森の詞

元ゲームシナリオライター篠森京夜の小説、企画書、制作日記、コラム等

第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 4

2007年12月01日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.1:27

 空は高く青く澄み、天上から伸びた白い雲のハンカチが灰色の影をつけながら空を舞っている。
 太陽は白い光を放ち、黒く伸びた電線が空を区切っている。高いビルは影絵の背景のように道行く人々の上にそびえ立っている。
「どう? 似合う?」
 歩道橋の上でビデオカメラを構えて取り留めなく風景を撮っていた僕は、声をかけられて振り返った。
 そこには、さっき買ったカウボーイハットを被ったドロシーが立っていた。彼女と二人で繁華街までやって来た僕は、彼女の買い物につき合わされることになったのだ。
「……君の体質、防犯カメラにも効くんだね」
 僕は歩道橋の手すりにもたれかかった。
「さっきのお店、いきなりビデオカメラが故障したから大騒ぎしてたよ……」
「そうだっけ? 気づかなかったわ」
「…………そうだろうね」
 街に出てきて最初に入った大きな洋服店で、ドロシーは店員の騒ぎにかまうことなく店中の靴を一時間以上かけて物色し、最終的に赤いエナメルのサンダルを購入していた。そして彼女は、展示用に飾られているカウボーイの人形にも目をつけたのだ。
「ほら、やっぱり銃はこうやってしまうのがいいよね」
 ドロシーが戦利品を見せびらかす。それは西部劇でよく見る、腰に巻くタイプの銃のホルダーだった。展示用だったせいか、ベルトには意味不明な銀の星形の飾りがついている。
 今のドロシーを例えて言うなら、さしずめファッションショーから抜け出してきたカウガールといったところか。
「いいのかな? それ展示用だろ?」
「いいのよ、お金は払ったんだし、お店の人だっていいって言ってたわ」
「もしかしたら、防犯カメラが壊れたからそっちに気を取られてたんじゃないかな?」
「そうかもね」
 ドロシーは楽し気に笑うと、僕の隣で手すりにもたれた。
 確かにドロシーは金を持っていた。正直な話、あの古いコートのポケットから札束が出てきた時には自分の目を疑ったが。何だって彼女があんな大金を持ってるんだ?
 もっとも、尋ねれば魔法で出したのだと答えそうなので聞くのはやめておいた。
 ちなみにコートとヒールの折れたサンダルは店に引き取ってもらった。勝手に置いてきたと言った方が正しいかもしれない。
 札束を何処にしまったのかはわからない。
「ところで、何を撮ってたの?」
 僕はドロシーに尋ねられて口籠った。
「……町の風景……かな」
「ふーん……」
 ドロシーは頬が触れるかと思うくらいに僕の顔に顔を寄せ、手すりの上に体を乗せて下の方を覗き込んだ。しかし特に撮るべきものが見当たらなかったのだろう、少し戸惑ったような表情で僕の方を向いた。
「……で、何の辺りを撮っていたわけ?」
 ドロシーの横顔に見とれていた僕は慌てて返事をした。
「だからね……」
 何が『だから』なのかよくわからないが、僕はインテリ臭く少し気取って説明を始めた。
 これは僕の悪い癖で、人に対して自分の考えを述べる時に何故か気取った態度をとってしまうのだ。特に気取るようなことを考えているわけでもないのに。
「……だから、別に風景を撮るからと言っても、山とか海とか……『特別』な所を撮る必要はないんだ。いつも見慣れているような町の風景でも、光の加減や角度によってとても綺麗になる瞬間がある。例えば、道端に捨てられた空き缶や、その上を通る人の影なんかでもね」
 更に良くないことに、僕は話し慣れていないせいもあって、一度話し始めると相手の反応を伺うこともせずに話し続けてしまう。少なくとも女の子に対しては絶対にやってはいけないことだ。
「だから、僕はそんな風景を見つけ出して撮るのが……」
 僕はそこで、ドロシーがこちらを向いていないことにようやく気づき、話を中断した。
 ドロシーは手すりに両手をついて町の風景を眺めていた。そして僕の方を振り向くと、目を輝かせて笑った。
「凄いね。貴方の話を聞いてると、まるで自分が御伽噺の世界にいるみたいな気がしてくる。でも、なかなかそんな風景は見つけられないな」
「……まぁ、これは僕の考えだし……人によって見つけられる物は違うと思うよ」
 ドロシーを飽きさせてしまったのだとばかり思っていた僕は、彼女の真剣な表情に驚いて慌ててつけ足した。
 ドロシーが僕の話を聞いていてくれたのは嬉しかった。何か心の奥底に溜まっていた物がすっきりとしたような気がする。人に自分の考えを話すだけで心が軽くなるとは驚きだ。
 もっとも、話してしまってから自分の考えが片寄った頭でっかちなものだということに気づいてしまい、かなり恥ずかしい思いもしたが……彼女が喜んでくれたことを考えれば、それも決して悪くない。
「僕は結構、夕方の空を見るのが好きだな。夕焼けの色は毎日違うし、綺麗な夕焼けに会えるというのはとても運のいいことなんだ」
「夕焼けか。悪くないわね」
「それと綺麗な女の人を見るのも好きだ」
「正直ね」
「……相手によるさ」
 僕はドロシーに向かって微笑んだ。

 その時、大学生風の男が歩道橋の上に現れた。
 男はタバコをくわえながら、いかにもだるそうに歩いていたが、僕の方を見ると眠そうな目を開けて声をかけた。
「よお、久し振りだな……どうしてるんだ?」
「……何だ、斉藤か……」
 斉藤は僕の高校時代のクラスメイトで今はこの町の大学に通っている。僕とは特に親密な交流があったわけではないが、お互いに嫌っているわけでもない。
 実を言うと、僕は彼が歩道橋の上に現れた時から彼のことに気づいていたが、あえて話しかけようとしなかった。つまり、無視していたのだ。

