神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

『神足勝記日記』の先

2023-12-17 00:01:43 | 勝記日記

 

      朴

 きのう15日、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-』日本林業調査会(J-FIC)が刊行され、私の手元にも、今日16日9時頃に届きました。

 いままだ感慨というほどのものはありません。というのは、今回のこの『神足日記』では、神足勝記やその課僚がおこなった測量事業をめぐる人間模様を知りうる歴史資料を残すという課題を果たせたというにすぎないからです。これは全体の3分の1程度のことです。

 残りの3分の2は何かというと、一つは、神足の前史である熊本から上京して以降、南校時代・地質調査所時代の調査事業のあたりまでを残す作業をすることです。これには、『勝記日記』の明治6年から24年の入局前までと、勝記の母伊喜の日記『清壽院殿御日記』を、二つながら整理するということがその範囲に入ってきます。というのは、勝記と伊喜は常々手紙のやり取りをしていたので、この両者をつなげることで再現に補いがつく場面がよくあるからです。

 例えば、明治14年9月25日からの出張について、勝記は、元の日記にも『回顧録』にも、どこそこをどう通って巡視したと書くだけですが、母伊喜は「此度信州ト甲ふ州ニ久ないへん」と書いています(『神足勝記日記』63ページに注記しました)。「久ないへん」は「宮内辺」と読めますから、地質調査所の事業が宮内省がらみであったことを証言したものとみられるので、伊喜の日記はこの記述を残しているだけで一級の価値があります。これを取り入れないという手はありません。もっとも、どちらももう入力作業は終わっていていつでも出版できます。

 もう一つは、測量事業の成果をまとめることです。これについて、総括は、本州については神足自身の「自明治26年度至40年度測量業務報告」(『神足勝記日記』345ページ)がありますし、北海道については、448ページに、報告したという記述もあるのでおよそはわかるはずです。問題は「総論」ではなくて「各論」ですが、おもな御料地の測量簿はすでに収集整理しておえてありますから、あとはそう難しい作業ではありません。

 おっとモトイ。ここからが難しいのです。一つ目も含めて、資金がない、これが現実。理想を現実が押しつぶす。クラウドファンディングでもやりましょうか。

 これまで自粛してきた、やらねばならないこと・やりたいことが多く、「私のサンデー毎日の実態は月月火水木金金」です。神足と課僚たちが営々として進めてきた測量事業のまとめの半分が終わったので早く先に行きたいですが、いまはまだ、どれだけの人に知ってもらえるか、これです。今が正念場です。

 『神足勝記日記』をご覧になって質問等がある場合はお寄せください。

 北桔橋門(きたはねばしもん)の夕空


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