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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

池辺義象・小中村義象

2023-12-10 00:19:47 | 勝記日記

 

      朴

 ネットで「池辺義象」と検索すると、彼についての多くの研究業績が見られます。もちろん、ネットで全研究を知ることができるわけではありませんが、その中のおもなものとして『池辺義象氏(1861~1923年)著作目録(新訂・初稿)』が注目されましたから打ち出したところ、A4判で123枚の大研究でした(筆者は不明)。

 改訂に改訂を加えたこの研究は、私が見た2013(平成25)年も改訂中でしたが、これでわかったのは、池辺について、やはり、「国文学者としての業績」の面と、「小中村義象としてのある種の騒動の主人公」の面の二つの面があること、それについてかなり詳しくわかっているらしいということでした。(大筋では最近も変わっていないようです。)

 「やはり」というのは、『御料局測量課長 神足勝記日記ー林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))の編纂過程で、この二つの面が見られたからです。

 国文学者の面は私の門外なのでいまおいて、後者の、池辺義象の小中村家への養子・婚姻と、小中村義象の離縁のことは、親族問題として登場し、そこに神足勝記ほか在京の親族・熊本人国友重章・増田于信・飯田武郷他が集まって会議をすることがしばしば『神足日記』に出て来ます。

 もちろん、各人の意見が具体的に書かれているわけではないものの、動きはよくわかります。これが歴史的に注目されるべきことらいしいことが上記の研究などからもわかるので、削らずにすべて残してあります。関係者にはぜひ検討していただきたい処です。

 一口に言って、この時代はまだ「個」はないでしょう。まだ「個」よりも「家」が優先する時代です。私の記憶では、いろいろな差別問題も含め、昭和の40年代でもまだその性格が強かったと思います。

 結婚も、離別も、「池辺義象の対応」は「池辺側の対応」であって、意思決定としての「親族会議」を経た対応であったはずですが、上記の研究をはじめ、見た限りでは、事歴が詳しいほどには意思決定を探求したものに出会いませんでした。

 この時代(あるいは現在でも?)、家族の重要事項を決定する場合、個人が独断で決めることはなかったでしょう。強いて言えば、その手続きを踏まない決定は「無効」だった。親族の意見を「無視」したり、押し切れば、断絶たったのではないかと思われます。『神足日記』で見る限り、勝記の上京にしても、息子・娘の結婚にしても、そのほか重要なことは、諸事かならずしかるべき相談(親族会議)を経て決定しています。勝記自身も、娘の婚姻では、相談相手になりうることを期待していたようです。

 それでは、池辺と神足はどういう関係だったのでしょうか。長くなるので、これについては明日に回すことにします。

ざくろ

 

 

 

 

 

 

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神足・リッテル・中村弥六

2023-12-05 19:01:53 | 勝記日記

 まだ10年にはならないが、コロナが蔓延する前、谷中霊園へ通ったことがある。その理由は、一つはヘルマン・リッテルの碑文(写真)を自分の目で読み取るため、もう一つは神足の同窓生・同僚の墓地を見るためだった。 

 ヘルマン・リッテルについては、リッテル・リットル・リッターなどでネット検索すると一応のことはわかる。しかし、きちんと知るには塚原徳道『明治化学の開拓者』(三省堂新書)に拠るのがよい。自分も塚原氏の研究を手掛かりにいろいろ調べ、『薬壺(やっこ)』(神奈川県薬剤師会会誌)に「ヘルマン・リッテル余聞」と題して2018年11・12月号から19年9・10月号まで6回連載で書く機会を得た。しかし、これはネットで公開されていないので、国会図書館とか、大きな図書館・薬剤師会に行かないと見られない。やや不便なので、後日、機会をみて内容紹介をしたいと考えている。なお、リッテルというと谷中の碑が有名だが、この碑文自体の検討が必要と思う。また、リッテルの墓地は横浜外人墓地18区15にある。

 前後したが、リッテルは明治7年12月25日天然痘に罹りなくなる。谷中のこの碑は翌8年10月10日落成した。

 つぎに神足の関係では、手元のメモに田寺鐘一・佐藤三吉・板屋久三郎・服部正光・川崎近義・中村弥六・松原新之助の名がある。田寺・板屋は在学中に死亡。田寺については甲3号2側に立派な碑(写真)がある。服部と川崎はまだ不明。松原は水産技師として帝室林野管理局の嘱託にもなり1916年2月に死亡。佐藤は、神足勝浩の母静子の手術をした医師で、『佐藤三吉先生傳』(非買品)がある。

 中村弥六(写真)については『林業回顧録』(大日本山林会)や『中村弥六物語』(森下正夫、高遠町図書館、1997年)があり、ご存じのかたも多いと思われるが、2著で触れられていない神足との関係の最初のところに限って少し書いておきたい。

