宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
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光が光にむかって 働きかけるということ

2023-01-24 08:34:36 | 祈り
自分を役立たせたい、お役に立ちたいという
気持ちは、実に尊いものであります。
ありがたいことでありますが、あまりに、
この気持ちに熱をおびさせますと、
やはり我(が)の世界へと引き入れられる
のであります。

私たちは、余程ここのところを
しっかりと見極めねばなりません。

私たちが、お役に立ちたいとおもう時、
それは具体的には、私たちの知っている
誰かに対してーということが多い
のであります。
たとえば、友だちが病気で苦しんで
いる、どこかいい先生はいないか
と言う時に、一生懸命世話をする、
また、自分の知っているお医者さんに
連れてゆく、それでようやく治って
みると、自分が思った程には友だちが
感謝してくれない。
こういうことはよくある話であります。

これはなぜこうなるのかと申しますと、
苦しんでいる友たちをみて一生懸命に
動いたその時には、お役に立ちたい
という気持ちが、純粋に働いていた
わけであります。
むしろ、この気持ちによって、心が
もえたということがいえるかも知れません。

お役に立ちたいという心、愛念が、
その人を突き動かしたわけであります。
この時には、ただもう友だちの苦しみが
取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。

それで、いろいろ動いて、その結果、
元気になってきますと、本当によかった
と思う。
ところが、すっかり元気になって、
その友だちがお礼は言ったのでしょうが、
そのお礼の言い方が、動いた方としては、
何かあっさりしていて、物足りない。
そして、物足りなさを感じているうちに、
今度は、自分があれだけ動いてやったのに、
友だちはわかっているのかしらという
気持ちになってくる。

こうなると、もう「お役に立ちたい」は
どこかへ行ってしまっている。

お役に立ちたいという気持ちは、
汚されない、純なものであります。
この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。
それがおかしくなったのは、自分が
目の前の友だちのために一生懸命動いた
という気持ちにとらわれたから
なのであります。

人間というものは、神様の光なのだ、
光の一筋なのだということは、つねづね
申し上げていることでありますが、
お役に立ちたいという気持ちを
じっとみていますと、それはただ、
光が光にむかって働きかけている
ということなのであります。
つまり、私たちは、具体的には、自分の
知っている誰かを通して、光として動く、
光明を発揮しているということに
なるのであります。

ですから、お役に立ちたいというのは、
本来、誰かのために動くとか何とか
というようなものではないのでありまして、
それでいいますなら、神様のために、
このいのちを、幾分かでも働かせて
いただいたということなのであります。

要は、あまり、お役に立ちたいと
思いつめず、ふんわりと、神様に
その気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを
使って下さるということなのであります。

のんびりと、ふんわりと参りましょう。

世界人類が平和でありますように
         合 掌
          昌 久