St.MARYマスターズ通信

シニアのための、シニアによる、シニアのスキークラブ、宮城のスキー仲間集まれ!
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「おくのほそ道」を考える (通信付録第5号)

2016-03-09 20:42:26 | 320さん通信

 「おくのほそ道」を考える       伊藤 充夫 

「おくのほそ道」は、松尾芭蕉(1644年~1694年)が1689年(元禄2年)45歳の時に、門人の曽良と『東北と北陸』を旅したときの日記(紀行文)であります。しかし、おくのほそ道の「おく」からか、奥州・奥羽・陸奥を連想したり、語感からか「みちのく」をイメージし、東北だけを旅したと思いがちです。芭蕉は、156日で476里(約1900km)を、どう歩き、何をしたのかを考えてみましょう。手始めにクイズです。正しいのはどれでしょうか。 

「おくのほそ道」クイズ

問1、青森県には、行かなかった。

問2、塩釜から松島には、今の観光船コースと同じ所を船で行った。

問3、石巻には、行く予定が無かったが、道を間違えて行ってしまった。

問4、山形の山寺(立石寺)で聞いた蝉の声は、ニイニイゼミである。

問5、月山(1975.5m)の山頂まで登った。 

3月27日(新暦5月16日)新緑の季節、住まいの江戸深川を出発。日光・那須を通り、4月20日いよいよ奥州の入口、白河の関。明治維新の戊辰戦争以来、薩長から「白河以北、一山百文」と、荒地ばかりでどうにもならない所と差別的な言い方をされた。5月3日(新暦6月19日)宮城県に入った、「此比の五月雨に道いとあしく」とあり、梅雨でぬかるだ泥んこ道を歩くのは難儀だったと思う。5月4日仙台入り。端午の節句で菖蒲湯にひたって疲れを癒したと思う。6日には、川内の亀岡八幡へ参詣、大手門から城内に入った。

多賀城碑を見た後、塩釜神社を参詣。塩釜から松島は、今の塩釜港から観光船と同じ経路で松島海岸に着いた。「松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭・西湖を恥じず」と書いているように、芭蕉にとって松島は、憧れの地だった。9日瑞巌寺に詣。【 松島や ああ松島や 松島や 】の句を耳にするが、おくのほそ道には、芭蕉が松島を詠んだ句は無い。『松島図誌』にある相模州田原坊の【 松島やさてまつしまや松島や 】を、誰かが松島観光のキャッチフレーズに、アレンジして使ったのではないかと言われている。

この後、平泉を目指したが「路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出」。当時石巻への道は、猟師や樵の行き交うような道、「のどが渇きに水を乞うが貰えず」等、随分難儀したようだ。日和山に登り「こがね花咲」金花山を海上に見渡し、渡波なども眼下に見た。その後、北上川沿いに北上し、柳津・登米町を通って平泉を目指す。

5月13日(新暦6月29日)平泉に着く。高館・中尊寺・金色堂を見る。《 夏草や 兵どもが 夢の跡 》《 五月雨の 降りのこしてや 光堂 》ここから盛岡や青森を目指すことなく、一関(14日)・宮城県の岩ヶ崎・一迫・岩出山・鳴子温泉・尿前の関を超え出羽の国に出る。《 蚤虱 馬の尿する 枕もと 》

尾花沢(5月17日)に着き滞在。5月27日(新暦7月13日)立石寺へ《 閑さや岩にしみ入る蝉の声 》蝉の声が聞こえていたが、初夏なのでニイニイゼミのようです。《 五月雨を あつめて早し 最上川 》最上川は富士川・球磨川と並び、日本三大急流の一つで吾妻山を水源に、米沢・寒河江・庄内平野を通り酒田で日本海に注ぐ。

 6月3日(新暦7月19日)羽黒山に登る。《 涼しさや ほの三か月の 羽黒山 》 8日、月山(1979.5m)に登る。「強力と云うものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、・・・略・・・息絶身こごえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として臥して明るを待つ」とある。《 雲の峰 幾つ崩て 月の山 》 9日、「日出て雲消れば、湯殿に下る」とある。 

