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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

お電話多謝

2023-12-17 23:02:18 | 勝記日記

 15日に『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-」が日本林業調査会(J-FIC)から刊行されて、今日は朝からたくさんのお祝の電話(家電)を頂戴しました。

 私は電話が好きでないので、ふだんはまず電話を取りません。すでに仕事を止めましたから、仕事の電話はありませんし、仕事をやめて、前より時間が自由な「サンデー毎日」になるかと思ったら、予期に反して「月月火水木金金」となり、一日があっという間に終わってしまうからです。

 この年になれば、知り合いもよほどでないと電話をかけてきません。電話を待つような恋焦がれる人もいませんし、人恋しいと思うこともありません。ですから、電話は自分とは関係ないことばかり。たいがい作業を中断されるだけになっています。

 作業の中断だけならまだしも、サギ電話、不要品の回収、外壁の塗装、畳替え、利殖、墓地のほか、結婚相談まであります。

 ちょっと前に、ニヤリとしながらカミさんに

「結婚相談の電話が来たぞ」と話すと、

「なに言ってるの、子どもとか孫の相手探しよ」とやり返され、

「そうか、ちがうのか」とかぼやいて、

 ふだん乏しい「夫婦の会話」に花が咲いたかなと・・・。

 オット!

 今日はふだんとは打って変わった生活となりました。ブログの構想を考えているうちに、ついとお酒のペースの方が早くなってしまいました。

 ちなみに、神足勝記もいくらかは酒をたしなんだようです。でも、酩酊ということはあまり出てきません。「あまり」です。

 神足は、「貸席」ははっきり嫌ってますが、酒席は嫌いではなかったようです。そこは日記で確かめてみてください。

 ・・・・ずっと朱の入ったゲラばかりを読んできたので、きれいに出来上がった本は、まぶしくてまぶしくて、まだ落ち着いて読めません。

 

 

 

 

 

 

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『神足勝記日記』の先

2023-12-17 00:01:43 | 勝記日記

 

      朴

 きのう15日、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)が刊行され、私の手元にも、今日16日9時頃に届きました。

 いままだ感慨というほどのものはありません。というのは、今回のこの『神足日記』では、神足勝記やその課僚がおこなった測量事業をめぐる人間模様を知りうる歴史資料を残すという課題を果たせたというにすぎないからです。これは全体の3分の1程度のことです。

 残りの3分の2は何かというと、一つは、神足の前史である熊本から上京して以降、南校時代・地質調査所時代の調査事業のあたりまでを残す作業をすることです。これには、『勝記日記』の明治6年から24年の入局前までと、勝記の母伊喜の日記『清壽院殿御日記』を、二つながら整理するということがその範囲に入ってきます。というのは、勝記と伊喜は常々手紙のやり取りをしていたので、この両者をつなげることで再現に補いがつく場面がよくあるからです。

 例えば、明治14年9月25日からの出張について、勝記は、元の日記にも『回顧録』にも、どこそこをどう通って巡視したと書くだけですが、母伊喜は「此度信州ト甲ふ州ニ久ないへん」と書いています(『神足勝記日記』63ページに注記しました)。「久ないへん」は「宮内辺」と読めますから、地質調査所の事業が宮内省がらみであったことを証言したものとみられるので、伊喜の日記はこの記述を残しているだけで一級の価値があります。これを取り入れないという手はありません。もっとも、どちらももう入力作業は終わっていていつでも出版できます。

 もう一つは、測量事業の成果をまとめることです。これについて、総括は、本州については神足自身の「自明治26年度至40年度測量業務報告」(『神足勝記日記』345ページ)がありますし、北海道については、448ページに、報告したという記述もあるのでおよそはわかるはずです。問題は「総論」ではなくて「各論」ですが、おもな御料地の測量簿はすでに収集整理しておえてありますから、あとはそう難しい作業ではありません。

 おっとモトイ。ここからが難しいのです。一つ目も含めて、資金がない、これが現実。理想を現実が押しつぶす。クラウドファンディングでもやりましょうか。

 これまで自粛してきた、やらねばならないこと・やりたいことが多く、「私のサンデー毎日の実態は月月火水木金金」です。神足と課僚たちが営々として進めてきた測量事業のまとめの半分が終わったので早く先に行きたいですが、いまはまだ、どれだけの人に知ってもらえるか、これです。今が正念場です。

 『神足勝記日記』をご覧になって質問等がある場合はお寄せください。

 北桔橋門(きたはねばしもん)の夕空

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池辺源太郎

2023-12-13 01:26:11 | 勝記日記

 歳のせいもあり忘れてしまいかねないので・・・きのうの続きとして、池辺源太郎の履歴を紹介しておくことにします。といっても、池辺義象の兄の源太郎であるかどうかまだ確証がないので、あいまいな紹介ということになります。