 Q.理由は?
 A.…………言いたくない。

「今はこの町の予備校に通ってる。そんなに勉強はしてないけどね」
 僕はできる限り平静を装って答えたが、斉藤は僕より隣のドロシーの方に注目していた。
 ドロシーは僕達の会話に興味はないといった様子で空を眺めていたが、斉藤はドロシーと僕がそれほど深い仲でないのを感じ取ったらしい。
「やあ、どうも、俺、斉藤って言うんだ。あいつとは高校からの知り合いで……」
 僕を無視してドロシーに近づき、馴れ馴れしく声をかける。しかし、ドロシーの返事は素っ気なかった。
「……アタシはドロシー。よろしく……」
「君、綺麗だね。もしかしてモデルとかやってる?」
「……やってない」
「やりたいとは思わない? 俺の知り合いに業界の奴がいるんだけど」
「……別に」
 僕の時と同じだ。まったく会話のきっかけがつかめないでいる。
 しかし斉藤は僕とは違い、そう簡単に諦める気にはならないらしい。いきなり蚊屋の外だった僕の方に話し始めた。
「しかし、こいつがこんな美人を連れてるなんて意外だなあ。知ってる? こいつ高校の頃は凄く頭が良かったんだぜ」
 斉藤が僕の肩に手を置いた。タバコの嫌な臭いが漂って来る。
「でも不思議だよなあ、大学は全部滑っちまったんだろ? 滑り止めも全部ダメだったんだっけ? あれはどうしてだ? 風邪でもひいてたのか? ……まあ、あれだよなあ、幾ら頭が良くても本番に弱ければダメってことだよなあ」
 どうしてこんな奴にそんなこと言われなきゃいけないんだ?
 僕の視線が足下の石で止まってピントがぼけた。目の前が暗くなる感じがする。
「……関係ないだろ!」
 僕の腕が振り上げられ、斉藤の腕を振り払った。自分で出した声の大きさに自分で吃驚する。
 斉藤も驚いたようだったが、口元に軽薄な笑みを浮かべると謝った。
「悪い悪い、気に触ったか? それはすまなか……」
 斉藤の笑みを目にした瞬間、薄暗かった僕の視界は急速に狭まり真っ白に反転した。そしてまるで誰かが僕の体を操っているかのように、僕の腕が斉藤の襟元に伸び襟をねじり上げた。
 頭の中には斉藤に対する言いようのない殺意があった。でも隅の方にはやけに冷静な部分があり、自分自身の行動を眺めていて……そう、こんなことしても何にもならないってことがわかっていた。
 斉藤はしばらく軽薄な笑みを浮かべていたが、僕が真剣なことに気づいて表情を変え、僕の腕をねじり上げにかかった。ろくに運動もしていない僕が腕力で敵うはずもなく、あっさりと腕を取られる。途端、顎の骨に鈍い衝撃が走り、頭の中が揺れた。僕は背中から手すりに激突し、倒れ込んだ。
「何いきなりキレてんだよ! 気持ちワリぃなあ!」
 斉藤は血走った目で僕を見下ろし吐き捨てた。
「……すまない」
 僕は目を伏せて呟いた。頭と体の奥底には、まださっきの衝動が後味悪く残っていたが、痛みのおかげで何とか落ち着けた。

「お腹が減ったな。何か食べに行こうか?」
 顔を上げると、ドロシーが近くまで来ていた。
「ああ、それなら俺がいい店を知ってるからそこに……」
 斉藤は僕を無視してドロシーに手を伸ばした。しかしドロシーは軽く斉藤の手を払うと僕の方に手を伸ばした。
「立てる?」
 僕は道端の石になったような気がしていたが、ドロシーに声をかけられて信じられない物を見るように彼女を見上げた。
「なあ、そんな奴にかまってないで俺と一緒に行こうって」
 斉藤が馴れ馴れしくもドロシーの肩に手をかける。しかし、ドロシーは振り返りもせずに斉藤の手を振り払った。
「……勝手に触るな、気持ち悪い」
 ドロシーの台詞に反応して、斉藤は乱暴に彼女の肩に手をかけ強引に自分の方を振り向かせた。血色の悪い顔が大きく歪んでいる。
「何だって……? もう一回言ってみろ」
 ドロシーは面倒臭そうに髪をかき上げた。
「別に大したことは言ってないわ。アタシは勝手に体に触られるのは嫌いだし、自分の昼食の相手は自分で決める。何か失礼なことを言ったのなら謝るけど。これだけは譲れないわ。ごめんね」
「……! バカにしやがって!」
 斉藤はもう一方の手で彼女の肩を押さえつけた。瞬間、ドロシーの右手が凄い速さで動いた。気がついたとき、ドロシーの右手は人指し指と親指で銃を形作っており、銃口は斉藤の右目の直前で止まっていた。
「言ったはずよ、触られるのは嫌いだって。一度ならともかく二度目は許さない……目を潰されたくなかったら失せなさい」
 斉藤は凍りついたように立ち尽くしていたが、ドロシーの肩を離してフラフラと後退ると、一目散に歩道橋の上から消えた。
「……やれやれ」
 ドロシーは僕の方を振り返り、微笑んだ。
「みっともないとこ見せちゃったね」
 僕は足下を見ながら呟いた。多分、ドロシーは僕のことを軽蔑しただろう。できれば彼女には、こんな自分は知られたくなかったのだが。
「そうね、かなりみっともない」
 ドロシーは僕の前に立って素っ気なく言った。そして僕の横を通り過ぎながら僕の背を軽く叩いた。
「さあ、行こうか」
「……何処へ?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった僕が驚いて尋ねると、ドロシーもまた不思議そうな顔をし、
「……だから、何か食べに行くのよ」
 と答えた。

第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 3

2007年11月30日 | 僕達の惑星へようこそ

 AM.???

 夢を見た。
 夢の中で僕は、曇った暗い空の下、砂漠をさまよっていた。
 地面には細かい砂が風によって波状の模様を作り、それは徐々に大きなうねりとなっていった。そしてそれは、地平線の彼方まで続いていた。
 砂は柔らかく、一歩ごとにくるぶしの上まで足が埋まる。僕は何かに追われるように、必死になって進んでいた。
 不意に足下の感覚が変わり、僕はアスファルトの上に立っていた。周りを見回すと、そこは無人の遊園地の中だった。
 時刻は夕方だろうか? 青く曇った空の下、色とりどりの電飾をつけた無人のアトラクションが、賑やかな音楽と共に動いている。
 僕が遊園地の中を進んで行くと、大きなメリーゴーラウンドがあった。暗い遊園地の中で一際明るい光を放ち、カラフルな木馬や馬車がゆっくりと回転している。
 僕が周りの鉄製の柵に手をかけて眺めると、ちょうど僕の前を赤い目をしたピンク色の木馬が通り過ぎていくところだった。
 何か嫌な感じがする。早くここから逃げださなければ……僕は何故かそう思った。
 その時、高らかに電子音のラッパが吹き鳴らされ、木馬の回転するスピードが一斉に速くなった。
 僕が驚いて辺りを見回すと、メリーゴーラウンドの向こう側から人の乗った木馬が現れた。空色の角を生やした白馬……その上に乗っていたのは、薄汚れたコートを纏い、頭から血を流した、あのおじさんだった。
 おじさんの禿げかけた白髪が強い光を浴びて更に白く輝き、こめかみから流れた血は、そこだけ強調されたように赤かった。
 おじさんは流れる血にかまうことなく僕を見ると、楽しそうに笑い手を振った。
 僕の心臓の動悸が激しくなり、背筋に汗が流れるのが感じられた。そして逃げ出したい欲求は更に強くなった。
 しかしおじさんは僕とは対称的に、本当に楽し気に手を降って笑いかけている……僕は反射的に柵を握り締めていた手を放し、おじさんに手を振った。
 ……しなければ殺されそうな気がした。
 おじさんは僕が手を振ったのを見て嬉しそうに微笑むと、木馬から両手を放し、深呼吸でもするように体を反らして、僕の前を通過して行った。
 僕は泣きたくなっていた。しかしどういうわけか、逃げ出そうとしても足はその場所から動こうとしない。
 逃げ出さなければ! ここから早く!
 僕が両手で柵をつかみ体を動かそうとしている間に、おじさんの乗った木馬は視界の向こう側に消えた。
 多分、おじさんはもう少しで反対側から出て来て、もう一度僕に手を振るだろう。
 そうしたら、僕はもう一度手を振り返さなければいけないのだろうか?
 それは嫌だ、早くここから逃げ出さなければ!
「畜生、あの時助けるんじゃなかった! あんな奴……やっぱり死ねばよかったんだ!」
 僕は柵をつかむ手に力を込めながら叫んだ。
 途端、僕は世界崩壊の序曲にも似た振動に襲われ、辺りが真っ暗になった。頭の中を滅茶苦茶に掻き乱されるような感覚と共に、目の前の映像が凄まじい速さで変わっていく。

