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神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

笹子雁ヶ腹摺山

2024-01-10 00:09:43 | 勝記日記
 先日の「雁ヶ腹摺山」の続きになります。

 まず、明治17年10月14日から19日の神足勝記の行動を略記します。
 14日、「雁ヶ腹摺山」の付近から大月に出て、猿橋の大黒屋に泊まる。
 15日、百蔵山〔桃栗山:もくりやま〕に登る。
 16日、谷村〔やむら〕の高川山などに登る。
 17日、谷村の南の道端嶺・道志村・相州界を測定し、谷村に戻る。
 18日、谷村から桂川を越えて初狩に出て、笹子村黒野田三吉屋に泊まる。
 19日、峠の東北に位する「雁ヶ腹摺山」に上る。

 この様子から、神足は「郡内地方」といわれる大月や谷村辺を調査していたことがわかります。そして、19日は郡内の西の端を調べるために、「雁ヶ腹摺山」に上ります。
 なお、この「雁ヶ腹摺山」は、「峠の東北」とあり、翌日に笹子峠を越えますから、その行程から判断して「笹子雁ヶ腹摺山」に間違いありません。

 神足は、19日に「〔笹子〕峠の東北に位する〔笹子〕雁ヶ腹摺山」に上がった時のことを次のように書いています。
 「時に雲霧諸山を蔽ひ、晴るゝを待ちて午時に及ふ。或は晴れ、或は曇り、 
 未た全く志を達する能はさるも、快晴の色なきを以て、下りて一茶店に憩
 ひ、午食。笹子嶺を越へ、駒飼野〔初鹿野・甲斐大和〕を過き、4時頃、勝
 沼駅池田屋に着す。」

 さて、私もこの跡を大体たどりました。その全部をここで書くわけにはいきませんから、2つだけ。

 一つは「笹子村黒野田三吉屋」についてです。


   松のある一帯が三吉屋跡。正面笹子駅。左は旧道。正面が大月方面。

 笹子駅を出ると、すぐに60歳くらいの女性が見えました。そこで、
 「明治の人の日記に、この辺で三吉屋という旅館に泊まったと書いてあるの
 ですけど、どこだかわからないでしょうか」と聞くと、すぐさま、
 「そこの、松の木のある家のところです」と指差してくれました。それに驚いて、
 「今でも屋号が通じるんですか」と聞くと、無言で頷いて、
 「昭和の頃まで営業していた・・・・」と懐かしそうに教えてくれました。。

 もう一つ、「笹子雁ヶ腹摺山」です。
 笹子駅から西へ進み、笹子トンネルの少し手前から上がれます。急登ですが、それほど手間はかかりません。

 
 
 あまり良い写真が撮れませんでしたが、1枚だけ。

 
   「笹子雁ヶ腹摺山」より。正面が大月方面。駅はほぼ右下。

 上に引用したように、神足は、
 「時に雲霧諸山を蔽ひ、晴るゝを待ちて午時に及ふ。或は晴れ、或は曇り、 
 未た全く志を達する能はさるも、快晴の色なき・・・」
 と書いていましたから、この景色を見られたのかどうかわかりませんが、ずいぶん山深いところであることがわかります。
 この後、神足はここを一度笹子に下ってから笹子峠を越えて勝沼に入ったわけです。

 私は、ここから奥へと向かい、米沢山、お坊山と歩き、大鹿峠から北西にある武田氏ゆかりの景徳院に降りて、甲斐大和駅から帰りました。
 大鹿峠を下るとき、地名は鹿なのに猿の家族(10頭くらい)の大歓迎を受け、道案内をしてもらいました。ふだん訪れる人が少ないのか、だいぶ嬉んでくれてました。初めてのことでした。

 今日はここまで。 










 

 

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仙台・松島 北京構想 

2023-12-30 01:01:33 | 勝記日記
 神足は御料局入局前にほぼ全国を歩きました。(正確には、北海道と四国の一部を残して、すべてです。)

 私は、神足が歩いたところは一応すべて御料地候補地だったとして機会があるごとに検討することにしています。その一つとして、仙台近辺があります。

 明治21年7月9日、青森、秋田・山形・岩手と巡回してきた神足は、気仙沼・志津川・石巻を経て松島に着きます。
 そして、松島について、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の68ページ、7月9日の項で、つぎのように書いています。
 「・・・行々日本三景の一なる松島を探る。松島の景を見るの好所は富山な
 る丘を最とす。・・・絶景筆紙の能く尽す所あらさるなり」

