PM.1:27
空は高く青く澄み、天上から伸びた白い雲のハンカチが灰色の影をつけながら空を舞っている。
太陽は白い光を放ち、黒く伸びた電線が空を区切っている。高いビルは影絵の背景のように道行く人々の上にそびえ立っている。
「どう? 似合う?」
歩道橋の上でビデオカメラを構えて取り留めなく風景を撮っていた僕は、声をかけられて振り返った。
そこには、さっき買ったカウボーイハットを被ったドロシーが立っていた。彼女と二人で繁華街までやって来た僕は、彼女の買い物につき合わされることになったのだ。
「……君の体質、防犯カメラにも効くんだね」
僕は歩道橋の手すりにもたれかかった。
「さっきのお店、いきなりビデオカメラが故障したから大騒ぎしてたよ……」
「そうだっけ? 気づかなかったわ」
「…………そうだろうね」
街に出てきて最初に入った大きな洋服店で、ドロシーは店員の騒ぎにかまうことなく店中の靴を一時間以上かけて物色し、最終的に赤いエナメルのサンダルを購入していた。そして彼女は、展示用に飾られているカウボーイの人形にも目をつけたのだ。
「ほら、やっぱり銃はこうやってしまうのがいいよね」
ドロシーが戦利品を見せびらかす。それは西部劇でよく見る、腰に巻くタイプの銃のホルダーだった。展示用だったせいか、ベルトには意味不明な銀の星形の飾りがついている。
今のドロシーを例えて言うなら、さしずめファッションショーから抜け出してきたカウガールといったところか。
「いいのかな? それ展示用だろ?」
「いいのよ、お金は払ったんだし、お店の人だっていいって言ってたわ」
「もしかしたら、防犯カメラが壊れたからそっちに気を取られてたんじゃないかな?」
「そうかもね」
ドロシーは楽し気に笑うと、僕の隣で手すりにもたれた。
確かにドロシーは金を持っていた。正直な話、あの古いコートのポケットから札束が出てきた時には自分の目を疑ったが。何だって彼女があんな大金を持ってるんだ?
もっとも、尋ねれば魔法で出したのだと答えそうなので聞くのはやめておいた。
ちなみにコートとヒールの折れたサンダルは店に引き取ってもらった。勝手に置いてきたと言った方が正しいかもしれない。
札束を何処にしまったのかはわからない。
「ところで、何を撮ってたの?」
僕はドロシーに尋ねられて口籠った。
「……町の風景……かな」
「ふーん……」
ドロシーは頬が触れるかと思うくらいに僕の顔に顔を寄せ、手すりの上に体を乗せて下の方を覗き込んだ。しかし特に撮るべきものが見当たらなかったのだろう、少し戸惑ったような表情で僕の方を向いた。
「……で、何の辺りを撮っていたわけ?」
ドロシーの横顔に見とれていた僕は慌てて返事をした。
「だからね……」
何が『だから』なのかよくわからないが、僕はインテリ臭く少し気取って説明を始めた。
これは僕の悪い癖で、人に対して自分の考えを述べる時に何故か気取った態度をとってしまうのだ。特に気取るようなことを考えているわけでもないのに。
「……だから、別に風景を撮るからと言っても、山とか海とか……『特別』な所を撮る必要はないんだ。いつも見慣れているような町の風景でも、光の加減や角度によってとても綺麗になる瞬間がある。例えば、道端に捨てられた空き缶や、その上を通る人の影なんかでもね」
更に良くないことに、僕は話し慣れていないせいもあって、一度話し始めると相手の反応を伺うこともせずに話し続けてしまう。少なくとも女の子に対しては絶対にやってはいけないことだ。
「だから、僕はそんな風景を見つけ出して撮るのが……」
僕はそこで、ドロシーがこちらを向いていないことにようやく気づき、話を中断した。
ドロシーは手すりに両手をついて町の風景を眺めていた。そして僕の方を振り向くと、目を輝かせて笑った。
「凄いね。貴方の話を聞いてると、まるで自分が御伽噺の世界にいるみたいな気がしてくる。でも、なかなかそんな風景は見つけられないな」
「……まぁ、これは僕の考えだし……人によって見つけられる物は違うと思うよ」
ドロシーを飽きさせてしまったのだとばかり思っていた僕は、彼女の真剣な表情に驚いて慌ててつけ足した。
ドロシーが僕の話を聞いていてくれたのは嬉しかった。何か心の奥底に溜まっていた物がすっきりとしたような気がする。人に自分の考えを話すだけで心が軽くなるとは驚きだ。
もっとも、話してしまってから自分の考えが片寄った頭でっかちなものだということに気づいてしまい、かなり恥ずかしい思いもしたが……彼女が喜んでくれたことを考えれば、それも決して悪くない。
「僕は結構、夕方の空を見るのが好きだな。夕焼けの色は毎日違うし、綺麗な夕焼けに会えるというのはとても運のいいことなんだ」
「夕焼けか。悪くないわね」
「それと綺麗な女の人を見るのも好きだ」
「正直ね」
「……相手によるさ」
僕はドロシーに向かって微笑んだ。
その時、大学生風の男が歩道橋の上に現れた。
男はタバコをくわえながら、いかにもだるそうに歩いていたが、僕の方を見ると眠そうな目を開けて声をかけた。
「よお、久し振りだな……どうしてるんだ?」
「……何だ、斉藤か……」
斉藤は僕の高校時代のクラスメイトで今はこの町の大学に通っている。僕とは特に親密な交流があったわけではないが、お互いに嫌っているわけでもない。
実を言うと、僕は彼が歩道橋の上に現れた時から彼のことに気づいていたが、あえて話しかけようとしなかった。つまり、無視していたのだ。
Q.理由は?