 目が覚める瞬間、水浸しの部屋の中に立つ髪の長い女の姿が見えた。部屋は暗く、天井からは滝のように水が流れ落ちている。
 女は腰まで水につかりながら両腕を広げていた。

 AM.10:15

 目を開けると天井が見えた。
 僕の部屋の天井はだいぶ痛んできている。天板にはヒビが入っており、まるで切れ長な魔女の目のようだ。
 壁の時計は十時半を示している。あの時計は確か十五分くらい進んでいたはずだから、今は十時十五分か……。
 僕を起こしたのは携帯電話のバイブレーションだった。僕はソファーに寝たまま腕を伸ばし、机の上で踊っている携帯電話を取った。
 電話はリョウからだった。
『何だよ、寝てたのか?』
 どうも寝ぼけた声を出してしまったらしい。僕はさっきの夢の内容を思い出しながらその通りだと答えた。
『いつまでも寝ぼけてるんじゃねえぞ、俺なんか……』
 その時電話の向こう側で、女の甘える声と、それを追い払うリョウの声が聞こえた。
「……女がいるのかい?」
『ん? ああ、まぁな』
 リョウの話によると、昨夜あの後二人組の女の知り合いと会ったので、二人とも部屋に連れ込んだらしい。
「寝たの?」
 僕の質問にリョウが苦笑した。
『当たり前だろ? 何言ってるんだよ、女が部屋に泊まりたいって言ってるんだ、やるに決まってるじゃないか』
 僕はソファーに座り直すと少し考えてから返事をした。
「……ああ、そうだよね……うん、僕もそう思うよ」
 リョウは僕の口調の変化にはかまわず続けた。
『ところで、アユミとはどうなったんだ?』
 その名前を聞いた途端、携帯を握る僕の手の力が強くなった。
 ……あの女……か。
「どうって……どうにもなってない。あれっきりだよ」
 自分でも声に力がないのがわかる。
『何だ、そうなのか』
 リョウは教師が物わかりの悪い生徒に話すように続けた。
『お前さあ、何を恐がってるんだよ。やりたいようにやればいいじゃないか、お前は遠慮し過ぎるんだ。そんなことじゃ……』
「うるさいな、放っておいてくれよ!」
 受話器の向こう側で、リョウが驚いたように息を呑む。
 ……しまった。
 僕は一瞬ひどく後悔したが、
『悪い悪い、そんなに怒るなよ……ところで、昨日のことなんだが』
 僕は思わず安堵のため息をつきそうになった。どうやら彼の怒りには触れなかったらしい。
 リョウの持ち出した話題は、昨夜の処刑のことだった。
『あのオヤジ、死んだかな?』
 リョウは天気の話でもするかのように軽く話した。
「……さあ、どうだろうね? ……でも死んだらまずいよね」
 僕は慎重に言葉を選んだ。
 すると、リョウは意外なことを言った。
『死んじゃいないよ、誰かさんが救急車なんか呼んだからな』
「……知ってたのか」
『ああ、今朝ジンに見に行かせた。あいつ怒ってたぜ、あのオヤジが俺達のことを話したらどうするんだってな』
 黙ってしまった僕をからかうようにリョウが続けた。
『人道的処置ってやつだな。まあ今回は大目に見てやるよ。だがジンに殺されたくなかったら、そういうことはやめるんだな』
 電話の向こうで女が呼んだらしくリョウが動くのが感じ取れた。
『くだらないな、あんな奴生きてて何になるんだ。ああ、心配するなアイツは訴えたりなんかしないさ、そんな勇気もない負け犬だ。もし警察が動いても……親父が揉み消すさ』
 台詞の最後の部分を、リョウは吐き捨てるように呟いた。
 女の声が更に大きくなった。かん高い笑い声が転げ回る。どうやらリョウも移動しているらしい。リョウの演説は続いた。
『この世の中には無駄な人間が多過ぎるんだよ。結局世の中弱肉強食で動いているんだ、だから弱い人間は何をされても文句を言えやしないのさ』
 受話器からシャワーの音が聞こえてきた。
『どうして人を殺しちゃいけないんだ? 俺達は都会に生きる獣だ、自由に生きて自由にやるんだ……そして羊には羊の役割がある。お前だってジンギスカンになりたくはないだろう?』
 リョウがシャワーの中に入ったらしく声が聞き取りにくくなった。
 しかし次のリョウの台詞は、低い声で呟いたにも関わらず、はっきりと聞き取れた。
『俺に従え、それが生きる道だぜ』
 ……電話が切れた。
 僕は再びソファーに寝転がった。窓の外の太陽が眩しい。
 リョウの言うことももっともだ。どんなに綺麗事を言っても、今の世の中正しいことが必ずしもうまくいくわけではない。
 そして僕にも欲望はある。
 僕は天井を眺めながらしばらく物思いに耽り、やがて立ち上がった。
 僕の下宿先は昨夜のコンビニから少し離れたワンルームマンションだ。お世辞にも広いとは言いがたい部屋のほとんどを、ベッドとソファーと机と椅子が占領している。
 壁には趣味で買ってきた絵葉書や自分で撮った写真が何枚か張られているが、それ以外はガランとした部屋だ。
 ……ただし、今朝はいつもと違うものがあった。
 僕はベッドの前に立って、それを見下ろした。
 ベッドには、あのドロシーと名乗った女がいた。僕の方に顔を向ける形で、毛布にくるまって眠っている。寝相は悪く、長い脚はほとんど剥き出しだ。僕はベッドの脇に身を屈め、彼女の寝顔を覗き込んだ。
 昨夜、僕に案内されてこの部屋に入った彼女は、さっさとベッドを占拠して眠ってしまった。
 勿論何もなしだ。僕もソファーに座っている間に眠ってしまったらしい。リョウが聞いたら何と言うだろう?