 
    富山〔とみやま〕から見た松島

 松島が人気があるのは、もちろんその景色の故ですが、そのもとは古くからの霊場であったなどの理由も言われています。
 いまここで取り上げたいのは、その人気のある松島の近くの塩釜の北にある山地に宮城第一御料地があって、その付近が御用邸の候補になっていた可能性があることです。たとえば次の記述がそれです。
 「宮城第一御料地は・・・松島湾に近くして、同湾の風光を瞰下し、頗る絶
 景の所なり。然れとも其地海岸に適せさるか為、若し御用邸等を建築せんと
 するには近傍の民地を買上くるを要す可し」(『宮城県委託御料地実況調査
 書』(宮内公文書館蔵)
 
 この文書は、明治27年11月1日付調査と書いた箇所がありますから、28年ころの作成文書です。
 また、この箇所は、払い下げられて、『神足勝記日記』冒頭の地図(大正7年)には出ていません。
 さらに松島湾の辺りはその後に埋め立てられていますから注意が必要です。
 
 要するに、27年頃にここに御用邸の案があったということです。

 それだけではありません。その北に品井沼がありますが、ここは志田第一御料地の中にあって御料地になっています。
 御料地になっていることがなぜ不思議かというと、北の瀬峰の方にある蕪栗沼やそのさらに北の伊豆沼は、御料地の中にあるにもかかわらず御料地になっていないのです。そのため、上記の『調査書』では2沼も御料地に編入することを提案しているくらいです。(これに似た例として、日光の中禅寺湖は御料地でなかったけれども、箱根の芦ノ湖は御料地だった、ということがあり、基準はまだよくわかりません。)
 品井沼を猟場にする可能性は、品井沼の北の涌谷の辺りにある名鰭〔なびれ〕沼と平郡沼が御猟場になっていて、監視人も任命されていましたから、あったということです。(『猟場録』明治28・30年)
 また、涌谷の北には広大な湿地・沼地が広がっていましたが、これが御料地として編入され、遠田第1~3御料地などとなっていました。これらの地は後に干拓されて耕地となりましたが、その記念碑が、米山高校脇や東千貫・短台などに残されています。また、JR箟岳〔ののだけ〕駅前には御料地という小字も残っています。
 
 ですから、このあたりに北京を計画した可能性もあるのです。北京の周辺に、それに付随・関連する施設を設ける計画があったかもしれないのです。
 実際、一文書に過ぎないとも言えますが、涌谷の南に旭山〔朝日岡〕という小山があり、ここを北京とする建白「北京建都の議に付建白書」(『宮城県広渕沼沿革史』昭和3年非買品)もあるのです。

 少し荒っぽい議論ですが、皇室財産形成というものの、東北については、収益用地の面と同時に、京都・東京に次ぐ北京建都などの面も必要なようです。
 都市としての適地、港湾・水運としての適地、農耕としての適地、北京としての適地、など具体的に見る必要があるようです。
 つづきは明日に。

 かげろう
 


 

 
 
 
 


 
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カデルリ―の死

2023-12-28 22:43:55 | 勝記日記
      

  大学南校(明治6年):正面玄関、その右と後教室、さらにその後ろに 
             六角堂、その奥に2階建ての講堂

 ブログを書き始めて1ヶ月が経過しました。
 毎日、これまで撮り貯めた写真を見直して、撮った時のことや、撮った場所のことを思い浮かべたり、『神足勝記日記』や関係文書を読み直して、何のことかとあれこれ調べた時のことを振り返っていますが、これはこれで大事な作業だった、もっと早くにやればよかった、先を急ぐばかりが能ではなかった、と反省しています。
 書きたくなるものを探す作業は、大変といえば大変ですが、目下のところは楽しめています。

 
     千葉県久留里付近の山中の寺で

 今日は、一つだけ。『神足勝記日記』を読み始めて最初の方で気が付いたことです。
 これは、大概の皆さんがご存じないことだと思われますので、結論から書きますが、
 「カデルリ―の死亡日が違う」
ということです。