 酒田では、《 暑き日を 海にいれたり 最上川 》 6月15日象潟へ 《 象潟や 雨に西施が ねぶの花 》ここから酒田に戻り、由良・温海温泉を経由して鼠の関、北陸の越後(新潟県)に入る。 《 荒海や 佐渡によこたふ 天河 》糸魚川市一振までの新潟平野は330km。7月13日越中滑川市、7月15日(新暦8月29日)加賀金沢市、山中温泉。永平寺・駿河を経て8月21日(新暦10月4日)岐阜県大垣市に到着、長旅の草鞋を脱いだ。

        「餞別は何を・・・・・・3~5点選んでください」 

芭蕉の旅立ちに際し、餞別を贈るとしたら、あなたは何をプレゼントしますか。

虫除けスプレー・蚊取り線香・水筒・サングラス・速乾ティシャツ・折りたたみ傘・リュック・トレッキングシュウズ・雨合羽・寝袋・テント・カロリーメイト・カップメン・インスタントラーメン・アルファマイ・正露丸・胃腸薬・懐中電灯・筆記用具・ポケットテッシュ・タオル・カットバン・etc・・・・・

 

≪参考≫ 江戸時代の東北地方は、奥州(別名陸奥の国)と出羽の2国があり、総称して奥羽と呼ばれました。明治元年に、奥州を5国(陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城)に、出羽を2国(羽前・羽後)に分割し、東北は7国になった。そのため、明治以降に陸奥と言えば、青森県と岩手の一部を指すことで、三陸とは、陸奥・陸中・陸前を総称して言うことです。また、新潟県は越後、富山県は越中、福井県は越前、京の都に近いほうが前です。石川県は、能登と加賀の2国がありました。なお、江戸時代の旅籠では食事がつき、五街道では、一里塚や石標などの道しるべがあった。旅のガイドブックもあった。

 

《参考図書》 「地図とあらすじで読む おくのほそ道」 青春出版社

       「おくのほそ道」を科学する  河北新報出版センター

          「おくのほそ道」クイズは全て○です。             


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 「マスターズが若かったころ」(通信付録第4号)  

2016-03-09 20:40:37 | 320さん通信

「マスターズが若かったころ」    

                                  伊藤 充夫 

終戦の昭和20年から、東京オリンピックの開かれた昭和39年までの間に、マスターズの多くが、少年だったり、学生だったり、青春時代を過ごした。それから、半世紀の50年が過ぎました。戦後のベビーブームに生を受けた団塊世代も、今や「年金世代」です。そこで、古き時代に何をしていたか、どんなだったか、タイムスリップしてみましょう。

 

1、  こんな遊びをしていた

めんこ・ビー玉・パチンコ・車輪回し・三角ベース・フラフープ・缶蹴り・影踏み・お手玉・おはじき・・・・・。

2、  こんな格好

   女子の体操着はちょうちんブルマー。男子の高校生は、校章入りの腰手拭いをして、下駄履きだった。応援団と背の低い人は足駄だった。吉田 拓郎の『わがよき友よ』に「下駄を鳴らしてやつが来る、腰に手拭いぶらさげて・・・・・」と唄ったのは、かまやつ ひろしだった。

3、    病気や病原菌も多かった

   トラホーム・ノミとシラミ(女の子はDDTで頭を消毒された)・マッチ箱の検便(主に回虫検査)・しもやけとあかぎれ(手や踵がひび割れて血が出ることもある)・鼻をたらしている子が多かった。

4、    差別やいじめも

坊主頭だから銭はげをバカにした、五円ハゲ、十円ハゲ。脱腸なのだがダッチョと言った。出べそ「バカ・カバ・チンドン屋」「お前のカーちゃん出べそ、だからお前も出べそ」。「デーブ・デーブ・百貫デブ」等。でも、今のいじめ問題とは、質が大きく違うような気がする。

5、    怖い先生が多かった

げんこつ先生・びんた先生・チョークを投げる先生・立っていなさい先生・校庭を走らせる先生。いろんな先生がいたが、威厳があった。

6、    学校給食が楽しみ?