 ……そうだね、リョウ。僕もそう思うよ。

 ドロシーの寝顔は意外とあどけなく、小さく開いた唇の隙間から微かな寝息をもらしている。僕は音をたてないよう、慎重に彼女の下半身の方へと移動した。
 ドロシーの褐色の脚は朝日を浴びて鈍く輝き、白いシーツの上になまめかしい曲線を描いている。
 ワンピースはハンガーにかかったままだ。
 僕は一瞬ためらった後、意を決してドロシーのなめらかな右脚に指を這わせ、毛布に隠れた部分へと指を滑り込ませた。
 舌の表面が痛いくらいに乾いている。と、
「……おはよう」
 明らかに寝起きのものとは思えない、はっきりとした声と共に、僕の頭に銃が突きつけられた。
「何してたの?」
 ドロシーは慌てて指を引っ込めた僕を見ながら上半身を起こした。勿論、銃は依然として僕に向いたままだ。
「……ああ、これを探してたの?」
 僕が銃を見つめているので、ドロシーは銃を軽く持ち上げた。
「寝る時は枕の下よ……貴方みたいな人もいるしね」
 それからドロシーは毛布を手際よく体に巻きつけベッドから降りた。一瞬、毛布の隙間から褐色の背中と白い下着が覗け、僕の動悸が激しくなった。
 ドロシーはそんな僕を横目で見ると鼻で軽く笑ってからかうように言った。
「それとも違う物を探してたの?」
 つくづく勘に触る女だ。僕は平静を装いながら返事をした。
「まさか。何で君なんかに……」
「へえ、傷つくなあ……アタシってそんなに魅力ない?」
 ドロシーは無断でキッチンの冷蔵庫の中を物色しながら言った。
「そういう台詞は冷蔵庫を開ける前に言ってほしいね」
「ゴメンゴメン。ところでこれ食べていい?」
 ドロシーは少しバツの悪そうな顔で振り返ると、手にしたパンの袋を振った。

 ドロシーはよく食べた。
 僕の部屋の机は脚の長い大きめの机で、椅子も二つついている。はっきり言って一人暮らしの狭い部屋には不釣り合いな物だ。
 しかし、やはり今朝はいつもと違う。
 普段はガランとしている机の上は、大量の食べ物と食器と、そしてインスタント食品のパックに占拠されていた。
「……君は何者だ? どうして銃なんか持ってるんだよ」
 僕は目の前の不格好な目玉焼きを見ながら呟いた。
 テレビをつけてみたが、銃を持った女がうろついているなんてニュースはやっていなかった。
 ……少年達による暴力事件もだ。
 代わりにアメリカで起きた爆破事件の速報が流れていた。
 ドロシーは二枚目のトーストにこれでもかと言うくらいにイチゴジャムを塗りつけると、
僕に朝食は摂らないのかと尋ねた。
「食べない……いやそうじゃなくて質問に答えてくれ」
 ドロシーは楽しげに笑うと、トーストを食いちぎった。
「さあね、何でしょう? ……もしかして魔女だったりしてね」
 ダメだ、答える気がまったくない。
 僕は机の上を軽く叩きながらできる限り嫌味っぽく言った。
「僕の友人が話してたよ、もし女が来て部屋に泊めてくれと言ったら普通は寝るものだって」
 ドロシーは目玉焼きの皿に手を伸ばすと、ナイフとフォークで器用に切り分けながら言った。
「それはそいつが今までに寝た女の話でしょ? アタシはアタシよ」
「それはそうだけど」
 銀色のフォークがタンポポ色の黄身の膜を突き破り、半熟の黄身がドロリと流れ出す。
「それにさあ、貴方……なんて言うかあまり性的な魅力を感じないタイプだしね。色も白いし、顔も可愛いし……」
 ドンッ!
 卓の上に乗っていたジャムの瓶が、衝撃でひっくり返り床に落ちた。ドロシーが撲たれた猫のように硬直し、神妙な顔をして素直に謝る。
「悪いこと言ったみたいね……ごめん、謝るわ」
「……いいや、気にしなくていいよ」
 僕は痛む手を摩りながら呟いた。
 ドロシーは食事を終えると、ハンガーにかけてあったワンピースを取って着替え始めた。頭からスッポリと被り、皺を気にしながら背中のボタンを留めていく。
 時々、自分でも自分の感情が抑えきれなくなる時がある。最近の言葉を借りると『キレる』というヤツだろうか……だが僕のそれは、ジン達のそれとはまったく違うもののような気がする。
 まるで自分の中に、自分とは違う化け物が住んでいるような……。
 ……ふと、僕は机の上にドロシーの銃が置いてあるのに気がついた。
 テレビでよく見るリボルバーで、昨日はやけに長く見えた銃身にはどうやら消音機がついているらしい。こぼれた卵の黄身とトーストの屑の横で朝日を浴びて黒く光っている。
「これが安全装置だっけ? ……これでいいのかな?」
 振り向いたドロシーは、僕が銃を構えているのを見てもそれほど驚かなかった。それどころか軽く微笑むと、顔を戻して背中の最後のボタンを留め始めた。
 つけっぱなしのテレビでは昔風の刑事ドラマが流れていた。犯人は人質を取り、銃を片手に立てこもっているようだ。
『手を挙げろ。おとなしくすれば命だけは助けてやる』
 登場人物の台詞に合わせて、僕はドロシーに銃口を向けた。
 しかしドロシーは気にする様子もなく、ボタンを留め終わると僕の方に視線を向けた。彼女の黒い瞳がまっすぐに僕を見つめている。

『生物界では基本的に優れた能力を持つ個体が生殖し子孫を残すことができる。しかし人間の場合、それは更に複雑な条件を持つことになる』

 僕は銃を構えたまま何かの文章を思い出した。そうだ、この前の模擬試験の問題文だ。
 ドロシーは銃を気にする様子もなく歩いてくる。相変わらず僕をまっすぐに見据えたままだ……瞳は冷たく透き通っている。
 僕はグリップを持つ手に力を込めた。

『……人間とは文化を持った生物である。その為生殖の条件は運動能力や身体的な条件のみではなく、経済的能力や、社会的な地位も有効な条件となる……』

 ドロシーの歩みは止まらず、僕らの距離はほんの一メートル程度となった。この距離だったら幾ら素人の僕でも外すことはないだろう。

『……また文明の発達に伴う様々な武器の開発は、運動能力のない者でも能力に優れた者に対して勝つ可能性を高めることになった。そしてそれは銃器の発達によって一層大きくなってきている……』

 ついに僕と彼女との間に残された空間は、手を伸ばせば届くほどのものとなった。
 僕は彼女の視線を感じながらもそれを無視した。僕の視界にはドロシーのほっそりとした下半身のみが見えている。
「……ひざまずけよ……命乞いをしろ……僕の方が強いんだぞ……」
 僕はドロシーの下腹部に銃口を押しつけた。彼女の弾力が銃を通じて伝わってくる。
「それを返して。お願い」
 頭の上から穏やかなドロシーの声が聞こえた。
 見上げると、そこには穏やかな黒い瞳があった。
 僕は駄々をこねるような気持ちで彼女を見つめていたが、不意に体から力が抜けた。
「……わかった……返すよ」
 僕の手から銃が奪われ、頭の中が真っ白になった。
 テレビの中では、立てこもった犯人が刑事役の主人公に射殺されていた。

