私は今筆を走らせながら、今度のことをどうあなたに謝まれば
いいのかと言葉を失っています。
あなたが、今回、受けた傷の深さは、どういやしても、いやし切れる
ものではないと、あなたの心の苦しみを、ひびきのなかで受けとめて、
涙がとまらずにいるのです。
あなたが受けた拒絶と、孤独は、私にしかわからないだろう。
なぜなら、それは、素直な霊能、霊覚を持ち、赤児のように神に
素直な人が受けた孤独であり、拒絶だからだ。あなたが、否定
されたことは、私が否定されたことに他ならない。
けれども、私は、原稿をはじめとして、一連のこの私の声を受け留め、
正しく判断し、かつ、会が、本当の意味で発展してゆくためには、
是非とも、あなたという人を必要としたし、今も、そして
将来にわたって必要としていることにかわりはない。それは、ただ単に、
現世での私との、又、会でのつながりというばかりではなく、神界を
含めた真実の人間世界、人智から神智へと移りゆく、本当の大調和を
目ざし、また実成を大目標としておられる神の愛があなたという人を
選んだのです。
世界平和の祈りによって、大分、地球世界の波がかわったとはいえ、
心霊一如、肉の身のまま、霊人であることを自覚する朗らかな空気へと
移行させるためには、思い切った神界の英断が必要であった
わけなのです。実際、神界の一瞬のすぎゆきは、地上での
2・3年にあたっています。だから、あなたの家で錬成会を向こう三年間
開くといっても、こちらでは、それらはすでにおわって、いくつもの
成果が出ているといった具合なのです。このことは、霊界に自由な
霊身をはこぶことのできるあなたなら、容易に納得されることでしょう。
けれども、はがゆいことに、現在は、あの世をうつしたもの
でありながら、波動があらいために、いくつ何十もの業生の波を
受けねばなりません。およそ、あらわれというものは、それがよいこと
であれ、悪いことであれ、現世で、一つのかたち、あらわれとなる時
には、それにみあう抵抗を受けるものなのです。まして、私が、
はっきりしたあらわれ方をしたなどということについては、会自体の
幾つものおもいの枠があり、あなた自身にとっても、私のひびきを
感受しながら、会と会の方達との間にたって、どれ程苦しみ、また
孤独におちいったことかと、真実申しわけなくおもうのです。しかし、
それでも、人間の真性の目覚めのために、人類のかぎりない霊的
進化(なぜなら人間は霊そのものなのですから)のために、私は、
もう一度、地上に呼びかけねばならなかったし、それを、何のうたがいも
迷いもなく、感受出来るのは、あなたしかいなかったのです。いや、今も
いないのですよ。でも、つくづく霊的ということについての孤独の深さを
考えるとため息がでますね。
それは勿論、どんな賜物も、神様からきているもので、上下なんか
あるはずはないんだけれど、宗教という、神のみこころを伝え、また体現
してゆく世界では、その教祖や、指導者、神に仏に、従っていった
先覚者は、みんなすぐれた霊覚を持っていた。現代でも、宗教の本当の
生命─つまり、人間のいのちが、大神様、宇宙神のみこころに
溶け入って、遂に愛の光の一筋となる生命を語るためには、こうした
すぐれた霊覚を得た指導者を持っていなければ、その宗教は、
日ならずしてほろんでしまうんだ。
けれど、こういう霊覚を得ながら、肉の身をまとい、肉体人間の
言葉(不自由な)を語ることが、どれほど辛く、大変なことかは、
これは、経験した者でなければわからない。
神のひびきそのままを伝えたい気持ちに幾度となくかられ、しかし、
それはまだ許されてはいないことなのだ。
神様は、生命を投げ出した私に、私の悟る以前の個性を残して
下さった。だからこそ、私はどんな人とも、肉体の私として、気軽に
話ができたし、地球全体、広く宇宙人類のために、わかりやすく、
真理の言葉をその人に合わせて語ることができた。
