられた細い道を進んでゆくと、民家の裏山の斜面に見事な椿の古木が8本、瞑想の時を過ごす表情を見せ佇んでいました。
杉の葉に包まれて座る端正な姿の椿花は、仄かにユキツバキの血を感じさせます。
ミヤマカタバミの幼き白さを嬰児に例えるなら、齢を重ねてなお赤い5弁の椿は、何に例えればよいのでしょうか。
中田山口家の椿を訪ねた後、再び長坂に戻り、長坂の大つばき跡を訪ねました。
そうです、悲しいかな「つばき跡」なのです。
私は今から7年前の2010年3月にこの地を訪ね、長坂の大つばきをフィルムカメラで撮影しています。
その時に写した一枚が下の写真です。
その頃は漠然と、定年後に花を眺め過ごしたいと考えていました。
暇を見つけては、何時何処に行けば花に出会えるかを調べ、調べた内容は誰かの役に立つだろうとも考え、お裾分けのような気持ちで、花の名所に関するホームページを立ち上げました。
ツバキに関して調べた内容をまとめたページが「椿の名所」です。
しかし、花の名所をインターネットで公開したことで、内容に誤りがあれば申し訳ないので、自分の目で確認すべきだと思い、定年を待たずに、全国に花を訪ね歩く旅をスタートさせたのです。
そんな旅の一つが、2010年3月の氷見の椿を訪ねる旅でした。
そのときは、長坂の大つばきを含め、氷見で5か所の椿を訪ね、それが氷見の椿のほぼ全てと思っていました。
ところが今年の2月頃、氷見ツバキ愛好会の丸山志郎さんの資料を見て、居ても立っても居られない思いにかられた経緯は以前のページに記した通りです。
久しぶりに訪ねた氷見長坂の風景は大きく変化していました。
砂利道が丘の斜面を縫いながら通じていた場所は、丘自体が掘削されて、車が走りやすそうな舗装道路が貫いていました。
そして、その舗装道路のすぐ脇で、「長坂の大つばき」の切り株が無残な姿を晒していました。
右下の写真が、7年前に同じ場所から撮影した「長坂の大つばき」です。
数百年かけて育んできた命でさえも、舗装道路の利便性と引き換えに、一瞬の出来事だったようです。
長坂の「つばき跡」を確認した後、次に、戸津宮大石の大椿を訪ねました。
丸山さんの資料には「目通し240㎝ 3幹 第一級の老樹として保護すべき」と記されています。
民家の横の、畑へと続くだろうコンクリートを打った畦道の横に、3幹の椿が見えましたが、とても第一級の老樹のようには見えません。
目当てのツバキはどれだろうかと周囲をうろうろしていると、民家からご婦人が出てこられたので、大石の大椿を探していることを伝えると、「この木がそうです」と指さしてくれました。
「だいぶ弱ってきたけど、近寄れば大きさが分かりますよ」と言われ、裏庭に通じる道を近づくと、貫禄ある姿が見えてきました。
「数年前にツバキ協会の人が来て、貴重なツバキだから大事にして下さいと言ってた」と誇らしげな顔をほころばせておられました。
氷見市白川共同墓地にはツバキの巨樹が立ち並んでいました。
この場所も含め、ここに来るまでに見てきたツバキの巨木は、どれもが、人の気配のある場所に育ちます。
しかも、かなりの大きさであっても、生活の邪魔にならないスペースが確保されていました。
氷見にツバキ古木が数多く残されているのは、生育に適した気象条件と、開発され過ぎなかった居住環境等が数百年単位で保たれてきたからに違いありません。
それと、何と言っても、ツバキ古木の周囲に陰を落とす雑木が少ないことは、人々が愛着をもってツバキを見守ってきた証であり、そのことも、ツバキ長寿の大きな要素の一つのはずです。
ツバキ古木は殆どの場合、開発され過ぎていない、人の息遣いの感じられる場所に育ちます。
百年単位の平和と平穏に裏打ちされた、人々の暮らしに添いながら、花を愛でる人々の視線を浴び続けることで、椿は齢を重ねられるのかもしれません。
墓の周囲の石畳の上に、人の手で留められた如き趣で、白い斑入りの椿花が、何かを語りかけたい表情を見せていました。
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