 AM.11:25

「出かけようか?」
 太ももに銃を縛りつけながら、ドロシーが言った。
「……何処へ?」
 僕が力なく尋ねると、ドロシーは玄関に干してあったコートを抱えて振り返った。
「そうね、とりあえず靴を買いに行こうかなって思ってるんだけど」
 ドロシーは踵の取れたサンダルを指でぶら下げて笑い、ドアを開けた。
 外はよく晴れており、正面のマンションのクリーム色の壁に陽光が反射して眩しかった。

第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 2

2007年11月29日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.0:55

 さっきまで勢いよく降っていた雨が、少し小降りになった。
 絶えず生まれ続ける水滴が、一瞬のためらいを見せた後、呆気なく落ちる。そして小さな波紋を起こし、また大きな流れに飲み込まれていく。僕はコンビニの前にしゃがみ込み、突き出した屋根の縁から落ち続ける水滴を眺めていた。
 あの後、救急車が来るのを見届けてから一人で街を歩いていた僕は、雨が降り出したのでここで雨が止むのを待つことにした。雨が降っているせいかコンビニに客の姿はなく、店員も奥に引っ込んでしまっていた。道路にも人の姿は見えず、時折車が目の前を通り過ぎていく。僕はもう一度辺りに人がいないのを確かめると、ビデオカメラの電源を入れた。
 僕は昔からカメラマンになりたかった。
 何故かと言われると答えられないが、昔から見られるよりは見る側の人間だったことは確かだ。実際、リョウにカメラマンを頼まれた時は、『処刑』に参加しなくていいという安堵と共に、ビデオカメラが使えるということに少し……いや、かなり心が動いた。
 リョウの言う通り僕だって同罪だ。
 モニターにはさっきの処刑の様子が映っていた。地面に転がるおじさんと、それをまるで人間ではない何かのように痛めつけているリョウ達……さっきまで本当に体験していたことなのに、モニターを通して見ると遠い国の出来事のように見える。
 しかし、やがてさっきの嫌な感じが映像から解凍されて伝わってきたので、僕は電源スイッチに指を伸ばした。
 このビデオカメラは決して楽な生活を送っているわけではない僕が、バイト代を使い果たして衝動的に買った唯一の物だ。僕にとってビデオカメラは世界から僕を守る防波堤であり、また僕を世界につなげる唯一の目だ。この手のひらに収まる小さなレンズとフィルムの固まりによって、僕は『見る側』の位置を保っている。
 だからこのレンズに映るものは、リョウだろうとおじさんだろうと……道行く他人も落ちている空き缶も、僕にとっては『被写体』であり僕とは違う世界の存在となるのだ。
 僕はモニターの再生映像を消すと、録画することなしに周りの風景をモニター越しに見つめ始めた。
 ……と、雨が上がり、雲の隙間から丸い月が覗いた。
 月の光は薄くかかった雲をくすんだ虹色に染め、アスファルトを白く輝く波のない海へと変えた。その上を、苛立つ心を抱えた人々を乗せた車が、オレンジと黄色のライトの尾をはためかせながら滑っていく。
 その時、不意にモニターの画像が乱れ、ブラックアウトした。
 僕は反射的にモニターから目を放してビデオカメラをチェックした。浅ましいようだが、使い慣れた物が壊れるのは自分の一部がなくなったようで嫌なものだ。それに……これは高かったのだ。
 ところがレンズを地面に向けた途端、モニターに光が戻った。
「……あれ?」
 確かに元に戻ったのは嬉しいが、やはり異常があるかもしれない。僕はもう一度周りを撮ってみることにした。
 コンビニの明かり、その前のゴミ箱、駐車場の白線、歩道脇の街路樹、ガードレール、遠くの信号、砂漠の嵐……あれ?
 道路の方にビデオカメラを向けた僕は、また画像が乱れたので眉をひそめた。
 そう言えば、さっきもこっちにビデオカメラを向けた時に画面が乱れたのだ。ということは、この方向に異常の原因がある……ということになるのだろうか……?
 およそ結論とは言い難い結論に達し、モニターから目を離した僕は、意外なものを見ることになった。