 まず、『神足勝記日記』明治6年6月15日の項に次のようにあります。
 「十時頃より村岡〔範為馳:はんいち〕・和田〔維四郎:つなしろう〕と外 
 出。・・・帰路、教師センクを訪ふ。・・・センクより前教師カデルリ―の死去を 
 聞き一統悲嘆。・・・。」

 ここに出てくる人について、大体は納得いくところまで調べがついていますが、ここではカデルリ―についてだけとします。

 カデルリ―のフルネームはヤーコプ・カデルリ―(Jacob Kaderli)です。
 カデルリ―については静岡大学『人文論集』57(1)2007年、57(2)2007年、58(2)2008年、62(1)2011年(共同執筆)に城岡啓二さんが論文を発表されています。興味ある方は調べてみてください。
 このうち、上記の57(2)に『ベルン伝記集』第3巻にある「カデルリ―」の箇所が翻訳されています。それに拠ると、カデルリ―は神足たちが勉強した大学南校の教師となってドイツ語教材を出版した人であること、1869年に日本に来て1872年7月22日にアメリカへ向かったこと、1874年12月31日、48歳でマルセーユの病院で肺炎のために死亡したこと、などがわかります。
 ちなみに、シベリアを横断してやってくるなど、興味深い人です。
 
 もうお気づきかと思われますが、カデルリ―の死亡日は、『ベルン伝記集』に依れば1874(明治7)年12月31日ですが、『神足日記』に依れば、明治6年6月15日より前なのです。つまり、神足たちが「悲嘆」したときにはカデルリ―はまだ生存していたらしいのです。
 ただ、『神足日記』の明治6年辺りは薄い美濃紙に鉛筆書きだったため消えかかってきたので、昭和になってから書き直しています。事実まで変えることはないと思われますが、それも含めて検証が必要です。

 日記には誤記や誤記憶で書かれていることがあります。怖いところです。
 今日書きたかったのはこのことです。

 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築くー 』日本林業調査会(J-FIC)は、元の日記のほかに、大澤の注記や資料引用・加筆などがあります。ぜひ批判的にご覧いただけますようにお願いします。

 
      え、です
 


 


 

 
 
 

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神足勝記の山梨巡回 2 鶯宿・古関・右左口

2023-12-24 23:22:51 | 勝記日記
 稜線の南は富士河口湖町 北左は甲府市 北右は笛吹市
   (富士山富士五湖Map)
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)を刊行して10日になろうとしています。
 みなさんが、この本によって、神足勝記や御料局測量員の業績を知っていただけますよう期待しております。
 日本の林野地籍は100年以上前の成果が今も現役で使われているのです。

 さて、上の地図の地域を神足勝記は2回通過しています。(この東方にある御坂峠を越えて河口湖付近も通過しましたから、それを入れると3回です。もちろんすべて徒歩です。)
 私はその足跡を3回に分けてたどってみました。今日からからこれについてちょっと書きましょう。
 
 神足の1回目は、明治14年9月25日の所です(解題の13ページ下にもあます)。元の日記には、西の市川大門の方から芦川を遡ってきて、10月2日に古関(ふるせき)の田中与平方に泊まり、3日「・・・古関を発し、溪河を左右し・・・里許、漸{く}顱丘{ろきゅう:円頂状の山}の麓に出て鶯宿(おうしゅく)に至」るとあります。
 私はここにある「田中与平方」と「顱丘」を探してみることにしました。
 
 この地域へ到達するには、JR石和駅から右上の鳥坂峠を越えて鶯宿までのバスか、西の方から古関までのバスのいずれかとなります。東京から行くには石和からが便利です。そこで、私は、鶯宿着10:26、同発12:55と決め、2時間半で鶯宿・古関間を往復することにしました。なお、バスの本数は1日3本です。

 バスの終点で運転手に、帰りもかならず乗るから、バス停でなくても拾ってくれるように頼み、近くで道を聞き、時たま車が通るだけの山間を行くと、下りだったせいか予想外に早く11:05頃に古関に着きました。

 神足たちが泊まるのはお寺とか大きな旧家と決まっていますから、急ぎ2~3軒当たると、すぐに見つかりました。間違いないことがわかったので、手短かに話しを伺い、後日の訪問をお願いして30分ほどで辞去しました。
 
