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「おくのほそ道」を考える (通信付録第5号)

2016-03-09 20:42:26 | 320さん通信

 「おくのほそ道」を考える       伊藤 充夫 

「おくのほそ道」は、松尾芭蕉(1644年~1694年)が1689年(元禄2年)45歳の時に、門人の曽良と『東北と北陸』を旅したときの日記(紀行文)であります。しかし、おくのほそ道の「おく」からか、奥州・奥羽・陸奥を連想したり、語感からか「みちのく」をイメージし、東北だけを旅したと思いがちです。芭蕉は、156日で476里(約1900km)を、どう歩き、何をしたのかを考えてみましょう。手始めにクイズです。正しいのはどれでしょうか。 

「おくのほそ道」クイズ

問1、青森県には、行かなかった。

問2、塩釜から松島には、今の観光船コースと同じ所を船で行った。

問3、石巻には、行く予定が無かったが、道を間違えて行ってしまった。

問4、山形の山寺(立石寺)で聞いた蝉の声は、ニイニイゼミである。

問5、月山(1975.5m)の山頂まで登った。 

3月27日(新暦5月16日)新緑の季節、住まいの江戸深川を出発。日光・那須を通り、4月20日いよいよ奥州の入口、白河の関。明治維新の戊辰戦争以来、薩長から「白河以北、一山百文」と、荒地ばかりでどうにもならない所と差別的な言い方をされた。5月3日(新暦6月19日)宮城県に入った、「此比の五月雨に道いとあしく」とあり、梅雨でぬかるだ泥んこ道を歩くのは難儀だったと思う。5月4日仙台入り。端午の節句で菖蒲湯にひたって疲れを癒したと思う。6日には、川内の亀岡八幡へ参詣、大手門から城内に入った。

多賀城碑を見た後、塩釜神社を参詣。塩釜から松島は、今の塩釜港から観光船と同じ経路で松島海岸に着いた。「松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥じず」と書いているように、芭蕉にとって松島は、憧れの地だった。9日瑞巌寺に詣。【 松島や ああ松島や 松島や 】の句を耳にするが、おくのほそ道には、芭蕉が松島を詠んだ句は無い。『松島図誌』にある相模州田原坊の【 松島やさてまつしまや松島や 】を、誰かが松島観光のキャッチフレーズに、アレンジして使ったのではないかと言われている。

この後、平泉を目指したが「路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出」。当時石巻への道は、猟師や樵の行き交うような道、「のどが渇きに水を乞うが貰えず」等、随分難儀したようだ。日和山に登り「こがね花咲」金花山を海上に見渡し、渡波なども眼下に見た。その後、北上川沿いに北上し、柳津・登米町を通って平泉を目指す。

5月13日(新暦6月29日)平泉に着く。高館・中尊寺・金色堂を見る。《 夏草や 兵どもが 夢の跡 》《 五月雨の 降りのこしてや 光堂 》ここから盛岡や青森を目指すことなく、一関(14日)・宮城県の岩ヶ崎・一迫・岩出山・鳴子温泉・尿前の関を超え出羽の国に出る。《 蚤虱 馬の尿する 枕もと 》

尾花沢(5月17日)に着き滞在。5月27日(新暦7月13日)立石寺へ《 閑さや岩にしみ入る蝉の声 》蝉の声が聞こえていたが、初夏なのでニイニイゼミのようです。《 五月雨を あつめて早し 最上川 》最上川は富士川・球磨川と並び、日本三大急流の一つで吾妻山を水源に、米沢・寒河江・庄内平野を通り酒田で日本海に注ぐ。

 6月3日(新暦7月19日)羽黒山に登る。《 涼しさや ほの三か月の 羽黒山 》 8日、月山(1979.5m)に登る。「強力と云うものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、・・・略・・・息絶身こごえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として臥して明るを待つ」とある。《 雲の峰 幾つ崩て 月の山 》 9日、「日出て雲消れば、湯殿に下る」とある。 

 酒田では、《 暑き日を 海にいれたり 最上川 》 6月15日象潟へ 《 象潟や 雨に西施が ねぶの花 》ここから酒田に戻り、由良・温海温泉を経由して鼠の関、北陸の越後(新潟県)に入る。 《 荒海や 佐渡によこたふ 天河 》糸魚川市一振までの新潟平野は330km。7月13日越中滑川市、7月15日(新暦8月29日)加賀金沢市、山中温泉。永平寺・駿河を経て8月21日(新暦10月4日)岐阜県大垣市に到着、長旅の草鞋を脱いだ。

        「餞別は何を・・・・・・3~5点選んでください」 

芭蕉の旅立ちに際し、餞別を贈るとしたら、あなたは何をプレゼントしますか。

虫除けスプレー・蚊取り線香・水筒・サングラス・速乾ティシャツ・折りたたみ傘・リュック・トレッキングシュウズ・雨合羽・寝袋・テント・カロリーメイト・カップメン・インスタントラーメン・アルファマイ・正露丸・胃腸薬・懐中電灯・筆記用具・ポケットテッシュ・タオル・カットバン・etc・・・・・

 

≪参考≫ 江戸時代の東北地方は、奥州(別名陸奥の国)と出羽の2国があり、総称して奥羽と呼ばれました。明治元年に、奥州を5国(陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城)に、出羽を2国(羽前・羽後)に分割し、東北は7国になった。そのため、明治以降に陸奥と言えば、青森県と岩手の一部を指すことで、三陸とは、陸奥・陸中・陸前を総称して言うことです。また、新潟県は越後、富山県は越中、福井県は越前、京の都に近いほうが前です。石川県は、能登と加賀の2国がありました。なお、江戸時代の旅籠では食事がつき、五街道では、一里塚や石標などの道しるべがあった。旅のガイドブックもあった。

 

《参考図書》 「地図とあらすじで読む おくのほそ道」 青春出版社

       「おくのほそ道」を科学する  河北新報出版センター

          「おくのほそ道」クイズは全て○です。             


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