 そこには女がいた。
 ……女がいたのだ。
 ただ……少し変わっていた。

 女はかなりの長身で、長い黒髪が更にその長身を際立たせていた。月の光に遮られて顔立ちははっきりしないが、輪郭は白く輝き、痩せた体つきで手足は長い。この時期、夜はもう寒いというのに、赤い薄手のワンピースの上から大きめの薄汚れたコートを羽織っているだけの服装だ。
 まだ雨は霧雨となって少し降っていたが、女は雨よけの物は一切持っていなかった。いや、それどころか雨のことなどまったく気にしていないようだ。何故か素足で、肩にかけた手には赤いサンダルがぶら下がっている。
 女は濡れた黒髪を額からかき上げ、水滴を払い除けた。そして僕の視線に気づいたのか、目線をこちらに向けた。
 僕はその情景の異常さと……美しさに魅せられていた。しかし女と目が合ったので、少し焦ってしまった。
 見るということは、その対象と同じ条件の情報の世界を共有するということである。言い換えれば、同じ遊戯盤の上にいるということだ。だから特殊な機具(望遠鏡や写真機、ビデオカメラなど)を用いない限り、見る側と見られる側の立場は常に変化する可能性がある。ボールの位置で攻撃する者と防御する者が変化するドッジボールのように、見る側は常に見られる側になる危険性があるのだ。
 そして僕は見られるのが好きではない。特に女性には……。
 女は僕の思惑などおかまいなしに、こちらに向かって歩いて来た。黙ったままの僕の前を通り、雨のかからない場所に入る。そして小さくため息をつくと、体を曲げて手にしたサンダルを地面に放り投げ、僕の隣に座り込んだ。
 顔はうつむき、体に張りついた長い髪から雫が絶えず落ちている。間近で見ると肌がなめらかな褐色であることに僕は気づいた。
「……濡れてるけど、寒く……ない?」
「…………別に……」
 やはり何か話しかけるべきだろうと思って考えた質問に、女は簡潔に答えた。
 低い囁くような声で、少し背筋を撫で上げられたような気がした。
「……ああ、そう…………それは良かった」
 それだけ言うと、僕は黙り込んだ。ここまで不愛想に反応されると、どう続けていいのかわからない。
 その時、不意に女がこちらに顔を向け、微笑んだ。
 間近で見る女の顔はとても美しかった。少し面長な顔立ちに、切れ長で大きな……ネコのような目が輝き、眉は黒く弧を描いている。鼻筋は整い、その下の唇には寒さの為か血の気がなかったが、それが却って彼女の美しさを際立たせている。
 僕は微笑みの意味をつかみかねて……またその美しさに心奪われて、しばらくの間少しも動けなかった。女は僕のそんな様子を見て、もう一度小さく微笑むと、顔を戻した。
 それと同時に我に返った僕は、自分がかなりみっともない表情であったことに気づき、今更ながら焦った。
「靴。どうしたの?」
 僕の問いに、女はこちらに顔を向けることなしに、地面に転がったサンダルを指差した。そのサンダルはヒールが高い物だったが、片方のヒールが折れていた。
 成程……いや、納得している場合ではない。
「何処から来たの?」
 僕が続けた質問に女は面倒そうに答えた。
「西から……」
「……何処に行くの?」
「東へ……」
「…………そう」
 ダメだ、会話のきっかけがつかめない。
 しかし沈黙を苦痛としているのは僕だけのようで、彼女は僕の存在を忘れたように体に張りついたワンピースを触っている。ワンピースは上に着ている古い……おそらくは男物のコートとは違い、かなり高価そうな物だ。東洋風の細かな模様が刺繍されている。コートに隠れていて見えないが、多分、形としては袖がなくキャミソールみたいに肩紐でとめるタイプだろう。
 と思っていたら、彼女がコートを脱いだので、いきなり褐色の肌の肩と背中の上部が露になった。僕は慌てて視線を逸らした。女は立ち上がるとコートを叩いて水気を切り始めた。
 何をやってるんだか、僕は。
 ふと自分の行動が可笑しく思えた。僕と彼女は初対面で、たまたま同じ場所にいるだけだ。彼女のように互いを無視しても悪いことではないし、無理に会話をすることもない、双方が迷惑でない距離を取ることができればそれでいいはずだ。
 どうも僕は他人との距離を取るのが下手だ。
 自分が何を他人に求めているのか自分でもよくわからないのだ。まったく人とコミュニケーションできないのは恐ろしく嫌だし……でも、人が自分に近づくと拒絶してしまう。
 時々、自分は本当に人との繋がりを求めているのか、と疑問に思ってしまう。
 やがて、雨が完全にあがった。空は闇と言うより深い青に近く、月は雨で洗い流されたかのように透明な光を放っている。
「……月が、綺麗だな」
 僕は特に誰に言うつもりもなく呟いた。
「そうね。綺麗な月……」
 驚いたことに、女が返事をした。コートを腕にかけて空を見上げる彼女の背中で、まだ乾き切っていない黒髪が月の光を浴びて淡く輝いている。
「アタシ、今日何処で寝るか考えてたんだけど……決めたわ」
 女は淡々とした口調で呟き、僕を見てからかうように微笑んだ。
「貴方の家に泊まるわ」
「…………え?」
 『え』と言うよりは『へ』に近かっただろう、間の抜けた声で僕は聞き返していた。
「だから、貴方の家に行くって言ってるのよ。もしかして家がないの?」
「……いや、あるけど……」
「ならいいじゃない」
「……ちょ、ちょっと待ってよ」
 僕は混乱した頭で考えながら言った。自分でも声が上ずっているのが情けない。
「それはつまり……僕と寝たいってこと?」
「別に貴方と寝る必要はないわ……それに」
 女はコンビニの硝子窓にもたれかかり、僕から見て向こう側の脚を上げると、指をワンピースの裾にかけて少し捲り上げた。彼女の美しい太ももが、月の光の下に露になる。
 次の瞬間、彼女の目が冷たく光った。
「アタシは穏便に話を進めたいの」
 彼女の太ももの内側には、革のバンドで何かが括りつけられていた。
 それはどうやら何か黒い金属の物体と、それのホルダーで……そしてその金属の物体は……どう見ても小型の拳銃だった。
 彼女は鮮やかな手つきで銃を引き抜くと、折り畳んであった銃身を伸ばして僕に突きつけた。
「……さあ、案内してくれる?」
 女が相変わらずの低い声で囁く。
 銃の銃口は丸くて黒く、その奥は見えなかった。視線をずらすと銃口の向こう側に女の黒い瞳が光っていた。
「これ……本物?」
「試してみる?」
 彼女の申し出は僕によって丁重に却下された。それに何と言うか、彼女の乱雑な銃の扱い方や持ち方に不思議な真実味があったのだ。
「……わかった……案内する」
 僕は顔の前に突きつけられた黒い銃身を見ながら呟いた。こんな状況なのに、頭の中は妙に落ち着いている。いや、正確には、僕はこの状況を完璧に把握しきれていなかった。まるで夢の中にいるような曖昧な感覚が全身を覆っている。
 女は僕の返事を聞くと、銃を構える手を降ろした。
 近くにはコンビニの入り口があった。走れば数秒で中に逃げ込めるんじゃないかと思ったが、中で二人の店員が雑誌を見ながら笑っていたので、僕はその考えを却下した。
 別に人道的立場から考えたわけじゃない。すぐに追いつかれるだろうと思ったのだ。それに突然「銃を持った女に追われてるんだ、助けてくれ!」などと言ったところで信じてくれるかどうか……少なくとも僕なら信じない。
 顔を戻すと、女は楽しそうな微笑みを浮かべながら僕を眺めていた。
「……ところでさ……」
 僕はビデオを持ち上げて言った。
「これで君を映そうとしたら動かなくなったんだ。どうしてかな?」
 女は銃口でこめかみを掻くと、少し申し訳なさそうな顔をした。
「ああ、それアタシのせいね。そういう体質なのよ。心配しないでいいよ、アタシ以外はちゃんと映るから」
 ……何なんだ、それは?
 僕はビデオの電源を切り、レンズを彼女に向けた。
「それじゃあ、もう一つ質問してもいいかな? ……名前は?」

