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高杉晋作関連史跡

2011-09-18 | サイト

サイト更新 史跡 【 下関6 : 高杉晋作療養の地、終焉の地、東行庵 】

数日前に書いていた史跡レポです。

下関市街地にある高杉晋作の療養地、終焉地。
厚狭(あさ)郡これまた下関市、吉田にある東行庵のレポを纏めてお届けします。
 
私個人としては、この項目はもう少し書ける事があるだろうと思っていたのですが、意外と書く事がないと言うか、書ける事がないと言うか…
他の下関のページと比較すると内容が薄い気がします。
まあ、史跡の『日本史全般』だけは自分に手抜きを許しているコーナーなので、本来ならばそれでも別に構わないんですが。
 
手持ちの写真が少ないというのが一番大きな理由ですが、一般で出回っている書籍では書かれている事にブレがあり、どれを選択すればよいのか、迷うところです。私ごときでは判断が出来ません。
あれ?可愛嶽突囲でも同じような事書いたな。笑。
出来るだけ一次史料に近いものを参考にしたいとは思うのですが、手元にある幕末関係の史料は王政復古の辺りばかりでものの役に立たん!
くそう家では無理か!図書館か!
それで前回書いた、as a last resort、頼みの綱の『防長回天史』だったんですが、このやろう役に立ちゃしねえ。笑。
『奇兵隊日記』は流石になく、維新史料画像データベースもこのページだけのために流石に見る気にはならなかった。
まあ、高杉晋作についてはもっと熱烈なファンの方が詳細な史跡巡りをされていると思うので、そちらに任せます。
投げやりな書き方で申し訳ないですが、あれでも頑張って作ったんだ…orz
 
前回大阪府立図書館に出かけた際、『世外井上公伝』と『公爵山縣有朋伝』は確かめたのですが、時間がない中でざっとページを捲った、という感じだったので見逃したかな、というのもありそうですが…

山縣は当時長州内での活動が殆ど。
そろそろ外に出て政治活動してみたいと思い始めたのが、丁度この頃。
高杉の死の翌月、山縣は薩摩藩の船で京都に向かうのですが、その際、下関にやって来たのが中村半次郎ともうひとり(忘れた。伊集院某?)。
木戸孝允(当時は貫治か準一郎です)とかの書簡に名前が出てきてますな。
引っかかり始めたら、色んな人が色んな所で引っ掛ってくるこの面白さ。
 
それはさておき3月の27Kから始めた史跡下関編、これにて終了です。
楽しんで頂けたなら幸いですが、どうだったですかねえ…
最後の3回程が1ヶ月1回更新になっていたので、少し気になってはいたんですが、もう今後はこのペースでの更新でいいんじゃないかとも思う…
 


で、この高杉ページを作っていた時に、ある記事を見つけまして、それが伊藤博文の銅像について。
兵庫県民でも初代知事が伊藤博文であったという事を知っている人はそう多くはないと思います。
残念過ぎる。
で、さらに神戸の大倉山公園付近に銅像が建っていた。
その銅像の行方について高杉晋作関係の本に載っていたので、「書き足す?」と思っていた所にメールを頂きました。
 
タイムリーというか何と言うか丁度同じページで扱っていた福原遊廓についてと、兵庫県庁について。
要するに内容間違っているよ、というメールでした。
書いて頂いた内容の照会というか、とりあえず典拠確認でご教授を請いたい旨の返信はしたのですが、それから結構時間経っていまして、これはもう返事は来ないだろうと。
 
あー、えーと、ですね。
間違いを指摘されて嫌な思いをするとか怒るとか、そういうことではないんです。
うわあ自分…orzとは思うけど。
私もそれなりに調べてページを作っていますが、間違っている所もあると思います。
間違いがあれば書きかえる必要がありますし、その為には出来る範囲で私自身もその典拠に目を通しておきたいんです。
出来なかったら仕方ないけど、自分が作っているサイトですし。
それに私自身が確認できなくても、「教えてもらった話ではこれこれに載っているようです」位は書ける。
指摘されてすぐその通りに書きかえるというのは、ちょっと難しい。
面倒なやっちゃなーと思われるかもしれませんが、そこはご理解いただきたいんです…
           
で、両方神戸の話ですし、先日神戸の大倉山図書館に行った時に念のためという事で、一緒に調べてきました。
メールをくださった方がもしこちらを御覧でしたら、これでお願いします。

★省線神戸駅を開くに当たって現神戸駅に掛かっていた遊郭を北西500m程の今福原として形成されている遊郭の場へ移動「させた」のが伊藤知事であって作ったのではない

まず、伊藤で知事あったのは明治元年5月~2年4月の話で、鉄道敷設工事に当たり遊廓が移転させられたのは明治3年になります。
遊廓が移転する以前に、伊藤は知事を罷免されています。
 
また、『福原遊廓沿革史』(須田菊治/昭和6年/非売品)によると、幕末の兵庫開港以降外国人相手の娼婦が現れたりと、そういう存在はあったようですが、需要の高まりから維新後に遊廓設置の出願がされている。
出願者総代は藤田泰蔵という人物。
神戸に赴任していた伊藤に近い人物に相談し、そこからさらに話が伊藤に上がったようです。
正式に設置が認められたのは明治元年。
2月19日に「今般開港に付相生町遊女屋差許相成候」(同書)という布達が出ています。
故に福原遊廓設置は伊藤によるという記述は間違った記述ではなく、書きかえる必要はないと考えます。
 
★伊藤が赴任してきた初代兵庫県庁は現在の和田岬にある「神戸中央卸売市場」に建っていた兵庫城を暫く活用していた

え、とですね、兵庫城跡=兵庫陣屋=勤番所なんです。
兵庫津には確かに城が置かれていたのですが、江戸時代以前に城ではなく陣屋となっています。
つまり同所は江戸時代以前より「兵庫城跡」であり、「城」は存在しておりません。
江戸時代に設置されたのは、尼崎藩領であった時は陣屋、次いで幕府天領になった時は勤番所(大坂町奉行所管轄)。
明治を迎えた時は勤番所が存在しており、初代県庁が置かれたのは、やはり勤番所跡で間違いありません。
こちらも書きかえる必要はないと考えます。

こんな感じです。よろしくお願いします。
  


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2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
細かいですが (いおん)
2011-09-23 22:39:21
初めまして。なのに、すみません、東行庵のある吉田は、厚狭ではなく下関市ですよ(^-^)
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>いおんさん (ヒジハラ)
2011-09-24 16:51:24
はじめまして。
いえいえ、細かくないです!
サイトの方も確認しましたら、そちらの方はちゃんと下関市吉田町になっていたのに…
ご指摘ありがとうございました。
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