現代という時代には、一時代前の聖者的なおもかげを色濃くした教祖
よりも、およそ、人間らしい、教祖らしくない教祖が、そして宗教の
くさみのない宗教が求められたわけだ。そんななかで神我一体以後の
私は、実にさまざまな人に出会い、神の愛を説きながら、その一方で
真理を直裁に語り切ってしまいたい気持ちにかられ、孤独になり、そして、
その孤独をいやして下さったものは、ただ神の愛であったのです。
だから、あなたがある人を介して、私を訪ね、大法山の歌の不思議を
たずねてきた時、あなたのなかに、本当にすぐれた霊能を感じ、同時に、
あなたのためにやり切れない思いにおそわれたことを告白しましょう。
この人も私もおなじような孤独に、苦しめられ、或る意味で、自分を
神に預けながら、ひとりになり切ってゆかねば、道がひらいて
ゆかないのかというのが、その時、私のおもったことであり、
私のおよぶ限り、あなたの孤独は、私がいやそうと瞬間に
感じ切ったのでした。
霊能霊覚を持つ者の孤独は、他人よりもはやく真理をしらされること
であり、そういった事実、状況を、他人が、徹底的に理解しないと
いうところに生まれるのです。
おなじ肉体身でありながら、そして、おなじ言葉を交わしながら、
霊能を得た人は、神の言葉を預かる預言者としての役割を、肉の身と
同時に与えられていて、そのことが、その人の人生を狂わせもし、また
かなしみを味わうことにもなってゆくのです。これは、本当に不自由な、
理不尽きわまりないことです。しかも、心ある宗教者は、これを耐え、
これをよしとしなければなりません。なぜなら、それが、神のみ旨
であり、おおみこころを、地上にあらわすためだからです。
私は、さっきから霊能霊覚といっていますが、もとよりこれは、
あなたの霊能霊覚を指すのです、そして、こうしたすぐれた霊能霊覚は、
何よりも、神様に素直な霊覚ということなのです。宇宙万法の源
である神の愛、千古よりの真理につながる霊覚は、神に素直という、
ただこの一点からのみ与えられるものであります。千の知識も、
万の富も、それだけでは、永遠のいのちの流れ、真実の人間の姿に
つながるものではありません。たとえ、これらのものをすべて失っても
神につながるまっすぐな道は、素直に神をしたう心、神を求め、その
みこころが、完全に地上にあらわれることを祈り求める心なのです。
神にすなおということは、ただやさしさばかりでは成り立ちません。
やさしさの中に、本当のつよさがつちかわれなければ、その
すなおさは、みがかれず、又、永続しないのです。神にすなおと
いうことをつらぬこうとするのは、この世的には、だから大変至難な
ことなのであります。
現世に生きる以上、霊要素だけで、人が生きてゆける筈はありません。
肉体を養うために、人間は喰べもし、又飲みもしなければなりません。
そしてこの必要最小限の条件を満たすためには、人は社会の中で、
職を得、立場を得なければなりません。宇宙神から分かれた神の
分生命(わけいのち)である、本来の人間の本心本体のかがやきが、
こうした日々の必要に迫られるなかで、いつしか霊波動、精神波動
よりも、物質波動優先となり、業想念が渦まいて、光の子である真性を
失っていったのです。こうしたことは、あなたには今更という気も
なくはないのですが、あなたが今、おちいっている世界、孤独の世界は、
業想念におおわれた肉体人間の性質、思いグセに他ならないからです。
あなた方の会といえども、神様の世界、完全調和の世界からみれば、
まだまだ人間の業というものが、幅をきかせています。在世中、会員
のみならず、会員の家族その他、私のところに訴えられる業の波を、
私は瞬間瞬間に世界人類が平和でありますようにという、祈り言の
なかで光にかえ、或いは人類の持つ想念の波を浄めながら、それでも
なお、業の波は、情ようしゃなく、私に押しよせてくるという歎きを、
詩にうたったことがありました。あなたは覚えているでしょうか、勿論、
