作曲において いつも思うのは「歌の生命」「音楽の生命」
音楽に限らず、文学、絵画、彫刻・・・など、その生命の長さに思いを致す。
吟遊詩人が歌い続けた歌や、リュートの為の歌・・など、数百年の生命を持つ歌がある。 作曲者不詳で。
日本の古曲でも、さくら、かごめ、通りゃんせ・・・など作者不詳、作曲年代も不詳という歌がある。
歌の生命は不思議なものだ。
詩人で日本童謡協会会長だった藤田たまお氏が言われていたように、確かに歌は、それ自身が生命を持っていて一人歩きをする。
誰からともなく歌い継がれて、数百年以上にわたって生きながらえる曲もある。
自分自身が作曲するにあたって、思うのは、そういった時代を超える曲を生み出すことだ。
城山如水が此の世を去った後に、100年、200年・・・数百年と生き長らえる曲を生み出すことだ。
時代も、文明も、人種も、すべてを超えて生き永らえる曲だ。
したがって、今すぐ話題になるとか、今すぐメディアに採り上げられることは頭においていない。
それは、かえって曲の生命を弱め、曲の生命を縮めることになるからだ。
「秘すれば花」なのだ。
数百年、数千年の生命を持つ創造物、創作と云うものには、普遍性が必要だ。
たとえ太陽系が消滅したとしても、価値を残す創造が出来ればと、切に思う。
それこそが、宇宙の普遍性と共にある創造といえるのだと思う。
文学、音楽、美術・・・すべての創造作品が備えているものは、宇宙の普遍性に迫ろうとする作業であろうと思われる。
その普遍性が深く、広い作品ほど、その生命は永い。永遠の生命を持つ作品も創造されうる。
自身の創作、作曲においては、願わくは永遠の普遍性を持つ曲を生み出したいと願うものである。
播州城山流 <しの笛 風の音>
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