 明治6年から書き始められた神足の日記を見ると、神足と中村はまだ互いに行き来する関係になかった。最初に出て来るのは皆で王子に行った際の椿事としてである。

 「6年3月1日 晴 休日 朝8時頃より、川村〔圭三〕・関〔澄三〕・安東〔清人〕・村岡〔範為馳〕・和田〔維四郎〕・橋爪〔源太郎〕・小木〔貞正:加賀乙彦の祖父〕・松崎〔廉〕・大塚〔義一郎〕・高橋三郎・大前〔信太郎〕・中村〔弥六〕と共に王子に遠行し、扇谷に於て午食し、快談放言。豪胆なる中村、能く飲み、克く食ふ。帰路、中村、酒酔の為め歩行に艱み、中途より人力車に乗り、小木、衛りて帰舎す。中村、途中帽子を落す。余等大に驚く。・・・」

 中村の気質がよくわかる一場面だが、神足との関係はまだなにもない。その後も明治6年は一度も出てこない。翌年1月30日に神足が渡辺廉吉を訪ねて行くと、そこに中村も来ていた。しかし、それだけである。変わるのはその後である。

 このころ、神足たちが所属した鉱山学科(ドイツ語)は廃止が決まって、学生は化学・医学・英語へと転科ないし退学をせまられた。そこで神足は「もとより余が目度とする処の者は測量科なるか故に、今更に之を変して他科に従事するの意なく、如何にもして初望を達せんと欲す。よりて退校と決す」と決めて、翌年10月15日には学舎を離れ、下宿生活を始める。

 神足は熊本へ帰郷の気持ちもあったようだが、友人・知人・先輩たちと身の振り方を相談しつつ滞京していた。その中で、12月13日、きっかけは不明だが、中村を訪う。ここから行き来が始まる。決定的なのはリッテルの命日の12月25日である。

 「12月25日 晴 午前九時比、中村氏来る。・・・十時前より中村氏と同道、谷中天王寺に到り、先師リッテル氏一週年に付、倶に花木を捧け掃除して、十一時過雁鍋に到り午餐す。中村氏と対座談。当世の言に及ひ慷慨歎息す。論大に合す。奇なる哉、在校中幾んと三歳の久を経ると雖とも、未た一回も熟論せさるか故か、互に意を合するを悟らざりき。悔ゆへし々々。近日の鬱屈忽ち霰れて、正気堂々たるの本心に回るを得たり。・・・。

 ここから神足と中村の交わりが本格的となった。この後は『御料局測量課長 神足勝記日記』(日本林業調査会(J-FIC))に残したのでご覧いただきたい。

 昭和4年7月10日、中村の訃報を受け取った神足は、「氏は同窓中最も懇親にして、倶に国事に悲憤慷慨せる知友なりし。嗟々」と悼んでいる。

 最後に一言。中村が皇室財産の設定で提言したことがしばしば取り上げられるが、その後の選定委員としての役割ほか、具体的にはまだ何もわかっていない。提言したとか委員だったという状況証拠だけでは何も言わないのと同じなのだと思う。

 

 

 

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笠原義人先生と・・・

2023-12-03 18:54:27 | 勝記日記

 2006年8月5日、宇都宮大学の笠原義人先生から封筒がとどいた。開けると、写真の「最終講義記録 森林政策学と私」(約50ページ)が入っていた。先生はこの年の3月をもって定年退職されたのだった。

 普通、こういうことを書くと「先生の学問は・・・」となったりするものだが、私の場合はちょっと違う。

 1977年の秋、大学院の修士論文のテーマとして木曽の御料林をとりあげることにした。そしてそのことを農水省に就職していたT君に話した。すると、少しして「林野庁に萩野敏雄さんという詳しい人がいる」といってきたので、仲介を頼んでお会いした。萩野さんはご自身の著書「戦前期における木曽材経済史」やその他の文献を紹介してくださったほか、目黒の林野資料館や林業文研センターなど、いろいろと教えてくださった。しかし、林野資料館に伺ったときはすでに解体が始まっていて、文書類は林野庁図書館、つくばの公文書館、宮内庁に3分割されて移管されることが決まっているものの、どの文書がどこに送られるかわからず、どこに問い合わせても「整理がつくまでお答えできない」とまったくお手上げだった。

 それから約10年した1988年、林業経済学会から「関東部会で報告してほしい」と連絡があった。お伺いすると萩野さんの推薦とわかったので、お引き受けして「御料林研究の一視点」という標題で報告した。その内容は汗顔ものだったはずだが、「御料林」と銘打った報告に驚いた笠原先生が出席されて、後日コメントを『林業経済』に発表された。丁重な講評で、爾来、先生にいろいろとお教えいただくことになった。