A.…………言いたくない。
「今はこの町の予備校に通ってる。そんなに勉強はしてないけどね」
僕はできる限り平静を装って答えたが、斉藤は僕より隣のドロシーの方に注目していた。
ドロシーは僕達の会話に興味はないといった様子で空を眺めていたが、斉藤はドロシーと僕がそれほど深い仲でないのを感じ取ったらしい。
「やあ、どうも、俺、斉藤って言うんだ。あいつとは高校からの知り合いで……」
僕を無視してドロシーに近づき、馴れ馴れしく声をかける。しかし、ドロシーの返事は素っ気なかった。
「……アタシはドロシー。よろしく……」
「君、綺麗だね。もしかしてモデルとかやってる?」
「……やってない」
「やりたいとは思わない? 俺の知り合いに業界の奴がいるんだけど」
「……別に」
僕の時と同じだ。まったく会話のきっかけがつかめないでいる。
しかし斉藤は僕とは違い、そう簡単に諦める気にはならないらしい。いきなり蚊屋の外だった僕の方に話し始めた。
「しかし、こいつがこんな美人を連れてるなんて意外だなあ。知ってる? こいつ高校の頃は凄く頭が良かったんだぜ」
斉藤が僕の肩に手を置いた。タバコの嫌な臭いが漂って来る。
「でも不思議だよなあ、大学は全部滑っちまったんだろ? 滑り止めも全部ダメだったんだっけ? あれはどうしてだ? 風邪でもひいてたのか? ……まあ、あれだよなあ、幾ら頭が良くても本番に弱ければダメってことだよなあ」
どうしてこんな奴にそんなこと言われなきゃいけないんだ?
僕の視線が足下の石で止まってピントがぼけた。目の前が暗くなる感じがする。
「……関係ないだろ!」
僕の腕が振り上げられ、斉藤の腕を振り払った。自分で出した声の大きさに自分で吃驚する。
斉藤も驚いたようだったが、口元に軽薄な笑みを浮かべると謝った。
「悪い悪い、気に触ったか? それはすまなか……」
斉藤の笑みを目にした瞬間、薄暗かった僕の視界は急速に狭まり真っ白に反転した。そしてまるで誰かが僕の体を操っているかのように、僕の腕が斉藤の襟元に伸び襟をねじり上げた。
頭の中には斉藤に対する言いようのない殺意があった。でも隅の方にはやけに冷静な部分があり、自分自身の行動を眺めていて……そう、こんなことしても何にもならないってことがわかっていた。
斉藤はしばらく軽薄な笑みを浮かべていたが、僕が真剣なことに気づいて表情を変え、僕の腕をねじり上げにかかった。ろくに運動もしていない僕が腕力で敵うはずもなく、あっさりと腕を取られる。途端、顎の骨に鈍い衝撃が走り、頭の中が揺れた。僕は背中から手すりに激突し、倒れ込んだ。
「何いきなりキレてんだよ! 気持ちワリぃなあ!」
斉藤は血走った目で僕を見下ろし吐き捨てた。
「……すまない」
僕は目を伏せて呟いた。頭と体の奥底には、まださっきの衝動が後味悪く残っていたが、痛みのおかげで何とか落ち着けた。
「お腹が減ったな。何か食べに行こうか?」
顔を上げると、ドロシーが近くまで来ていた。
「ああ、それなら俺がいい店を知ってるからそこに……」
斉藤は僕を無視してドロシーに手を伸ばした。しかしドロシーは軽く斉藤の手を払うと僕の方に手を伸ばした。
「立てる?」
僕は道端の石になったような気がしていたが、ドロシーに声をかけられて信じられない物を見るように彼女を見上げた。
「なあ、そんな奴にかまってないで俺と一緒に行こうって」
斉藤が馴れ馴れしくもドロシーの肩に手をかける。しかし、ドロシーは振り返りもせずに斉藤の手を振り払った。
「……勝手に触るな、気持ち悪い」
ドロシーの台詞に反応して、斉藤は乱暴に彼女の肩に手をかけ強引に自分の方を振り向かせた。血色の悪い顔が大きく歪んでいる。
「何だって……? もう一回言ってみろ」
ドロシーは面倒臭そうに髪をかき上げた。
「別に大したことは言ってないわ。アタシは勝手に体に触られるのは嫌いだし、自分の昼食の相手は自分で決める。何か失礼なことを言ったのなら謝るけど。これだけは譲れないわ。ごめんね」
「……! バカにしやがって!」
斉藤はもう一方の手で彼女の肩を押さえつけた。瞬間、ドロシーの右手が凄い速さで動いた。気がついたとき、ドロシーの右手は人指し指と親指で銃を形作っており、銃口は斉藤の右目の直前で止まっていた。
「言ったはずよ、触られるのは嫌いだって。一度ならともかく二度目は許さない……目を潰されたくなかったら失せなさい」
斉藤は凍りついたように立ち尽くしていたが、ドロシーの肩を離してフラフラと後退ると、一目散に歩道橋の上から消えた。
「……やれやれ」
ドロシーは僕の方を振り返り、微笑んだ。
「みっともないとこ見せちゃったね」
僕は足下を見ながら呟いた。多分、ドロシーは僕のことを軽蔑しただろう。できれば彼女には、こんな自分は知られたくなかったのだが。
「そうね、かなりみっともない」
ドロシーは僕の前に立って素っ気なく言った。そして僕の横を通り過ぎながら僕の背を軽く叩いた。
「さあ、行こうか」
「……何処へ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった僕が驚いて尋ねると、ドロシーもまた不思議そうな顔をし、
「……だから、何か食べに行くのよ」
と答えた。