私は、人間の真性が光であることを識っていますから、この歎きに
とらわれることはありませんでしたが、それでも、一瞬、深く、
その歎きは私をとらえ、うたわずにはおかない気持ちへと私の心を
駆り立てたのです。
この人間世界が、人智から神智へとむかうためには、肉体を脱いで
自在身となった神界の私と、救世の大光明団に支えられている、会の
二つながらの働きが会長を助け、三位一体の愛の光として、働か
なければならない時期にさしかかったのです。あなたが両者から受けた、
いやしようのない苦しみは、実は私がもし肉体の個我、宗教者、教えを
ひらいた者の宿命として、多くの人のなかで、霊覚のままに語ることを
神から許され無かった私が、人間としての孤独に押し流され、その禁を
破ったとすれば、容易に受けたであろう苦しみです。
人は宗教に救いを求めながら、自らの理解を超えた世界には、
実に冷淡なものです。そして、このうらやましさのなかには、真の
霊覚を得た者に対するうらやましさと、及びがたしと敬して遠ざける
思いと、平凡な肉体人としての感情が入りまじっています。奇跡が
おこる、ありうるということを頭のなかでは理解しても、事実目の前に
提出されると、これを拒む頑迷さから、まだ、人類世界はいくらも脱皮
していません。そんななかで、世界平和の祈りの大光明に守られて、
宇宙神のみこころ深くまで、祈りの階段を上ることのできるうちの会の
人達は、まだしも、久遠の神の光をあびているのです。
祈りが、真理が絶対であればある程、その真理の相(すがた)に
反した姿をみせつけられること─これほどのかなしみはありません。
いくら消えてゆく姿といっても、中々にその傷がいつまでに
いえますよという現世での、軽い人間同志の口約束のようにはゆかない
でしょう。なぜなら、その傷を負ったのは、あなたの心だからです。心
というものが、かなしみにみたされた時、どれほど人に対して、又、
社会に対して、その傷をいやすまで、固く己れを守り切るかは、私は
これをよくよく知っているのです。
けれどね、あなたの間違っているところが唯一つだけある、なるほど、
接しられた二人に代表されるやり切れない人間の業というものに、
あなたは沈んで、心を閉ざしているけれども、あなたの閉ざせる範囲は、
人間と、人間がつくった、社会までではないか、神に対して、神の
永遠の愛とゆるしに対して、あなたは心を閉ざしたのでしょうか、
閉ざすことはできない。そうではありませんか。赤児のように純な神に
素直なあなたのたましいを、私は切なくおもうと同時に、限りなく愛して
抱いてきたのです。今もなお抱いています。私のというより、神への
赤誠をまれな賜物として与えられたあなたの天命と、その天命に対する
信頼とは、今度のようなことで、いささかもゆらぐことはありません。
会が味わうべき生みの苦しみを、あなたは、両者からの、もうれつの
反発拒絶というかたちで受けて、消して下さったのです。人を
追いこんでおいてと思うかも知れないけれど。会が果たしてゆくべき
役割は、まだまだ大きく深いものがあります。しかし、それも、神様に
すなお、神智にすなおという心があってはじめて成し遂げられるもの
であって、その資格を失えば、会は、この深く大きな働き手としての
かがやきを失うでしょう。二人の大きな個人の業生を、あの時消して
下さったと同時に、菩薩行としてのあなたの祈りの使徒としての天命が
あらわれたのだと思って下さい。
私の流れ、働きは、7月にあなたが彼女に会った時に、自ら断じた
ように、こういう具体的な流れは、他にあらわれてはゆきません。
あなたの天命、彼女たち二人の天命は、それぞれにちがったものです。
ちがったものでありながら、この三者は一つの働き─神のみこころを
地上にあらわすということにおいて一つなのです。
統一の中でどうか、私によびかけて下さい。神の智恵がつねに
あなたを守られますように、あせる必要はありません。
