朴
ネットで「池辺義象」と検索すると、彼についての多くの研究業績が見られます。もちろん、ネットで全研究を知ることができるわけではありませんが、その中のおもなものとして『池辺義象氏(1861~1923年)著作目録(新訂・初稿)』が注目されましたから打ち出したところ、A4判で123枚の大研究でした(筆者は不明)。
改訂に改訂を加えたこの研究は、私が見た2013(平成25)年も改訂中でしたが、これでわかったのは、池辺について、やはり、「国文学者としての業績」の面と、「小中村義象としてのある種の騒動の主人公」の面の二つの面があること、それについてかなり詳しくわかっているらしいということでした。(大筋では最近も変わっていないようです。)
「やはり」というのは、『御料局測量課長 神足勝記日記ー林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))の編纂過程で、この二つの面が見られたからです。
国文学者の面は私の門外なのでいまおいて、後者の、池辺義象の小中村家への養子・婚姻と、小中村義象の離縁のことは、親族問題として登場し、そこに神足勝記ほか在京の親族・熊本人国友重章・増田于信・飯田武郷他が集まって会議をすることがしばしば『神足日記』に出て来ます。
もちろん、各人の意見が具体的に書かれているわけではないものの、動きはよくわかります。これが歴史的に注目されるべきことらいしいことが上記の研究などからもわかるので、削らずにすべて残してあります。関係者にはぜひ検討していただきたい処です。
一口に言って、この時代はまだ「個」はないでしょう。まだ「個」よりも「家」が優先する時代です。私の記憶では、いろいろな差別問題も含め、昭和の40年代でもまだその性格が強かったと思います。
結婚も、離別も、「池辺義象の対応」は「池辺側の対応」であって、意思決定としての「親族会議」を経た対応であったはずですが、上記の研究をはじめ、見た限りでは、事歴が詳しいほどには意思決定を探求したものに出会いませんでした。
この時代(あるいは現在でも?)、家族の重要事項を決定する場合、個人が独断で決めることはなかったでしょう。強いて言えば、その手続きを踏まない決定は「無効」だった。親族の意見を「無視」したり、押し切れば、断絶たったのではないかと思われます。『神足日記』で見る限り、勝記の上京にしても、息子・娘の結婚にしても、そのほか重要なことは、諸事かならずしかるべき相談(親族会議)を経て決定しています。勝記自身も、娘の婚姻では、相談相手になりうることを期待していたようです。
それでは、池辺と神足はどういう関係だったのでしょうか。長くなるので、これについては明日に回すことにします。
ざくろ