給食が一番の楽しみだったと言う人が多い。(私は、残念ながら給食を食べたことがない。小・中ともなかった、だからわからない)。ビン牛乳は頂いた。冬は、だるまストーブの上のお湯で暖めたのを飲んだ、凄く美味しかった。

7、 修学旅行は東京だった

   中学3年は東京。汽車に乗る、トンネルに入ると急いで窓を閉める。東京タワー・上野動物園・国会議事堂・浅草国際劇場でラインダンスを見る。仲見世で雷おこしを、お土産に買う。バスガイドさんが唄ってくれた「私は東京のバスガール、発車オーライ、明るく明るく走るのよ・・・・」

8、 こんなものを食べた。

ポン菓子(バクダンとも言う)・グリコとカバヤのキャラメル・チキンラーメン・葬式饅頭は大きかった。カラーンカラーン、自転車で売りに来るアイスキャンデー(秋田ではババヘラかな)。

9、 映画館に行った

笛吹 童子・赤銅 鈴之助の真空切・オートバイに乗った月光仮面。(私の行った映画館は、日本通運の倉庫を改築したオンボロ、入場料は20円ぐらいだった)。海が割れる「十戒」や「ウエストサイド物語」なども見た。 

10、 テレビが来た     

力道山の空手チョップは凄かった。吉村・遠藤幸吉・ジャイアント馬場・なぜかレフリーの沖識名さんを覚えている。大相撲は、栃錦 ・若乃花時代から柏戸・大鵬の時代。野球は、長嶋・王・村山・国鉄の金田。「てなもんや三度笠」の藤田まこと・白木 みのる、それとスポンサーの「あたり前田のクラッカー」も記憶にある。「8時だよ全員集合」のドリフターズ。さらに、鉄腕アトム・サザエさん・ゲゲゲの鬼太郎・おばけのQ太郎。

11、 自動車は

オート三輪のミゼット、大村昆さんがコマーシャルした。その後、てんとう虫と呼ばれたスバル360、フォルクスワーゲンをまねた。ホンダのN360は、ミニクーパーをまねたもの、私が最初に買った車もホンダN360でした。その後、パブリカ・カローラ・サニー・・・・・。

 

☆ マスターズのメンバーは、それぞれ生い立ちが違います。でも同世代として共通するところが多い。我慢強い、一生懸命、がんばり屋、ど根性がある、ものを大事にする、人情深い・・・・・。反面、熱すぎる、がんばり過ぎ、おせっかい・・・・・。だからいいんだよね。若かった時のことをダシに、いろんな所・いろんな場面で、思い出を語って頂ければと思います。


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 「ロンドン五輪番外編」(通信付録第3号)

2016-03-09 20:38:12 | 320さん通信

「ロンドン五輪番外編」       伊藤 充夫 

番外編 「その1」 えぇー 美人は背泳ぎ ?

木原 みち子さんのお母さんが「あなたは美人だから絶対背泳ぎをしなさい」と娘に言った。水面に顔を出して泳ぐのは、唯一背泳ぎだけです。寺川 綾も、凄い美人さん、背泳ぎが似合う人です。ちなみに、身長174cm・体重58kg。寺川は、競泳女子最年長記録の27歳で、100m背泳ぎで銅メダル。また、400mメドレーリレー(寺川・鈴木・加藤・上田)でもリーダーとして活躍、日本女子リレー初の銅メダルを獲得した。

番外編 「その2」 えぇー 負ける気満々 ?

バドミントン女子ダブルスでベスト8入りを決めていた、中国・インドネシア・韓国2組の計4チームが、無気力試合で失格処分。ロシアなど1次予選敗退の4チームが繰り上がり、ロシアは棚ぼたの銅メダルを獲得。日本の藤井・垣岩組もしてやったりの銀メダル。気の毒なのは「負ける気満々」の試合を、高い入場料を払って見に行った観客ですね。

番外編 「その3」 えぇー 体操男子300ドルで銀メダル ?