 じつは、「池辺源太郎」で検索すると、国立公文書館に池辺源太郎という人を含めた147ページに及ぶ叙位のことが出てきます。そこで、そこに入ってみました。

簿冊標題は「叙位裁可書・明治三十五年・叙位巻十」、件名は「陸軍砲兵上等工長門多能誠ほか四十四名叙位ノ件」

 すると、136・7ページに「池邉源太郎」の履歴書がありました。いま役職上の異動のみを抜き出すと、次のようになります。昇給・昇叙は略。

 本貫/族籍:長崎県士族、生年月日:安政6〔1859〕年8月28日、

 明治12年3月12日 司法省等外出仕

   14年12月28日 長崎控訴裁判所詰

   15年3月29日 裁判所書記

   23年11月1日 長崎控訴院書記

   32年9月1日 長崎地方裁判所書記兼長崎地方裁判所検事局書記

   34年12月23日 (司法省賞勲局より)賞与

 これから、この人は34年まで長崎にいたことがわかります。もしこの人が池辺義象の兄の源太郎ならば、前回書いたように、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く- 』日本林業調査会(J-FIC)の明治38年8月7日の項に、東京で亡くなったことがありますから、34~38年7月の間に異動が発令され、上京したことになります。

 次に、「長崎県士族」とあります。これは、昨日取り上げた池辺武人の履歴書に、「本籍地」欄に「熊本市」とありますから、違和感があります。もっとも、本籍地は熊本だが、長崎県の士族ということならありえるのかもしれません。もちろん、神足勝記の本籍は熊本です。

 そして、生年月日が安政6〔1858〕年8月28日とあります。妻の波が慶応2〔1866〕年11月7日生まれでしたから、約8歳年上となり、これはあり得ると思われます。そうなら、源太郎は1905年8月7日死亡ですから、47歳少し前に亡くなったことになります。

 最後に、源太郎の職業ですが、この履歴では裁判所の書記をしていたことになります。しかし、池辺源太郎が裁判所書記をしていたと「勝記日記」に書かれていたかどうか、残念ながら記憶がありません。

 この件、後日を期して書き止めておくことにしました。

 

   

 

 

 

 

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池辺源太郎・池辺義象

2023-12-12 00:13:13 | 勝記日記

 昨日は、神足勝記と池辺義象が5親等の親族であることを見ました。もともとの神足勝記の『日記』から『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))を編纂するにあたって、私事(プライバシー)に関する関するところは割愛・削除しましたが、親族や熊本人の交友に関わる箇所は歴史資料としても重要と思われましたから、できるだけ残すようにしました。その一つが親族関係ですが、最終的にこの日記に関して把握できたものを家譜図としてまとめたものが次のものです。

 昨日も述べましたが、義象(よしかた)についてはいろいろと研究があって、その中で家族のことも言及されていますから、上の家譜図の様子は割合に容易につかめました。しかし、源太郎については何もわからずでした。ところが、2020年2月に、源太郎の四男の池辺武人の履歴・戸籍が『進退録8 昭和2年』(宮内公文書館蔵、識別番号20868-8)687号から見つかりました。

 池辺武人は明治34年1月に生まれ、大正7年熊本濟々黌卒業、大正12年東京帝大農学部林学実科卒業、同年4月から付属演習林嘱託、14年5月大日本山林会編集委員を兼任したのち、昭和2年宮内省内匠寮に入ります。

 武人が入省前に本多静六の下で小諸城懐古園の設計に従事したこと、戦後、日光田母沢御用邸の造営を担当したこと、新宿御苑に勤務したことなどの公的なことは、ウィキペディアなどでもまとめられていますが、源太郎や義象とは結び付きませんでした。それが、履歴書の発見によってつながりました。これは今後の研究でも役立つと思われます。ただし、ここではブログの容量もあり、人的構成だけにとどめます。

 まず、源太郎は、父軍次と母幾喜の長男(生年不明)として生まれました。のち、梅原波(慶応2(1866)年生)と結婚し、7人の子を儲けたようです。上から、芳江(長女:明治21年生)、万亀(二女:26年生)、栄弘(二男:29年生)、譣三(三男:31年生)、武人(四男:34年生)、軍治(五男:37年生)です。長男は不明。

 ところが、源太郎は、明治38年8月7日、脳溢血のため東京で亡くなります。このとき何歳であったかは不明ですが、長女17歳、次女12歳、二男9歳、三男7歳、四男4才、五男1歳でしたから、おそらく40歳くらいだったのではないかと思われます。勝記が悼んで「幼少の子女を残して、尚春秋の身を以て世を去る。遺憾に堪へさるへし」と述べていますが、身につまされます。

 そして、源太郎が亡くなったのを受けて、同日栄弘が戸主となり、戸籍が編成されるとそこに家族全員が入りました。武人が宮内省に提出したのはその戸籍だったということになります。