昌 久
いいのかと言葉を失っています。
あなたが、今回、受けた傷の深さは、どういやしても、いやし切れる
ものではないと、あなたの心の苦しみを、ひびきのなかで受けとめて、
涙がとまらずにいるのです。
あなたが受けた拒絶と、孤独は、私にしかわからないだろう。
なぜなら、それは、素直な霊能、霊覚を持ち、赤児のように神に
素直な人が受けた孤独であり、拒絶だからだ。あなたが、否定
されたことは、私が否定されたことに他ならない。
けれども、私は、原稿をはじめとして、一連のこの私の声を受け留め、
正しく判断し、かつ、会が、本当の意味で発展してゆくためには、
是非とも、あなたという人を必要としたし、今も、そして
将来にわたって必要としていることにかわりはない。それは、ただ単に、
現世での私との、又、会でのつながりというばかりではなく、神界を
含めた真実の人間世界、人智から神智へと移りゆく、本当の大調和を
目ざし、また実成を大目標としておられる神の愛があなたという人を
選んだのです。
世界平和の祈りによって、大分、地球世界の波がかわったとはいえ、
心霊一如、肉の身のまま、霊人であることを自覚する朗らかな空気へと
移行させるためには、思い切った神界の英断が必要であった
わけなのです。実際、神界の一瞬のすぎゆきは、地上での
2・3年にあたっています。だから、あなたの家で錬成会を向こう三年間
開くといっても、こちらでは、それらはすでにおわって、いくつもの
成果が出ているといった具合なのです。このことは、霊界に自由な
霊身をはこぶことのできるあなたなら、容易に納得されることでしょう。
けれども、はがゆいことに、現在は、あの世をうつしたもの
でありながら、波動があらいために、いくつ何十もの業生の波を
受けねばなりません。およそ、あらわれというものは、それがよいこと
であれ、悪いことであれ、現世で、一つのかたち、あらわれとなる時
には、それにみあう抵抗を受けるものなのです。まして、私が、
はっきりしたあらわれ方をしたなどということについては、会自体の
幾つものおもいの枠があり、あなた自身にとっても、私のひびきを
感受しながら、会と会の方達との間にたって、どれ程苦しみ、また
孤独におちいったことかと、真実申しわけなくおもうのです。しかし、
それでも、人間の真性の目覚めのために、人類のかぎりない霊的
進化(なぜなら人間は霊そのものなのですから)のために、私は、
もう一度、地上に呼びかけねばならなかったし、それを、何のうたがいも
迷いもなく、感受出来るのは、あなたしかいなかったのです。いや、今も
いないのですよ。でも、つくづく霊的ということについての孤独の深さを
考えるとため息がでますね。
それは勿論、どんな賜物も、神様からきているもので、上下なんか
あるはずはないんだけれど、宗教という、神のみこころを伝え、また体現
してゆく世界では、その教祖や、指導者、神に仏に、従っていった
先覚者は、みんなすぐれた霊覚を持っていた。現代でも、宗教の本当の
生命─つまり、人間のいのちが、大神様、宇宙神のみこころに
溶け入って、遂に愛の光の一筋となる生命を語るためには、こうした
すぐれた霊覚を得た指導者を持っていなければ、その宗教は、
日ならずしてほろんでしまうんだ。
けれど、こういう霊覚を得ながら、肉の身をまとい、肉体人間の
言葉(不自由な)を語ることが、どれほど辛く、大変なことかは、
これは、経験した者でなければわからない。
神のひびきそのままを伝えたい気持ちに幾度となくかられ、しかし、
それはまだ許されてはいないことなのだ。
神様は、生命を投げ出した私に、私の悟る以前の個性を残して
下さった。だからこそ、私はどんな人とも、肉体の私として、気軽に
話ができたし、地球全体、広く宇宙人類のために、わかりやすく、
真理の言葉をその人に合わせて語ることができた。
現代という時代には、一時代前の聖者的なおもかげを色濃くした教祖
