歳を取ると喜びも楽しさも悲しみも恨みもだんだん予想がついて、よほどの非常事態が起こらない限りは「あぁこの程度か」と脳が慣れてしまって、世界が灰色になる。
先日「牡蠣食べたいな〜」とポロッと呟いたら、夫が「牡蠣は食べたら食べたで美味しいとは思うけど、もうあの体験を超えることはないと思う」と言った。
あの体験というのは、まだ私達2人が独身の頃で、佐賀だったか長崎だったか道路脇に沢山あった、いわゆる牡蠣小屋でバケツ1杯1000円(当時)の牡蠣を炭火で焼いて、たらふく食べた体験のこと。
割と最近行ったらコロナ禍でその多くがつぶれてしまったようで当時の面影は残っていなかったし、近年の原料高で1000円では売っていなかったし量もバケツいっぱいなんてことはなかった。
そして私達も中年になり『たらふく』食べることは機能上もうできないのだった。
多分一部のことは実際そうで、仮に新鮮な体験をしても脳みそに刻み込まれず、そのまま痴呆の彼方に気持ちも記憶も一緒に押し流されてしまう。
感情を誘発するホルモンや脳内物質も潤沢ではなくなりカラカラになってるのかしら。
ちょっと物悲しい。
逆に言うと今、私がとても恵まれているから変化のない生活なのであって、本当にホルモンバランスに異常をきたしたり、恵まれた環境でなくなったら否が応でも感情の波に飲まれるのだから、これはこれでヨシとしよう。
感情の波に飲まれまくっていた若い頃が果たして幸せだったかというと、そういうわけではなかったし。
あれが一番◯◯だった、と思うのはその瞬間には分からないことで、後から振り返って意味づけされるのだから、感情が薄かろうとなんだろうと(まぁまぁとりあえず体験してみようじゃないの)と思っておくことは大事かもしれない。
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