 なお、義象もこの戸籍に叔父として記載されています(末梢の赤バツがついていますが)。これはよく知られているように、義象は一度小中村家に入り、離縁して復帰します。その後分家しますが、それが残されていたものと見られます。これによって、義象の家族についてもチェックすることができましたが、ここでは略します。ただ、義象については、これはすでに知られていることですから、引用しても構わないでしょう。つぎのようになっています。(カタカナはひらがなにし、句読点を付しました。)

「明治31年3月12日、東京市本郷区西月町士族小中村清名父(亡養父清矩養子)離縁復帰す。明治35年8月30日、東京市麹町区麹町元園町1丁目12番地戸主士族野口忠正長女と婚姻届出。同日、東京市牛込区戸籍吏土方隆三郎受付。9月24日、届書発送、同26日受付。明治44年11月1日、東京市豊玉郡渋谷町大字下渋谷519番地へ分家届出、渋谷町戸籍吏岡谷精一受付。同月22日、届書及入籍通知書発送。同月25日受付除籍」

 最後に、幾喜の父親名のところを私は「加藤」として作成しましたが、これは弟の「堯敬」と「千勝」のどちらも「加藤」を名乗っていたからです。しかし、この戸籍を見ると父名の欄に「金山下」とあり、これは姓が「金山」、名が「下」と見られますが、よくわかりません(勝記の日記には、千勝が「金山」を名乗っている例もでてきます)。これはいずれ判明したときに書くことにしましょう。

 ちょっと荒いですが、ここまでです。

 

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神足勝記と池辺義象

2023-12-10 18:01:13 | 勝記日記

  

 きのうは、池辺側の意思決定には「親族会議」が重要な役割を果たしていることを紹介しました。きょうは、池辺と神足が親族としてどのようなつながりになっているかを紹介することにします。

 『御料局測量課長 神足勝日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))の明治39年9月11日の項に次のようにでてきます。

「・・・出局前、・・・池辺喜幾の病気を訪ふ。○夜、池辺義象より母の死を報す。池辺幾喜子は余母方の従姉妹、即ち加藤堯敬の姉、故池辺軍次の妻なり。」 

 この記述と、勝記の残した『神足家系録』などを頼りに、勝記の方からたどると、まず、「余母方の従姉妹」といってますから、「勝記の母伊喜と池辺幾喜の母(幾久)は姉妹」です。ただ、勝記は母伊喜を三池源十郎二女と家系録で書いていますから、幾久が長女かもしれません。しかし、伊喜の長女の誠(せい:勝記の姉)が天保2(1831)年生まれで、幾久の長女の幾喜が天保9(1838)年生まれであることからすると、伊喜が姉の可能性もあります。

 つぎに、伊喜の旧姓は三池氏ですから、幾久も三池氏のはずですが、次回とりあげる予定の戸籍の父欄には「金山」とあり、正確なつながりは不明です。この当時のことなので「養女」などの関係もあり得ます。

 幾久には、壽喜・幾喜・堯敬・千勝・チマの5人の子がいました。このうち壽喜は、『勝記日記』のどこにも見えず不明。ほかの4人はしばしば出てきます。とくに、堯敬は侍従職にいましたし、チマの夫長田足穂は医者で、勝記や家族の治療でよく駆けつけています。

 さて、幾喜は池辺軍次と結婚します。生まれた子は、上から順に源太郎・義象・松・遊亀の4人です。このうち、源太郎は次回に、また、松と遊亀は義象との関係で知られているようなので、いまこれを略します。そうすると、ようやく義象です。

 ようするに、義象は勝記の従姉妹の子、5親等の親族です。ですから、昨日書いたように、義象が小中村家に養子入籍結婚する際も、離縁離籍する場合も、親族会議が開かれたわけです。ブログですから、短くこれが結論です。

 ところで、前にこのブログで紹介した勝記の母伊喜の日記『清壽院殿御日記』を読んでいたところ、伊喜が上京して後の明治15年に次のような記述が出てきました。

 1月2日 ・・・池邉秀雄・又彦来る。

 そこで、残念ながら『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-」(日本林業調査会(J-FIC))には入っていませんが、『勝記日記』と照らし合わせると、「池邉義象・三池親信来駕」とありました。これから「秀雄は義象のことだ」と思われましたから、その目で見ていくと、1月9日「池邉秀〔雄〕来たり」、2月11日「源太郎、秀雄来る」と出てきた後、4月13日「義象来る」、4月25日「池邉源太郎、池辺義象・・・。」と出てきて、もう「秀雄」はなくなりました。

 国文分野の門外漢ですから、もうわかっていることなのかどうかも含めて、研究のことは言えませんが、『勝記日記』と『清壽院殿御日記』とから「義象の幼名」は「秀雄」と言えるのです。

 ではまた明日に。

 

 

 

 

 

 

 

 

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