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備中・福山城・ 幸山城跡

2022-11-25 15:50:14 | 歴史

備中・福山城・ 幸山城跡

 

       

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源頼朝によって始まった鎌倉幕府(1192~1333)は、しだいに勢力を強めてきた新田義定足利尊氏によって滅ぼされ、その後、後醍醐天皇による政治が始まった。

しかし、それも長くは続かず、天皇方の新田義定と、足利尊氏が戦い、尊氏は戦いに敗れ九州に退いた。

九州に退いた尊氏はその後次第に勢力を整え、瀬戸内海を舟で東に進み、倉敷市下津井港に上陸。弟、足利直義は矢掛町横谷に集結し、山陽道を東に進み高梁川を渡り福山(標高300メートル)を包囲した。

その数30万騎にのぼったと言う。福山城は、新田義定方の武将大井氏経が守り、よく戦ったが足利の大軍に破れ兵庫県に退いた。この戦いを福山合戦と言う。(1336年5月18日)

福山合戦で勝利を得た足利勢は、湊川(神戸市)で新田勢を破り入京し、光明天皇を擁立、後醍醐天皇は吉野に移って南北朝の対立が始まった。

                         
上の写真で、福山城跡は、山頂付近にある。幸山城跡は、左中腹に突出した山の頂上にある。どちらの山上からも、その眺望はすばらしい。

山上で会った方は、秋、稲が実った頃、黄金の田園の中に浮かぶ緑の丘が非常に美しい。

多くの島が浮かぶ瀬戸内海にもたとえられる、今のようには家が無かった昔は、もっと美しかったのでは・・・・・。と言われていた。

幸山城跡(山手村ー現総社市指定史跡)

幸山城は別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から別れた山塊(標高162m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。

鎌倉期の後半頃庄資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。

細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は備中南部での有力な武将であった。

永禄10年(1567)の明禅寺合戦で石川久智は戦死した。

その子久武の時、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱にあたり、久武は義兄の元親を救援するため松山に出陣したが利あらず逃れて幸山城下に帰り自刃した。

時に天正3年(1575)であった。かくして、毛利氏の領国支配のもとで清水宗治等が一時居城し、廃城となった。

この城の縄張りは、東の曲輪と西の曲輪とに別れている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石の所から東の曲輪の平坦部が開けている。

三ヶ月形の地形で南側が約40m、東側が約50m、北側は次第に傾斜して西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ2mもある所がある。

西の曲輪との間の堀切は巾30m、深さ4mの大きなものである。西の曲輪は東西40mx南北30mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。

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