千入ちしおの森
夏の花々 写真 ② 2015.08
築庭当時は、楓を中心に松や桜も植えられていたようです。「千入の森」[ちしおのもり]は、綱政の命名です。
「千入」の「入」は、染め物で染液に浸ける回数を数えることばで、「千入」は色濃く染めることのたとえです。
秋、日毎に深まる紅葉のさまを指しているものと思われます。
綱政が千入の森を眺めて残した句に、
この木のみ 上戸の中の 独下戸 (『竊吟集』)
というのがあります。なかなか色を変えない楓を何日にもわたって眺め、やっと色を変えた日には
此比に のみならひたか 下戸紅葉 (『竊吟集』)
と紅くなったさまを詠っています。庭に来て、季節の変わりゆくさまを眺めていた様子がうかがえます。
Soha - Mil Pasos with Maria Filali & Ozgür Karahan
日本での井田制 せいでんせい
岡山藩・友延新田(とものぶしんでん)
江戸時代、岡山藩主の池田光政・綱政親子は、重臣の津田永忠に命じて干拓地に友延新田(現在の備前市)を造成する際、古代中国に倣って井田制を適用した。
友延新田は、南北に長い長方形の上井田(かみいた、1670年完成)と、正方形の下井田(しもいた、1688年完成)とから成り、後楽園内にもこれを模した100分の1規模の井田が設けられている。
儒教の理想的仁政を実現すべく、上井田の造成当初は9田に1田を公田とする運用で開始したが、やがて藩の財政危機や飢饉に見舞われて他の農地と同等の租税率に引き上げたため、
実際には井田制として機能した期間はごく短い。下井田は、庶民の教育施設として創立した閑谷学校の財政基盤を支える校田に割り当てられた。
夏の花々 写真 ① 2015.08 「232」 2019.7.11
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