体操団体の最終種目のあん馬で、「内村 航平の得点が低い」と日本側が抗議。上級審判員のビデオ判定による再審査の結果、4位から2位となり、銀メダルを勝ち取った。なお、再審要求には抗議料が必要で、1回目300ドル(約24,000円)2回目500ドル・3回目1,000ドルがかかる。でも、抗議が認められれば、抗議料は返金される。

番外編 「その4」 えぇー こんなことって本当にあったの ?

ボクシング男子バンタム級の清水 聡が、2回戦で6回もダウンを奪うが、レフェリーがカウントせず判定負け。その後の提訴で逆転の判定勝利。準決勝まで進み銅メダルに輝いた。なお、レフェリーは大会から追放された。

番外編 「その5」 えぇー 報奨金・高いの安いの?

日本オリンピック委員会からメダリストに贈られる。金300万円・銀200万円・銅100万円。最高は内村航平の700万円(金1・銀2)。日本陸連は陸上競技唯一の銅メダリスト室伏広治に400万円。バドミントン協会は、銀メダリストの藤井と垣岩に500万円支給。競泳では、GMクリック証券から銀300万円・銅100万円が贈られた。レスリングの伊調は、JOCの300万円に、レスリング協会からとALSOKからで、2,000万円を超える。吉田も同様だろう。

番外編 「その6」 えぇー メダルって、あると無いでは大違い ?

日本女子バレーの竹下によると、「帰りの飛行機がエコノミーからビジネスクラスに変わった」成田空港のゲートを出るときは、メダリストが優先。日本に着いて、会う人会う人みんなニコニコして迎えてくれる。「こんなに大勢の笑顔を見たのは始めてかも」と。

番外編 「その7」 えぇー 選手団に入れなかった淡路が銀メダリスト ?

淡路 卓(東北工大高校・仙台出身)はJOCの選手団に含まれない、交代要員での登録。選手村にも入れないので、近くに部屋借りして過ごし、渡航費等は日本フェンシング協会で負担。それが、フェンシング団体フルーレ決勝戦に出場、世界ランキング1位のイタリア・カッサーラと堂々と渡り合い、銀メダル獲得に貢献。気仙沼出身の千田 健太と被災地に元気を届けた。もちろん、JOCから追加で選手団に登録され、報奨金や渡航費用等は支払われることになる。

番外編 「その8」 えぇー ホケツで出場 ?

馬場馬術の補欠ではなく、法華津 寛さん。日本五輪史上最年長の71歳が、凛とした美しいフォームと、手綱裁きで障害物を乗り越える。残念ながら、1次予選40位で失格となったが、『中高年の星』に大きな拍手を送りたい。

番外編 「その9」 えぇー 男子柔道初の金メダル「0」 ?

東京五輪から始まったお家芸の柔道、7階級全てで金メダルを逃す屈辱を味わった。柔道がJUDOに敗れる。篠原監督の「ゆとり教育はしない」これが、強化合宿の連続となり、選手を疲弊させたのではと言われる。選手からも「合宿漬で、技の研究や怪我の治療も出来ない」等の不満もあった。『ガンバレ・ガンバレ・根性だ』だけでは世界のJUDOには、対応できない。「休養・栄養・科学的練習・対戦相手となる外国選手の研究」が必要だと思う。

番外編 「その10」 えぇー メダルって重い ?

ロンドン五輪で日本が獲得したメダルの数は38個、特に水泳では11個と貢献し、アテネの37個を上回る史上最多となった。そのメダルは、直径85mm・厚さ7mm・重さは缶ビール350mlを超える400g、結構重いものですね。重さは、金・銀・銅の色には関係ありません。漢字で書けば、銅メダルは「金と同じ」となるし、銀メダルは「金より良い」となります。

             ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

多くの熱い感動と元気を頂いたロンドン五輪。その閉会式は、各国選手の自由で、思い思いの楽しい入場行進だった。《各国の選手が入り乱れての入場行進は、東京五輪から始まった。行進を待つ選手にご苦労様と、五輪成功の感謝を込めて、祝い酒を振舞った。酒に酔った選手はハイテンションとなり、肩を組みワイワイ・ガヤガヤ、国境の無い、人種差別の無い、仲間の入場行進だった》

