神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.75 説明はまだ・・・

2024-02-09 23:59:42 | 御料地

     朴:〽い~とし~きはなよ~ 名~は・・・

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の解題13ページ以下で、神足が御料局に入る前に3回、入局後に2回巡回に山梨に入っていることを書きました。

 その神足の巡回の前には、山梨県の地勢についての「一般に普及した正確な知識」はなかった、あるいは知られていなかった、ようです。
 というのは、上記の日記では割愛しましたが、元の『神足日記』で、神足は3回目の巡回後に長いまとめを書いて、最後につぎのようにまとめています。

 「甲斐の地勢、大略この如し。しかして、気候温順、百般能〔く〕実り、人
 民富裕、隣州に冠たり。該州の首府たる甲府の如き、人口万余に過き、工芸
 の道能く開け、文化普く播き、敢て帝都の観に譲らさるなり。」

 すごい評価です。
 今風に言えば、山梨県は気候はよい、なんでもよく実る、県民は豊か、この周辺の県の中で一番だ。県都の甲府は人口が万を越え、工芸や文化が広く行き渡って、東京に劣らない、となります。
 
 私は、この記述を読んだとき、のちに山梨県の山林のほぼ全部を御料地に編入した理由を納得しました。
 どういうことかというと、こういう編入の形は、岩手県遠野市の周辺にそっくりあてはまります。また、やや崩れますが、青森県の下北半島の御料地、八戸周辺の御料地、宮城県の仙台周辺の御料地、群馬県の赤城山・榛名山の周辺の御料地、栃木県宇都宮周辺の御料地、要するに、関東・東北のいずれの御料地も、その地域の拠点となる所や何かの事業に着目して設定されているとみえます。

 とはいえ、まだその実証がありません。しかし、当時の国家観〔国土感〕の解明ともいうべき大きな課題としてまだそれがあると考えています。
 山林がそのようにあったからでは説明になりません。誰がそれをそう認識したかです。
 そういう目で、次の恩賜林位置図を見てください。 
 

  「恩賜林について」(山梨県恩賜林保護組合連合会)より

 この地図の中の緑の箇所が「恩賜林」と言われている箇所です。明治以降で変化はありますが、概ねこれでわかると思います。これがすべて御料地として編入されていたわけです。
 このブログでまだ取り上げていない箇所がたくさんありますが、これまで取り上げた芦川・甲府・塩山の辺りについてだけでも、神足が何を見ていたのか、ある程度は推測がつくのではないかと思われます。
 もちろん、上に書いたようにまだ証明されているわけではありませんから、推測の範囲を出ませんが・・・。

 それから、前に書きましたが、明治40年ころの大水害があって苦しんでいる様を見て天皇が哀れに思い県に払い下げたという評価、これは「間違いとは言えない」けれども、「慈恵・慈悲」だけでこれらの膨大な山林を払い下げることは不可能と見るのが当然と思われます。

 払下の本当の理由は、ひとつは入会に手を焼いていたこと、もう一つは神足らの測量事業が進んで、木曽御料林をはじめとする世伝御料地の確定に目途が立ったこと、これがなければ不可能な判断であるということです。

 またまた話が大きくなり眠れなくなりました。では。


 なぜ啼くの?


    


 

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