宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(十二)

2011-02-06 10:22:43 | 祈り
 拝復
人間界に呼びかけるのに、人間の
心のこもった言葉以外で何が出来る
というのかという点について、
私は今一度かいてみたいのだ。
 ただいたずらに自分を高みに
おく者を僕は信じない。人間
というものの真性を、等しく
みんなが理解するためにも、言葉
というもののやさしさ、深さを
極めることは大事だと思っている。
 やさしさというものは極めて
ゆけば強さにつながる。しかも、
その強さは、人間の心の内奥を
つつむものであると僕は思っている。
 このつよさを獲得するために、
人はさまざまな道のりを経て
ゆかなければならない。どこをどう
点検してもつよさにつながらない道を
歩かせられる場合もあるのだ。
 しかし、その道を歩く時間も、
永遠という神の眼からみれば瞬間に
すぎない。君の道筋も、永遠に
つながってゆくものだ。
 人間界は、神界に到るまで顕われの
世界だ。そのあらわれは、人の心が
つくってゆくものだということを理解
できれば、この世の争いもなくなって
ゆくのだがと思う。おもいだけでは
この世はよくならない。おもいを
祈りに高め、祈りを光にかえて、
僕等の本心のなかに光体をかがやかす
ことこそ、今、つとめるべきでは
ないか。今、この時期だからこそ、
一人一人の光をつよめてゆこうでは
ないか。
 祈りのなかに僕はいる。世界人類が
平和でありますようにという
祈り言のなかに、僕はいるのだ。
 五井先生は遠くにいるのではない。
 ここにいるんだよ。一人一人のなかに、
君達のなかにいるんだよ。
 自在身のよろこびと、それゆえの
切なさとを、今、僕はしみじみと
味わっている。しかし、真理の光─神の
愛はこんなことでいささかもゆらぐ
ことはないのだよ。
 僕は白光を愛している。白光に
つながっている同志の一人一人を
愛している。しかし、僕の念願は、その
君達の祈りを結集して、真の人間の
進化にむけてのそなえを一日も早く
成し遂げたいということだ。
 神界の光を、今地上に放射して、肉体を
持ったまま霊人になってゆくという、今は
そのはじまりの時なのだよ。人間
というものの奥深さ、光の朗らかさを、
祈りのなかで覚えて欲しい。それは元々、
我々人間のなかにあるものだ。君の
なかにもあるのだよ。(疑ってはいけない)
 人のおもいを澄ませていれば、その時、
人は自然に光になってゆく。光
というものは、闇を照らして心と心を
結ぶものだ。そしてその心は、僕にも
通じているのだよ。
 この頃僕は、人生の真実ということを
考えている。真実に人生(天命)を
走り抜くということは、人の力だけでは
できることではない。その背後に、守護霊、
守護神があり、神の愛があり、ゆるしと
みちびきがあって、はじめて走りとおせる
のだ。けれど、ここで僕は、へんに宗教の
話をしたくはない。人生の真実を完うしよう
とおもえば、やはりやさしさなのだよ。
 どれだけのやさしさを人から受け、より
以上に人に返してゆくかということなのだ。
 宗教などという面倒な言葉より、ただ、
あたたかい、やさしい雰囲気を持った人
として生きてくれる方が、僕ははるかに
うれしい。宗教にもとらわれずにいて
くれ給え。世界平和の祈りは、そして
僕は、そうした君の助けをしてゆくわけ
だけれども。
 やさしさというものは、人の痛みを
覚えているとやさしくできるものだよ。
 相手に身をおくということだ。僕は
それをずっとやってきた。
 地上での六十余年はその連続だった。
 そして、今もそうしている。やさしさの
極みは神の愛だ。しかし、神の愛を仰ぐ
僕らのやさしさを目ざす旅は、これでいい
ということがない。お互いに、自己の
本心をかがやかそうではないか。
 僕が今、寂しさの中にいることを、君は
承知してくれていることとおもう。
 この寂しさも、真理の前に一瞬にすぎる
ものだとはおもう。しかし、寂しい。
 それは僕が認められないからではなく、
人が神の愛のなかに素直に溶け入る
ためには、どれほどの時をついやさなければ
ならないのかということを観じ切った上での
寂しさだ。こんなことを書くと、君は
困るだろうか?
 僕が神界に帰って、より人間らしく、
生き生きと、人のこころを持って生きて
いることを、僕は伝えたくてたまらないのだよ。
 僕だけではない。人はみな、こんな風に
生きているものだということを伝えて
ゆきたいのだ。そうすることで、みんな
本当の意味での安心を得られるのではないか。
 五井先生だからできているのではないのだよ。
 君も僕とおなじなのだよ。すなおであって
欲しい。よろこびにも悲しみにもすなおで
あって欲しい。僕に遠慮する必要はない。
 背のびをする必要もない。神様にかっこうを
つける必要はないのだからね。
 言葉は言霊だ。光がとびかっているのだ。
 言葉に光をやどすのではなく、元々光が
言葉になっているのだよ。
 又追伸をかくかも知れないが、とりあえず、
この短信をおくることにする。
 ほがらかに生きてくれ給え。

                  昌 久