     水ノ沢山の突端(正面方向が鶯宿、右はロッジ・スポーツ場)
 
 帰りの鶯宿までの所要時間を80分みておきました。
 神足は昔の道を歩いたのですから、今の舗装路とは違うはずだ・・・と、沢の方を見下ろし、山の形を確かめながら行くと、突然、沢の正面に山が現われました。すぐにこれだと納得しました。

 神足が見たものを今見ていると思うと、沸き立つ感動を抑えられず佇立。

 思いのほか簡単に見つかり、30分以上も時間を余らせて帰ることができました。余った時間で辺りをうろうろしていると、バスが来て無事拾ってもらえました。もちろん、このほかには顱丘{ろきゅう:円頂状の山}は見当たりませんでした。
 つづきは明日にしましょう。
 
 帰り道で見た花

 
 
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コピーの景色

2023-12-18 23:51:05 | 勝記日記
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-』を日本林業調査会(J-FIC)より刊行して3日、今日も励ましのメールを頂戴しました。ありがとうございました。

 ところで、この本を作るのに苦労したところはどこだと思いますか?まあ、いろいろありましたが、そのひとつは文書のコピーです。
 勝記の孫の勝浩様から日記の原本をお借りできることになって、コピーの許可もいただいたのに、いざコピーをする段になったら、落ち着いてコピーできる場所がないのです。ご存じのように、図書館は、大学でも、公立でも、どこでも持ち込みの書籍や文書をコピーさせてくれません。
 ところが、私がお借りした日記は、大半が市販のもので、通常見開き2日分で、1年分で約200ページです。神足日記はこれがざっと60年分あるのですから、1日に1冊ずつコピーしたとして2ヶ月かかります。もう100年以上も前の、膨大な量の日記にもかかわらず、いくら事情を話しても、これをコピーさせてくれるところがないのです。本当に困りました。

 ちょっと話が変わりますが、1昨年から今年にかけて、神足勝文様(勝記のひ孫)から、神足家の文書を段ボール箱10箱ほどお借りできることになりました。そこで、整理して文書目録を作成するために、作業用のコピーを作りたいと考え、図書館に相談したところ、あっちの店でできるとか、こっちの会社でサービスをやっているらしいという回答で、ラチがあきませんでした。「法を盾にして実態を見ない」という非合理な側面、たくさんありますね。

 結局、コピーするにはコンビニに頼るしかありませんでした。そのことは、上記の日記の解題にも少し書きましたから、繰り返さないことにして、コンビニでコピーをしていた時に見た景色を一つ紹介しましょう。

 そのコンビニは入り口近くにコピー機がありました。なにせ1冊200枚ほどもある日記のコピーを、もう何日も続けてきていましたから、コピー機が作動している間に、窓の外みたり、ほかにコピーを取りたい人が行列を作っていないかとキョロキョロとするのが普通になっていました。
 夕方4時頃だったでしょうか。一人の男の人が自転車を押してやってくるのが見えました。ちょっと気になって、コピーの合間合間に見ていると、右足を少し引きずって、自転車に寄りかかっているのがわかりました。年は60くらいに見えました。
 その人は店の前に来ると、私の真ん前のところに自転車を停めました。それから店に入ってきて、私の後ろの方へ行きました。脳卒中を患ったようで、右足だけでなく右半身が不自由らしく、右手は胸のところで抱えるように折れ曲がったままでした。
 しばらくして、その人が出て行きました。見ていると、自転車の脇に立って、あたりをちょっと見わたして、おもむろに左手に持っていたワンカップの酒のリップを口にかけました。器用に蓋を取り外すと、ふっと自転車の籠の中にそれを吐き落とし、くく―と一口飲み、ふーと息をついたのがわかりました。満足そうでした。
 私は「家では、きっと止められているのだな。だから、ここにきて飲むんだな」などと思いながら、1枚コピーを取って、それからまた1枚とって、見ると辺りをじっと見ているようでした。そして、それから何枚かコピーを取ってから目をやると、最後の一口を飲み干すところでした。

 どうですか。
 満足そうに蓋とコップをゴミ箱に入れて、来た時と同じように、右足を引きずりながら、帰って行きました。
 
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