神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.99 恵澤千載

2024-03-04 16:02:58 | 御料地
 昨日の最後、少し落ちてしまいましたので補います。
 多胡・田子・田古の語源は、アイヌ語の「tapkop=たㇷ゚こㇷ゚:ぽつんと立っている山」でしょう。これが「tako=tago」で漢字が当てられ(発音され)、さらに「takao=高尾」、その前に「たんこぶ=tankobu」です。
 上の「たご」についてはほかの例を知りませんが、「高尾」と名付けられた山はほぼ無数にあります。これは「たんこぶみたいなポコポコした小山」があちこちにあるのですから当然です。多胡碑のある高崎市吉井のあたりもそうです。 ・・・くれぐれも楽しみながらのことであることを忘れないください。


       朴と「昼の訪問者」

 今日は、先日の続きとして「碑文」を紹介します。
 「No.96 米山行」で「千貫開墾圃場整備竣工記念碑」を載せましたが、読めましたか。こういうことは、御料地かどうかにかかわらず、全国のどこでもあったことです。そういう意味で、
『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)は、測量史や御料地関係だけでなく、郷土史としても重要な手掛かりや視点を与えてくれるものです。ぜひ生かしていただきたいと思います。
 まず、碑のありかを説明します。
 No.96の地図で(二つのどちらでもOK)、西の蕪栗沼から流れ出た旧迫〔はざま〕川が、北から流れてきた旧迫川と合流して下ると「三ツ口」・「三ツ口橋」に来ます。この橋を北から南に渡ったすぐ東脇に建てられています。
 この碑のところから、旧迫川を北の境界とし、南にある道路を南の境界として、東に細長く「遠田第一御料地」がありました。また、旧迫川を境にして南の碑があるところは大貫村です。元の碑文は漢字・カタカナまじりですが、下の碑文は紹介のためですから、私が、読み下し文にしておきましたので、そういうものとして読んでみてください。この地域の開拓の歴史の概要がわかると思います。ではがんばってください。

【碑文】
 恵澤千載
 宮城県知事 従四位 勲三等 林信茂 題額
帝室御料地である下谷地は、これまで低湿地の原野で葭・萱・秣の採取地であったが、不要存置御料地処分令が出されたので、大正12年に本村〔大貫村〕はこの払い下げを受けた。そして、北上川改修工事の完成が近づいた昭和8年になって、開墾の機運が熟してきたので村会の議決を経て起工の出願をしたが、この当時の宮城県では迫川沿岸地域を一丸として開墾する計画があったため、単独起工は認可されなかった。その後幾多の紆余曲折を経て昭和11年に至った。この時、本村は経済更生特別助成村として指定されたので、その施設の一つとして50町歩の開墾を行い、これを村内38の農事実行組合の共同収益地とし、さらに他の50余町歩は、耕地整理の恩恵を受けられない一般村民に耕作させる目的で開墾計画を樹立し、その許可を得た。こうして昭和12年1月、工事着手以来の県の懇篤なる指導監督と村民の協力並びに関係委員職員等の奮励努力と相まって着々と進捗し、ここに輝かしき紀元2600〔1940〕年を迎えて、これまで遊水地の観があった荒蕪地は美田となった。実に感慨無量である。これはひとえに天の時と人の和との賜であって、戦時下に資源開発のために貢献し、また基本財産の造成による村財政の基礎を鞏固にすることができたのはまことに幸慶である。今後はますます資源愛護の精神をもって心を合わせて一体となって働き、専らこの維持管理に努めることが肝要である。ここに下谷地開墾に関する概要を記録し永く後世に伝える。昭和15年10月

 以上。ごくろうさまでした。
 この地域は、迫川の蛇行のうえ、無数の沼沢地が散在するすさまじい地形でした。その一端は先日の地図でもわかっていただけるものと思いますが、御料局の神足の課寮は、関係者立会いのもとこれを踏査し、それにもとづいて測量しました。
 これについて、すでにおおむね調べが付きましたから、そのデータを宮城県公文書館に提供しました。その後どう扱われている不明ですが、見られるようならご覧ください。
 今日はここまでです。


 くっつきあって・・・いいね。

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