「……ドロシー……」

第一話「彼女の銃と僕のビデオカメラの話」 1

2007年11月28日 | 僕達の惑星へようこそ

 PM.11:44

 ビデオカメラのモニターの中で、おじさんの灰色のコートがはためいた。
 何度も足をもつれさせながら、冷たいアスファルトの上を走っていく。
 おじさんが街灯の下を通過する度、薄汚れたコートが奇妙に白くモニターに映った。
 年齢は多分五十歳くらいだ。職業はサラリーマンだろうか? 体格は貧弱で顔には皺が多く、頭髪もかなり薄い。僕らがおじさんについて知っているのはそれくらいであり……それ以上知る必要もないだろう。
 ここは古びた工場脇の細い道路だ。何処までも続いていそうな灰色の塀の向こう側に、高い煙突が影絵のようなシルエットを浮かべている。
 この工場は数年前に潰れてから取り壊されることもなく放置され、この時間帯に訪れる者などまずいない。もっとも、数十メートル先まで行けば小さな商店街がある。前方にぼやけて見える緑色の光は、まだ開いている店のネオンの光だろう。
 もしもあそこに辿り着けたなら、このゲームはおじさんの勝ちだ。
 でも、辿り着けなかったら……。
 おじさんの左側の闇から長身の男が身軽な動作で現れ、おじさんを追い抜いた。そして男は、サッカーボールでも蹴るようにおじさんの足を払った。
 おじさんは咄嗟に避けようとしたようだが、バランスを崩して頭から地面に滑り込んだ。
 地面に服が擦れる嫌な音と共に、小さな悲鳴が響く。おじさんは受け身をとることもできず、傷めたらしい右腕を庇う形でうずくまった。
 長身の男に続いて現れた数人の男達が、素早くおじさんを取り囲む。何処にでも見られるような服装だが、全員がマフラーやサングラスで顔を申し訳程度に隠している。
 おじさんは地面に這いつくばりながらも明かりの方に進もうとしたが、男達の足が彼の進路を塞いだ。男達が楽しげにおじさんを蹴りつける。
 最初におじさんの足を払った男が短く声を放った。男達が統制のとれた猟犬のように一斉に動きを止め、再度おじさんを囲む壁のように並ぶ。長身の男は走って乱れた長めの黒いコートを整えると、ビデオカメラを構えている僕の方を振り返り、髪をかき上げながら言った。
「ちゃんと撮ってるだろうな? これからがいいところなんだからな」
「……ああ。ちゃんと撮ってるよ、リョウ」
 僕はモニターから目を離して答えた。ずっとモニターからの映像に集中していたので距離感が狂い、地面が揺れる感じがする。
 長身の男……神野涼は僕と同じ二十歳だ。
 浅黒い肌に軽く脱色した長めの髪、それと両耳につけた銀色に輝く大きな逆十字のピアスが特徴的だ。顔立ちは彫りが深く、顎の辺りに生やしたヒゲが、その輪郭を更に強調している。切れ長な目から覗く黒い瞳は、猛獣のようでいて不思議な程に透き通っている。
 リョウはビデオカメラに視線を向けながら、おじさんのそばへと進んだ。そして地面にうずくまっているおじさんの姿を一瞥すると、アメリカのテレビ番組の司会者のように大袈裟な身ぶりで話し始めた。
「さて、皆さん」
 たっぷりと余韻を残し、再び口を開く。
「これから、お楽しみの『処刑』の始まりです。ええっと、時間は……」
「十二時十五分前」
 薄明かりの下で腕時計の文字盤を見ようとしていたリョウに代わって、僕はモニターのデジタル表示を読み上げた。
「ああ、時間は十一時四十五分だ」
 リョウは頷くと薄笑いを浮かべてこちらを見た。
 彼はこの辺りではかなり名の通ったグループのリーダーだ。言わずと知れたことだが、その地位は彼自身の運動能力の高さとカリスマ、そして気に入らない者に対しては容赦なく拳を振るう暴力性によって成り立っている。他の要因としては、彼がとある大手会社の社長の一人息子だというものもあるが。
 更に言うと、彼は有名な私立大学の経済学部の二年生で、クラブでDJをやっている。本人は将来役者になるつもりだと語っているが……まあ何にしても大学受験に二度も失敗し、既にやる気もない二十歳のしがない浪人生には関係のない話だ。
 まだ現役の大学受験生だった頃、当時通っていた地元の予備校で僕はリョウと知り合った。僕らの間にはまったくと言っていいほど共通点がなかったのだが、彼は僕のことを気に入ったらしい。二人の関係が今も続いているのがいい証拠だろう。
 しかし、僕は未だにリョウとの関係が続いていることを不思議に思う。さっきの時刻のことにしても、他の誰かが同じことをすれば、殴られはしないまでも雰囲気は悪くなったはずだ。
 勿論僕にしても完全に対等というわけではない。もし僕が不用意に彼の領域に踏み込めば、二人の関係はすぐさま崩壊するだろう。僕らの関係は常にリョウの方が強者であり、僕は無礼講の許された道化に過ぎない。
 もっとも、僕がその辺りのことを理解しているからこそ、彼は僕のことを気に入っているのかもしれないが。
「さて、今日の獲物は……」
 リョウは右手の人指し指を立てて、おじさんを上から覗き込んだ。
 おじさんは大きく息をつきながら怯えた目でリョウを見上げた。かなり薄くなった白髪が、汗ばんだこめかみにへばりついている。
「た、助けてくれ……」
 おじさんが掠れた声で呟いた時、リョウの瞳に一瞬危険な色が浮かんだ。
 次の瞬間、リョウの黒革のブーツがおじさんの腹部にめり込み、おじさんの体が跳ね上がった。
 おじさんは腹を押さえながら地面に這いつくばった。大きく開かれた口からは叫び声の代わりに不透明な胃液が吐き出されている。リョウは引き攣った薄笑いを浮かべ、おじさんの懐から抜き取った定期入れを開いた。
「ええと、なになに? 田島亮介、五十三歳……係長…………最悪だな」
 リョウは定期入れを指の間で弄んで眺めていたが、ふと何かに気づいて目を止めた。
 途端、リョウは何か嫌な物でも見たかのように定期入れを投げ捨てた。定期入れは地面を転がって僕のそばで止まり、汚れた表面を見せた。
「さあ、始めようか?」
 一瞬浮かんだ表情の乱れを打ち消すかのように、リョウは気取った仕草で彼の忠実なる部下達の方に手を振った。
「……どうして?」
 男達と共におじさんの周りを取り囲もうとしていたリョウが、驚いたように振り向く。不意をつかれたせいか今度は薄笑いを浮かべておらず、その貫くような攻撃的な視線のみが残っていた。
「……何だって?」
 明らかに不機嫌な声で、リョウが尋ね返す。
 まずかった。今の質問は明らかに彼の不文律を乱すものだった。
「いや……つまり……ちゃんと『理由』ってものも言っておいた方がいいんじゃないかなってね。ほら、何故処刑をするのかってさ。『パルプフィクション』のサミュエル・L・ジャクソンみたいにね……」
 しどろもどろの弁解だったが、リョウは機嫌を直したようだ。僕はモニターの上に再び彼の薄笑いが浮かんだので安心した。
 それにしても、何故僕は彼の行動の理由など聞きたくなったのだろう?
 リョウは再び司会者の雰囲気を纏うと、そばにいた年下の男に尋ねた。
「どうしてだと思う? どうしてこいつを処刑するんだ?」
 年下の男はジンと言って高校を出たばかりのフリーターだ。ピンク色の短い髪と黄色のダウンジャケットが夜でも目立つ。彼はリョウの右腕的存在で、いつも行動を共にしているのだ。そして僕に対しては最も態度が厳しい。
 ジンは不意の質問に戸惑ったようだが、僕の方を見るとあからさまに敵意のこもった表情を浮かべて吐き捨てた。
「決まってんだろ。こいつが間抜け面して歩いてたからだ。俺はこういう死にかけの奴が大嫌いなんだ! ……わかったか?」
 ジンは御丁寧に僕の目の前まで近づいて来て、ビデオカメラのレンズを覗き込む形で最後の台詞を言い放った。脂分の多い肌がモニターいっぱいに映り、剥き出しの敵意が肌に伝わってくる。
 同じグループの仲間だとは言っても、僕はジンのような連中は嫌いだ。勿論彼らにしても、僕のような人間がいるのは不愉快だろうが。
 ジンの暴力的な視線がモニターを通して僕の目に届く。直接見ればこの視線に勝てるはずもないのだが、モニターを通して見ると不思議とテレビで猛獣でも見ているような気分になってくる。
 僕に屈服した様子がなかったからだろう、ジンはまだ何か言いたげだったが、リョウに呼ばれて忌々しそうに僕を見ながら元の位置に戻った。
 リョウは右手の人指し指を僕の方に突き出した。
「わかったか? こいつらはいるだけで俺達の街を汚しているんだ。つまり蠅やゴキブリと同じだ。ゴキブリを潰して罪になるか? いいやならないね、ゴキブリがいると不潔だし不快だ。だから潰す……衛生学の基本ってやつだ」
 同じ指に弾かれた逆十字のピアスが、澄んだ金属音を響かせる。リョウは満足げに頷くと僕に背を向けた。
 ……道化とのお喋りの時間は終わり、ということか。
 おじさんの周りでは、王様の許可を得ずに、彼の兵隊達が処刑を始めていた。