17日間のオリンピックも幕を閉じ、次は、南米のブラジル。熱く陽気なサンバの国。リオデジャネイロにバトンタッチされた。       (2012.12.05)

         ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

参考図書 『2012 LONNDON  Heros Moment・ Sports  Graphic  Number』


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 「ロンドン五輪の熱い感動」(通信付録第2号)

2016-03-09 20:35:10 | 320さん通信

 「ロンドン五輪の熱い感動」    

                           伊藤 充夫 

第30回夏季オリンピック・ロンドン大会が2012年7月27日から8月12日まで、204ヵ国10,500人の選手が参加して開催された。日本は293人の選手を派遣した。開会式での最終聖火ランナーはベッカムの予想もあったが、若い7人のランナーが、希望の花タンポポをイメージした204本の聖火に点火。アトラクションの最後は、ポールマッカートニーのリードで『ヘイジュード』を選手、観客が合唱。テレビの前では、世界中の人々が口ずさんだことだろう。

閉会式では、故ジョン・レノンが大スクリーンに登場。代表曲『イマジン』が流れた。やはりイギリスはビートルズであり、世界のビートルズなのだ。こんな中で、私の目に映ったロンドン五輪の「熱い感動」をひろってみた。

熱い感動 「その1」 世界最速の男はボルト

何と言ってもオリンピックの華は、陸上競技100m。ウサイン・ボルトはオリンピックレコード9秒63の、41歩で走りきった。電流の走り、ものすごい加速、ゴールになだれ込む選手、その前に通り過ぎていた。200mは19秒32、400mリレーを含め3個の金メダルを、カリブの島国ジャマイカに持ち帰った。「俺は伝説になった」と、人類最速の称号は、誰にも渡すことはなかった。

熱い感動 「その2」 究極の美 体操内村 

内村航平が個人総合で金メダル。つま先まで神経の行き届いた体線、その体が何度も宙を舞う。そして、床に吸い付く着地、ピタリと止まる。強さと美しさを貫いた。個人総合では、ロサンゼルス大会の具志堅以来28年ぶりの金メダルを獲得した。団体の銀、床の銀で3個のメダルを獲得した。

熱い感動 「その3」 やはり北島は、日本水泳陣のリーダー

アテネで金「超 キモチイイー」 北京で金「何も 言えネエー」 しかし、100m・200mでメダルなしに終わった。男子400mメドレーリレーの仲間3人が「康介さんを手ぶらで帰らせるわけには行かない」と奮起。もちろん北島も最高の泳ぎをして、銀メダルを獲得した。泳ぎ終わって北島は「思い出深いオリンピックになった。全ての人に感謝したい」と。

熱い感動 「その4」 女子バレー ひろいにひろって銅メダル

 出場12チーム中、最も平均身長の低い日本が、リベロの佐野優子・セッター竹下佳江を中心に、ひろいにひろった。ボールと床との間に手を差し込むフライングレシーブ、どこまでもボールを追う気迫。ブラジル・アメリカに次いで3位、28年ぶりとなるメダルまでひろった。

熱い感動 「その5」 ナデシコ五輪初のメダル

澤からキャプテンを引き継いだ宮間 あや、フランスとの準決勝「ここには限られた人しか立てない。みんなの思いを全て背負って絶対に勝とう」と、結果は2対1で勝利。決勝戦は、1年前のワールドカップと同じアメリカ。1対2の惜敗だが、攻めのサッカー、ワンタッチの速いパス回し、ナデシコの実力は十分発揮できたが、悔しくて涙・涙・涙。でも表彰式は“なでしこトレイン”で入場「満面の笑み、満開のスマイル」スタンドから大きな拍手が起った。

熱い感動 「その6」 伊調 馨 日本女子初の3連覇

日本女子選手初の、オリンピック3連覇を達成した。日本選手で「最も金メダルに近い選手」と言われていた通り、実力を遺憾なく発揮した。楽勝に見えたが、ロンドン入りしてからの練習で、左足3本ある靭帯の1本半が切れ、痛め止めを打って試合を続けていた。伊調は「ますますレスリングが面白くなってきた。これからは、攻守全てが理にかなっていて、きちんと説明できるレスリングをしたい。もちろんリオでの4連覇を目指す」と。また同日、選手村で同室・同郷(八戸)の小原 日登美も金メダルに輝いた。