 私は、大学紛争で荒れて授業がないとか、アルバイトのためとか、いろいろなことを理由に不勉強で、学部の三年からはいったゼミで取り上げた『資本論』しか読んで来なかった。そういうものが、先行研究の乏しい「御料林」を扱うことにしたから難儀した。林業については一からやらねばならなかった。そもそも、山育ちなのに林業の現場を知らなかった。そこで「現場を知りたい」と先生にお話しすると、先生は何度も秋田などの現地視察会に誘ってくださった。しかし、悲しいかな、生活費を稼ぐための仕事とことごとく重なり、一度も参加することができなかった。そうこうしているちに先生の退職となり、先の封筒が届いたわけである。

 だいぶ前置きが長くなったが、ここからが本論である。いただいた冊子の19ページに先生の「小学校時代」が書かれている。

「朝鮮半島から引き揚げ後郷里に帰り、父母は群馬県多野郡中里村の橋倉分教場の教員として勤務することになった。橋倉(当時集落戸数約20世帯)には自動車道は無くバス停まで山道を徒歩で30、40分かかった。・・・分教場に隣接して教員宿舎があり、小学校5年まではそこに住んでいた。・・・」

 橋倉とは上の地図の左上である。付近の左に八倉(ようくら)、右に平原(へばら)とある所である。年譜によれば、先生は1952年10月までここに住まわれていた。同じころ、私の父は村役場もある神ヶ原(かがはら、地図中央)の中学校で教員をしていた。だから、まだ私は小さかったが、お会いした可能もないわけではなかったのである。母にそのことを話すと、はっきりとした記憶はないが、役場や本校に用事で来ることはあっただろうから、その機会にお会いしているかもしれないと答えた。もちろん、これを先生にもお知らせしたが、手紙だったので反応はわからなかった。普通、先生から返事があるが、この時はどうだったか。いくぶん抗議めいたことを書いたから、なかったかもしれない。

「水田はなく、山間畑作地帯であり、コンニャク、炭焼、養蚕が主たる収入源であった。・・・コメのご飯を食べるのは年に盆と正月の2回程度である。動物性蛋白は不足ぎみ、兎、蛙、蛇などを食べた。松本清張の小説に、山奥の野蛮な人たちが蛇を捕まえて食べるという一節があるが、「失礼なやつ」と思ったことがある。」

 先生の住まわれた村奥と村の中心部との違いや、戦後すぐと、私が物心ついた戦後5~6年後とでは食糧事情も違ったかもしれないが、蛙や蛇を食べる習慣を私は見たことがないので、そのことをお伝えした。八倉・橋倉へは、1955・6年ころに父の家庭訪問に連れていってもらった。そのとき父は、「負けずに歩いて、40分ほどで橋倉まで上がった」と、嬉しそうに母に話したそうだ。

 群馬のこのあたりは、谷が深くて「山中谷(さんちゅうやつ)」とか、やや差別的に「群馬のチベット」といわれたことがあるが、明治17年の秩父事件の時には、敗れた困民党が三津川(さんづがわ)沿いに南の秩父から逃れてきて、ここから西の長野方面に落ち延びていった。そして、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』(日本林業調査会(J-FIC))の解題にも書いたが、ちょうど同じころ、困民党とは逆に、神足が北の下仁田の方から山越えをして平原に降り、神ヶ原をへて南東にある叶山(かのうさん)に登るのである。叶山の一帯は地質学的に有名で、南の埼玉県にある両神山とともに、地質学者E・ナウマンらが注目した山である。しかし、石灰質のこの山は、今日では秩父の武甲山と同様にセメントの原料として削り取られてしまっている。上の地図からもその様子がうかがえる。

 だいぶ前、私は秩父の小鹿野の方から二子山(この地図の右下にあたる)に登ったことがある。その時、北西に白く海のように広がる一帯に気づいた。それは無残に削られた叶山の跡だった。

              

左が叶山、右が田処(たとろ)山

 

 

 

 

 

 

 

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神足勝記と品川弥二郎

2023-12-02 23:03:53 | 勝記日記

 神足勝記の恩人といえば、貢進生に推挙した兼阪熊四郎・母伊喜・姉久尾・叔父神足勘十郎・・・そして何番目かはわかりませんが、品川弥二郎が入るでしょう。

 写真は、東京都千代田区北の丸公園の田安門に向かって右の堀脇に立つ品川の像です。コロナ蔓延の前、宮内公文書館に閲覧に行った帰り、夕暮れの桜の中に立つ品川のシルエットに気づいて撮ったものです。品川の屋敷はこのあたりにあったとのことです。

 明治40年12月10日、神足は、明治26年から40年の間におこなった本州の御料地の境界測量事業が完了したことを受けて報告書を作成し、それを局長に提出しました。そして、午後に品川の銅像の除幕式がありました。この像を見た感想を『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会 J-FIC)で神足は次のように書いています。

