神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.95 涌谷

2024-03-01 00:00:47 | 御料地
 酒田を出て陸羽線で宮城県の涌谷に行きました。
 酒田から羽越西線で7時40分発ー新庄8時50分着。1時間10分停車。羽越東線として10時発ー12時8分小牛田〔こごた〕着。石巻線に乗り換えて12時29分発ー同40分ころ涌谷着。
 涌谷の辺りにはもう何度も通っていますが、この時は、周辺のようすを見直してみたいというのが理由でした。(涌谷がかつて金の産地であったとか、東日本の震災の関係など、その他はいずれとして略します。)

 まず、このあたりの変化のようすを次の地図で示しましょう。
 次の(1)(2)を相野沼を目安に比較してみてください。

(1)かつての沼があった地域 

(2)現在のようす

 それから、(3)は涌谷南東の名鰭沼〔なびれぬま〕があった一帯です。ここは出来川を目安に注目してください。完全に耕地化されています。

(3)出来川周辺
 

 この一帯の眺望には、北にある加護坊山〔かごぼうやま〕からがよいので、だいぶ前に上りましたが、それだと麓がよく見えません。そこで今回は麓の涌谷城から見てみようと思ったわけです。
 つぎに(4)(5)を見てください。城からの眺望です。転落防止の柵が写っていて煩わしいですが、ご容赦を。
 下に流れる川は、近世の舟運で涌谷が盛った動脈の江合川〔えあいがわ〕です。
 前方の街が涌谷です。駅は右岸方向、遠方は石巻方向です。
 左にわずかに見えているのが、前に取り上げた「北京建都」に伴って建言された「離宮候補地」の旭山の山すそです。

(4)南東方向の眺望

(5)南方向の眺望
 
 上の一帯は、昭和の頃までかなりが湿地帯〔兼遊水地〕でした。このい付近にあった名鰭沼などは、明治の頃に御猟場・御漁場にもなっていたこともある地域です。ここは、漁業・利水などの入会や治水をめぐってしばしば争議が生じるので、その解決のために御料地化が提言された経緯があるところでもありました。それが現在では整備されて耕地化されています。歩くとあちこちに記念碑が建てられているのに気付くと思います。
 その一つとして、涌谷城の東の上り口に次の碑があります。
 これは遠田郡長を務めた鈴木純之進を顕彰しての碑です。碑文は全文が漢字文です。碑文はかなり風化していて、読み取りにはかなり努力が必要です。しかし、なんとか読み取って読み下し文を作りました。今日はもうスペースも時間もありませんから割愛して、後日、機会をみて紹介する予定です。

(6)鈴木純之進頌徳婢

  *写真を差し替え(訂正し)ました

 それから、このあたりは、全体が湿地帯だったというだけでなく、そもそもこの付近を流れる鳴瀬川〔なるせがわ〕などの河川が上流から土砂を運んでくるために河床が上がり、それが堆積して氾濫を起こす所でもありました。
 少し話が広がってしまいますが、鳴瀬川の河口付近には野蒜があります。野蒜には、明治9年頃に大久保利通ら港湾建設を企図しています。それが失敗した原因の一つが、鳴瀬川の運んでくる土砂の多さだったのです。
 次の写真を見てください。涌谷から少し下ったところに架かる木間塚橋〔きまづかばし〕から撮ったものです。完全に河床が上がってきていて、遠くに見える集落の方が低く見えるのではないでしょうか。

(7)天井川

 成瀬川:土砂が堆積して天井川になっています

 長くなったついでに、木間塚の近くの赤井から撮った旭山の写真をお見せしましょう。

 今日はここまです。明日は加護坊山の北に広がる米山の辺りについて取り上げます。
 あ、そうそう、もちろん神足はこのあたりを歩いてます。
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の68ページ下、「明治21年7月9日」の巡回です。






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