よりも、およそ、人間らしい、教祖らしくない教祖が、そして宗教の
くさみのない宗教が求められたわけだ。そんななかで神我一体以後の
私は、実にさまざまな人に出会い、神の愛を説きながら、その一方で
真理を直裁に語り切ってしまいたい気持ちにかられ、孤独になり、そして、
その孤独をいやして下さったものは、ただ神の愛であったのです。
だから、あなたがある人を介して、私を訪ね、大法山の歌の不思議を
たずねてきた時、あなたのなかに、本当にすぐれた霊能を感じ、同時に、
あなたのためにやり切れない思いにおそわれたことを告白しましょう。
この人も私もおなじような孤独に、苦しめられ、或る意味で、自分を
神に預けながら、ひとりになり切ってゆかねば、道がひらいて
ゆかないのかというのが、その時、私のおもったことであり、
私のおよぶ限り、あなたの孤独は、私がいやそうと瞬間に
感じ切ったのでした。
霊能霊覚を持つ者の孤独は、他人よりもはやく真理をしらされること
であり、そういった事実、状況を、他人が、徹底的に理解しないと
いうところに生まれるのです。
おなじ肉体身でありながら、そして、おなじ言葉を交わしながら、
霊能を得た人は、神の言葉を預かる預言者としての役割を、肉の身と
同時に与えられていて、そのことが、その人の人生を狂わせもし、また
かなしみを味わうことにもなってゆくのです。これは、本当に不自由な、
理不尽きわまりないことです。しかも、心ある宗教者は、これを耐え、
これをよしとしなければなりません。なぜなら、それが、神のみ旨
であり、おおみこころを、地上にあらわすためだからです。
私は、さっきから霊能霊覚といっていますが、もとよりこれは、
あなたの霊能霊覚を指すのです、そして、こうしたすぐれた霊能霊覚は、
何よりも、神様に素直な霊覚ということなのです。宇宙万法の源
である神の愛、千古よりの真理につながる霊覚は、神に素直という、
ただこの一点からのみ与えられるものであります。千の知識も、
万の富も、それだけでは、永遠のいのちの流れ、真実の人間の姿に
つながるものではありません。たとえ、これらのものをすべて失っても
神につながるまっすぐな道は、素直に神をしたう心、神を求め、その
みこころが、完全に地上にあらわれることを祈り求める心なのです。
神にすなおということは、ただやさしさばかりでは成り立ちません。
やさしさの中に、本当のつよさがつちかわれなければ、その
すなおさは、みがかれず、又、永続しないのです。神にすなおと
いうことをつらぬこうとするのは、この世的には、だから大変至難な
ことなのであります。
現世に生きる以上、霊要素だけで、人が生きてゆける筈はありません。
肉体を養うために、人間は喰べもし、又飲みもしなければなりません。
そしてこの必要最小限の条件を満たすためには、人は社会の中で、
職を得、立場を得なければなりません。宇宙神から分かれた神の
分生命(わけいのち)である、本来の人間の本心本体のかがやきが、
こうした日々の必要に迫られるなかで、いつしか霊波動、精神波動
よりも、物質波動優先となり、業想念が渦まいて、光の子である真性を
失っていったのです。こうしたことは、あなたには今更という気も
なくはないのですが、あなたが今、おちいっている世界、孤独の世界は、
業想念におおわれた肉体人間の性質、思いグセに他ならないからです。
あなた方の会といえども、神様の世界、完全調和の世界からみれば、
まだまだ人間の業というものが、幅をきかせています。在世中、会員
のみならず、会員の家族その他、私のところに訴えられる業の波を、
私は瞬間瞬間に世界人類が平和でありますようにという、祈り言の
なかで光にかえ、或いは人類の持つ想念の波を浄めながら、それでも
なお、業の波は、情ようしゃなく、私に押しよせてくるという歎きを、
詩にうたったことがありました。あなたは覚えているでしょうか、勿論、