「2時20分、九段坂に安置せられたる卿の銅像除幕せられ、恰も生ける子爵に酷似  せる銅像顕れ、一同礼拝。三時過式終る。余、卿の眷顧を蒙る浅からす、本州御料地測量完了を報告するの今日、恰も卿銅像の除幕式に遭ふ。卿に報告するの思ひあり。又、偶然にあらさるへし。」

 「生ける子爵に酷似」・「卿に報告するの思ひあり」と述べていますが、同感です。日記に神足は品川のことを何回か書いています。それをいくつか挙げてみましょう。

 まず、明治12年4月7日です。神足は、西南戦争で焼け出された母と姉を安心させるために上京して外国語学校の教師となりますが、この就職は自分の素志ではなかったので品川に斡旋を依頼して工部省鉱山局に転職し、阿仁鉱山分局に赴任することになります。

 ただし、従来、神足が工部省に入ったことをもっていかにも重要な役割を果たしたかにいう議論がありますが、それは間違いです。『日記』によれば、4月7日発令、4月14日阿仁へ出発、5月3日到着、5月23日阿仁を出発、6月2日帰京、6月30日辞表提出、7月10日依願解雇となっています。つまり、発令から解雇までで3ヶ月、出発から帰京までで1ヶ月半、現地滞在20日ですから、いわゆる「使用期間」にも満たないほどだったことがわかります。わからないものは「わからない」としないと、重大な誤りを犯すことになります。

 つぎは、同年12月11日です。工部省を退職した神足は、この日、品川の斡旋で内務省に就職します。そして(細かい経緯は略しますが)品川を局長、和田維四郎を所長とする全国調査事業での功績から、抜擢されて神足は御料局測量課長になるわけです。

 最後は、明治33年2月26日の品川の死亡です。これについては、同27日に長い回顧文がありますから、それに譲りましょう。『日記』の明治26年7月4日のところ品川の揮毫「信与誠」を入れておきました。神足は、終生、品川のこの言葉を忘れることはなかったようです。

 

 

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立川の多摩川へ鮎漁に

2023-12-01 22:57:36 | 勝記日記

多摩川の鮎漁

 今年1月、立川市の国文学資料館へ鮎に関する特別展を見に行きました。写真はそのとき撮影したものです。右上にタテに「多摩川の鮎漁」とあります。後ろに富士山と滝山丘陵が見え、中央奥では3人の漁師が網漁をしています。そして、その手前で若い女性たちがアユのつかみ取りを楽しんでいます。服装がみな豪華な和服ですから江戸期の武家の娘や御女中のようですが、中央右後ろにいる女性が差している日傘が洋傘に見えますから、明治のものでしょうか。いずれにしても、ずいぶん華やかな、人気のあるものだったことがわかります。

 私はこの展示を朝刊の広告で知って出かけたのだったと思いますが、その狙いは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー』(日本林業調査会 J-FIC)の中の次の記述に思い至ったからです。

「(明治40年)7月7日(日)雨 課僚中今般他へ転職するものゝ為、及、全員懇親として多摩川に鮎漁を催ふし、午前10時16分新宿発汽車にて立川鮎漁丸芝に至り、鵜を用ひて鮎を漁し、之を調理して午食す。会するもの27名。生憎降雨せるも格別ならす。快を尽して、午後3時40分立川発汽車にて新宿に下車。新橋6時汽車にて帰る。」

 そして、この数日前には次のことが書かれていたからです。

 7月2日 晴 御料地境界測定事業中、其本州にあるもの、本年を以て完了するを以て、部下の職員半数を減員因すへきにより、鉱山監督署、東京大林区署、地質調査所等へ転職せしむる約整ひたる者7人、民間に下るもの一人、各陞等級を上申す。

 これより前、私は『日野の渡し』(昭和61年)などで立川の鮎漁について読み知っていましたが、改めてこの絵でその人気ぶりを知りました。

 御料地の測量事業は、神足勝記が明治24年に御料局測量課長となり、「御料地測量規程」を作って方針を決め、26・7年に七宗御料地や天城御料地から着手して40年までに内地(本州)の分を終えます。この成果を、神足は同年12月に「自明治26年度至40年度測量業務報告」としてまとめますが、これが宮内公文書館で見つかりましたから注記しました。ぜひご覧いただきたいと思います。

 神足は、自らの体調不安もあり、「報告」を提出した後に、一区切り付いたことをもって勇退を申し出ますが、佐々木陽太郎主事に遺留されて北海道の測量事業にも従事し、大正6年に事業が完成したの見て退官します。

 つまり、明治40年は御料局の測量事業の転換期であると同時に、御料地経営に確信が持てるようになった時期、見直しの時期にもなっています。その意味で、この送別会・慰労会は歴史的・象徴的なものと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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