『一般的に個人の嫌う物を見れば、その個人がどのような嗜好や性格、又は生活状態であるのかを判断できる。ただしここで問題なのは、その物が直接的に個人に危害を与えるのではなく、個人の恐怖の象徴である場合があることである』

 これは心理学の基本というやつだ。簡単に例を挙げると、円形の物が嫌いな人間は、円形の物そのものが恐いのではなく、円形に開いた井戸に落ちたことがある等の過去の経験が恐いのだ。この場合、円形は痛みや孤独、暗闇に対する恐怖の象徴ということになる。勿論、そんなに単純な話は稀だが。
 ゴキブリや蠅は確かに伝染病などの恐怖の象徴だ。では五十三歳のサラリーマンは、街の王様にとって何の恐怖の象徴なのだろうか?
 二度目の受験に失敗した僕がリョウと再会したのは半年前のことだ。
 その頃、僕は親元を離れてこの町の予備校に通っていた。僕は昔から社交的なことが嫌いで、その時もまったく知り合いというものはいなかった。
 いや、作らなかったと言った方が正しいかもしれない。
 しかしそれでも限度というものがある。流石に孤独感に悩まされ始めた頃、僕は街で偶然リョウと再会した。
 どうしてリョウが予備校で数回会っただけの僕を覚えていたのかはわからない。しかし不思議なことに、僕らの関係は続いた。
 数カ月後、僕は彼から『処刑』の話を持ちかけられることになった。

 処刑は続いた。
 おじさんは見るも無惨な姿となっており、ほとんど意識もないようだ。リョウはおじさんの襟元をつかむと、顔の近くに引き寄せた。
「おじさん。俺のことが恐いかい? ……それとも憎いかい?」
 おじさんの小さく開いた口から、わずかな言葉が漏れた。
「……家に……帰して……くれ…………」
 リョウが無言のまま手を放し、おじさんが再度地面に突っ伏す。リョウは軽くため息をつくと、僕の方を見て……少し微笑んだ。
 リョウは時々、僕に向かって奇妙な笑みを浮かべる。まるでこれから悪戯をしようとしている子供みたいに……。
 リョウはコートのポケットから無造作に短い棒状の物を出すと、それを軽く振った。
 ガチャリという金属音と共に、青白く光るナイフの刃が彼の手の中に出現する。あれはリョウがいつも持っている外国製のナイフで、彼が骨董品屋で見つけたという代物だ。骨董品と言っても、時の流れを感じさせないほどに抜群の切れ味を誇るナイフだ。現にリョウは一度、対抗するグループのリーダーの腕をあれで切り裂いたことがある。
 彼はナイフを軽く弄ぶと、いきなりおじさんに突きつけた。
「ちょっと待て! 殺すのはまず……!」
 僕は反射的に叫び、ビデオカメラのモニターから目を離した。
 ナイフはおじさんの首の直前で止まっていた。おじさんが今にも気絶しそうな表情で目前の刃を見つめている。
「……やるわけないだろ? 何びびってるんだよ」
 リョウは器用にナイフを一回転させて刃をしまい、立ち上がった。
 ジンが安堵とも笑い声とも判断のつかない短い息を吐く。
 リョウはナイフをポケットに入れると、僕の方を見て言った。
「こんなことでびびってるようじゃ、お前もこいつと同じ腰抜けだ。……こいつとな!」
 振り上げられたリョウの足が、大きな弧を描いておじさんの腹部に直撃した。おじさんは大きな布の塊のように転がると、道の端で動かなくなった。
 取り巻きの中から低い感嘆の声が上がる。
 リョウは面白くなさそうに周りを見回すと、短く処刑の終了を告げた。
 取り巻きの男達は皆、冷めやらぬ興奮に身を包みながら、緑の光溢れる商店街の方に歩き出した。商店街までは数十メートル……あそこまで行けば皆、常識の世界に戻る。
 あの中に入れば、僕達は一応の秩序を纏って生活することになる。少なくとも人に暴力を振るえば咎められる世界。しかしここは闇の世界との境界だ。一度こちら側に入ってしまえば、この世界の支配者が秩序を決めることになる。
 リョウは僕の肩に手を置いて耳元で囁いた。
「いいか? 一人だけいい子になろうとしてるんじゃないぞ……見ているお前だって同罪なんだ。くだらない常識なんかここでは何の役にも立ちはしない。ただ喰うか喰われるかだ。お前は頭がいいんだ、そこら辺のことはわかってて来ているだろう? この世界を楽しめよ。みんなやってるんだ……」
 そして彼は忠実な部下であるジンの所に行きながら言った。
「ビデオは明日までに編集しておいてくれ、夜の九時から『スケアクロウ』だ……遅れるなよ」
 リョウは僕にビデオで撮るように言うと、歩きながら大袈裟な身ぶりで叫んだ。
「それでは皆様、また明日御会いしましょう! See you tomorrow!」
 モニターの中の彼の姿が、黒いコートと一体となって大きく揺れる。
 最後の台詞を言い終えると、リョウは少し照れ臭そうに微笑んで僕に手を振り、ジンと共に闇の中に消えた。
 リョウが消えたのを見計らい、僕は足元の定期入れを拾って中を開けた。
 それは確かに何の変哲もない、ただの古ぼけた黒皮の定期入れだった。ただ、その内側には小学校高学年くらいの女の子……鼻筋がおじさんにそっくりだ……と、その横で恥ずかしげに微笑むおじさんのピンク色のプリクラが貼ってあった。
 ……どうやらこれは、編集ではカットしておいた方がいいものらしい。
 僕は定期入れを持ったまま、おじさんのそばに近づいた。おじさんは気を失っているようだが、幸いかろうじて呼吸は続いていた。
 僕は定期入れをおじさんのそばに置くと、ポケットから携帯電話を出した。

 そんなことをしてもお前だって同罪だ。

 頭の中でリョウの声が響く。
「……わかってるよ、そんなこと……」
 呟き、僕はビデオの電源を切ると、携帯電話の番号ボタンを三回押した。