熱い感動 「その7」 吉田 沙保里も日本女子五輪初の3連覇

「選手団の旗手は活躍できない」と言われるジンクスも簡単にクリア。高速タックルで、次々と難敵をなぎ倒し、予定通りの金メダル。9月の世界選手権で、五輪と合わせて13大会『世界一』となる新記録を打ち立てた。さらに、国民栄誉賞に輝いた。

熱い感動 「その8」 やはり怪物 フェルプス 18個の金メダル

北京五輪で8個の金メダルを獲得した競泳のフェルプス(米国)は、ロンドンで7冠を目指したが、初日の400m個人メドレーで4位と惨敗。ここから奮起し、金4個・銀2個を獲得、やはり怪物だ。五輪史上最多の金メダル18個(2位はカールルイスらの9個)の大記録と共に引退。「やり残したことはない。もう戻らない」残念だがフェルプスの“水を支配する力強いストロークは、もう見ることはない“

熱い感動 「その9」 卓球初のメダル 団体女子銀メダル

団体戦は3人で戦う、先に3勝したチームの勝。準決勝はシンガポール、先人陣は福原 愛(仙台)順当に1勝。2番手は石川 佳純19才のエースで圧勝。3戦目はダブルス、石川と平野 早矢香(仙台育英OG)の見事な勝利で、銀が確定。決勝は中国に敗れたものの、約束通り被災地にメダルを持ってきた。福原は3歳で卓球を始めた。泣き虫の愛ちゃん、20年かけて夢を実現した。

熱い感動 「その10」 重量挙 三宅 宏美銀で父を超えた

1968年のメキシコ五輪銅メダリスト三宅 義行(宮城県村田町)を父に持つ、宏美。小さな体のどこにあんな力があるのだろうと思う。「銀で父より1個上にいけたと」親子メダルを喜んでいた。  次号は「ロンドン五輪番外編」です。


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「東北弁っていいな」(通信付録第1号)

2016-03-09 20:24:39 | 320さん通信

「東北弁っていいな」        

                          伊藤 充夫 

「なけ・わく」(あなた食べなさい・私食べます)。「どさ・ゆさ」(どこに行くのですか・お風呂に入りに行きます)。たった四文字で会話になる。東北の冬は寒く(さびぃ・しばれる)頭からすっぽり角巻き(北国の女性用防寒コート、地吹雪体験ツァー等で着ている)をかぶっても口が凍るような所で、必要最小限の言葉を交わす。でも、温かみとぬくもりが伝わってくる。

しかし、戦後、標準語・共通語を使うことが国の方針となり、東北弁がズーズー弁だ、訛っていると言われ、東北人の多くが言葉に対する劣等感や、コンプレックスを抱いたり、物凄く悩んだりすることが多かった。

1、そんな中東北弁を広めた人々がいた

ア、 高橋 圭三さん(岩手 花巻市 元NHK アナウンサー)共通語と全く違う花巻のアクセント。でも温かい柔らかな喋りで、のど自慢や紅白歌合戦の司会を務めた。また、「どうも・どうも圭三です」と「話しの泉」「私の秘密」などでお茶の間の人気を集めた。

イ、 桂 文生 師匠(宮城 石巻市 落語家)言葉はもちろん、アクセントの違う江戸弁の世界に飛び込んで修行。「東京は田舎者が集まって出来た街」と開き直り、東北弁を駆使した喋りと、泥臭さを信条に活躍している。

ウ、 長岡 輝子さん(岩手 盛岡市 女優)NHKの朝ドラ『おしん』で、「おしん」の奉公先、酒田市の大店の女主人役で出演。また、岩手弁で宮沢 賢治の詩や、童話の朗読会を長年続けている。

