気丈であった母、でも体に現れる症状によっては私にだけ“もう死にたい”
と言い、少しでも体調が良くなればおいしい食べ物の話を良くしていました。
病院の病室で、しかも他の患者さんがいる時に、“もう死にたい”と言った時は
正直どう対応して良いか解らず、何ともいえない悲しさと、みんなは希望を
持って世話してくれるのにそんな弱気でどうするのと怒りさえ覚えた時もありました。
そんな母でしたが、私たちと同居するようになった3ヶ月は弱音等吐かないで、
意識して明るく振る舞っていたのを思い出します。
でも、夜中トイレに起きた際、母が寝ているかガラス越しにちょっと除くと、
ぼーっと悲しそうな目で何処を見るわけではなくテーブルの前にちょこんと
座っている母がいました。
暗くてよく見えなかったのですがたぶん泣いていたように思います。
母はものすごく不安で、近づく死を意識していたのかも知れません。
実の息子なのにその時は、見てはいけないものを見たような心境で
声をかけることが出来ませんでした、その場合、慰めるのが当たり前で、
それが出来なかった自分は薄情であったと思います。
ただ、不治の病を患っているのは母であり、これまでの身体の変化から余命が
長くないことも悟っていたはずで、私とはおかれた状況があまりにも
違いすぎました。
死を意識するとはどういう事か。
何を言っても、気休めにしか聞こえないのは明らかでその場合、なんと声を
かければ良いか、実の息子であっても出来ませんでした。
死を覚悟した母、息を引き取る2週間ほど前からは一切小言を言うことはなく、
これまで世話になったお礼や父の話、昔話から葬儀に至るまで思いつく限りの
ことを話していました。
葬儀については、極力質素に行って欲しい、出来れば子供と孫だけの家族葬でも
構わないことも話していました。
今思うと、あーすれば良かったと思う事がたくさんありますが母と同居した
3ヶ月はとても意味あるものでした。
特に娘はショックであったものの、病気と闘い痛みや苦しみを我慢している姿、
天命を全うする姿などを命かけて教えてくれたと思います。
息を引き取る数時間前から娘は、目に涙を溜めながら返事が出来ないことを
解りながら“おばあちゃん、頑張ってね”と手を握っていました。
家族が亡くなっていく姿は、娘の記憶に深く刻まれたと思います。
娘の脳裏におばあちゃんの記憶が残り、いつまでも私たちの共通の話題となった
ことが母からの最後のプレゼントとなったと思っています。
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