私は、人間の真性が光であることを識っていますから、この歎きに
とらわれることはありませんでしたが、それでも、一瞬、深く、
その歎きは私をとらえ、うたわずにはおかない気持ちへと私の心を
駆り立てたのです。
この人間世界が、人智から神智へとむかうためには、肉体を脱いで
自在身となった神界の私と、救世の大光明団に支えられている、会の
二つながらの働きが会長を助け、三位一体の愛の光として、働か
なければならない時期にさしかかったのです。あなたが両者から受けた、
いやしようのない苦しみは、実は私がもし肉体の個我、宗教者、教えを
ひらいた者の宿命として、多くの人のなかで、霊覚のままに語ることを
神から許され無かった私が、人間としての孤独に押し流され、その禁を
破ったとすれば、容易に受けたであろう苦しみです。
人は宗教に救いを求めながら、自らの理解を超えた世界には、
実に冷淡なものです。そして、このうらやましさのなかには、真の
霊覚を得た者に対するうらやましさと、及びがたしと敬して遠ざける
思いと、平凡な肉体人としての感情が入りまじっています。奇跡が
おこる、ありうるということを頭のなかでは理解しても、事実目の前に
提出されると、これを拒む頑迷さから、まだ、人類世界はいくらも脱皮
していません。そんななかで、世界平和の祈りの大光明に守られて、
宇宙神のみこころ深くまで、祈りの階段を上ることのできるうちの会の
人達は、まだしも、久遠の神の光をあびているのです。
祈りが、真理が絶対であればある程、その真理の相(すがた)に
反した姿をみせつけられること─これほどのかなしみはありません。
いくら消えてゆく姿といっても、中々にその傷がいつまでに
いえますよという現世での、軽い人間同志の口約束のようにはゆかない
でしょう。なぜなら、その傷を負ったのは、あなたの心だからです。心
というものが、かなしみにみたされた時、どれほど人に対して、又、
社会に対して、その傷をいやすまで、固く己れを守り切るかは、私は
これをよくよく知っているのです。
けれどね、あなたの間違っているところが唯一つだけある、なるほど、
接しられた二人に代表されるやり切れない人間の業というものに、
あなたは沈んで、心を閉ざしているけれども、あなたの閉ざせる範囲は、
人間と、人間がつくった、社会までではないか、神に対して、神の
永遠の愛とゆるしに対して、あなたは心を閉ざしたのでしょうか、
閉ざすことはできない。そうではありませんか。赤児のように純な神に
素直なあなたのたましいを、私は切なくおもうと同時に、限りなく愛して
抱いてきたのです。今もなお抱いています。私のというより、神への
赤誠をまれな賜物として与えられたあなたの天命と、その天命に対する
信頼とは、今度のようなことで、いささかもゆらぐことはありません。
会が味わうべき生みの苦しみを、あなたは、両者からの、もうれつの
反発拒絶というかたちで受けて、消して下さったのです。人を
追いこんでおいてと思うかも知れないけれど。会が果たしてゆくべき
役割は、まだまだ大きく深いものがあります。しかし、それも、神様に
すなお、神智にすなおという心があってはじめて成し遂げられるもの
であって、その資格を失えば、会は、この深く大きな働き手としての
かがやきを失うでしょう。二人の大きな個人の業生を、あの時消して
下さったと同時に、菩薩行としてのあなたの祈りの使徒としての天命が
あらわれたのだと思って下さい。
私の流れ、働きは、7月にあなたが彼女に会った時に、自ら断じた
ように、こういう具体的な流れは、他にあらわれてはゆきません。
あなたの天命、彼女たち二人の天命は、それぞれにちがったものです。
ちがったものでありながら、この三者は一つの働き─神のみこころを
地上にあらわすということにおいて一つなのです。
統一の中でどうか、私によびかけて下さい。神の智恵がつねに
あなたを守られますように、あせる必要はありません。
昌 久