  エ、 吉 幾三さん(青森 金木町 歌手 地吹雪ツアーや、津軽鉄道のストーブ列車で有名な町です)1977年『俺は ぜったい プレスリー』で一躍有名に「俺は田舎のプレスリー・百姓のせがれ・生まれ青森五所河原・いっぺん来てみなが・・・・・」 1984年には、ヒットするとは思ってもいなかった『俺ら 東京さ 行ぐだ』が大ヒット「テレビも無ェ ラジオも無ェ、 俺ら東京でベゴ飼うだ・銀座に山買うだ・・・・・」

  オ、 ダニエル カールさん(米国)自称:山形弁研究家

    山形の中学・高校の英語の先生として来日した。山形のいずばんめんごいシェンシェ様をよめごにした。山形弁を喋る英語の先生とタレント。

カ、   藤沢智子さん(宮城 仙台市 東北放送アナウンサー)

『いずいを全国に広める会の会長』会員は会長一人かも。 「この靴いずいど思ってだきゃ、石っこひゃてだんだ」こんな風に使う。 

☆    このほかにも、千 昌夫さん(岩手 陸前高田市)あき 竹城さん(山形 米沢市) 西田 俊行さん(福島郡山市)等多くの方々いる。

2、こんな東北弁わかりますか

  青森県 「あずましー・・・心地よい」 「じょっぱり・・・頑固者」 「め・・・うまい」 「けっぱる・・・がんばる」 「かちゃくちゃね・・・散らかる」

岩手県 「ごろじる・・・ご覧になる」 「ばつこ・・・末っ子」 「おずげ・・・味噌汁」 「きゃっぱり・・・川に落ちる」 「かまりっこ・・・香る」

秋田県 「とじぇね・・・寂しい」 「しぇんち・・・便所」 「おんざる・・・お出でになる」 「えがらもがら・・・よろよろ」 「むったり・・・一心に」

山形県 「むさがり・・・婚礼」 「たがぐ・・・持つ」 「わらわら・・・急いで」 「すなこえ・・・歯切れが悪い」 「あがらっしゃえ・・・お入りなさい」

福島県 「ずなぇー・・・大きい」 「さすけねー・・・きにしないで」 「ほまち・・・へそくり」 「ざんぞ・・・陰口」 「しょっちゃげる・・・破れる」

宮城県 「ちょす」 「ごしゃぐ」 「ほでなす」 「しずね」 「おしょすい」 「ねっぺ」 「えがす」 「ねぷかげ」 「とじぇんだ」  「かばねやみ」 「みだぐねぁ」 「たろっぺ」 「ひわしね」 「びっき」 「ぎゃろこ」 「やばつい」 「むずる」 「ふだだ」

「めんこい」 「わっぱが」 「じゃす」 「どでんする」 「ほでまず」 「おみょうぬず」 「しびらっこい」 「ねまらいん」 

3、マスターズで東北弁を使うと

   先生「おめ、なすてレッスンおぐれで来た」 生徒A「ほだたて、朝方雪こ降ったんで、ぬわはぎしてきたのしゃ」 先生「ほだが」。先生「かがとさ、めがだかげれば、安定すて滑るし、あんべぃいいぞ」 生徒B「んだ・んだ」 生徒C「んだな」 先生「んだべ」 生徒D「んだげんど、なすておらうまぐいがねんだや」 先生「すかげわりし、まえかがみだもな」 生徒A「んだね」 生徒D「んだらなじょすたらいいのしゃ」    先生「はねでみろ」 生徒D「こうがい」 先生「ほらでぎだべ」 生徒D「んだな、でぎだ」 生徒のみんな「いがったな、やればでぎるでねの」

 

☆ 終りに、東日本大震災の時『津波てんでんこ』この言い伝えどおり、おのおのが高台を目指し、津波から命拾いした人がいる。てんでんこは、行動は各々別でも、お互いの心が通じている。「てんでんばらばら」ではない。東北弁で使う「てんでんこ」の「こ」には「こころ」がある。

伊奈 かっぺいさんが(青森市)「東北弁で話すと二倍おもしろくなる。その東北弁をよく理解していると三倍楽しめる」と言っている。私たちも、びゃっこずずでいいがら、東北弁・仙台弁を使ってみっぺすね。 

※ いろいろな話題を提供したいと思っています。ご感想・ご意見・ご要望を頂ければ幸いです。


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