I believe

間違いに気づいたから、やり直そうと思います。

いざというとき

2012年11月10日 | 20代の出来事
女子時代の県幹部に指導名人がいた。
非常に人気のあるその幹部の指導は独特の語り口調で、今もはっきり思い出す。
滔々と、流れるように、途切れることなく、音楽みたいにしゃべる。
あれはどこかで訓練されたものなのだろうか?
ニュースキャスターの女性に似ている人がおり、テレビでみるたび
「元気なのかな、あの幹部」と思いだす。
私が結婚する1年ほど前、40代をすぎたということで未婚のまま婦人部へ勇退(と組織では呼んでいた・笑)
していったその幹部は、確か組織のお仕事をされていたはず。
(「テンテーに近い人」とも呼ばれていた)
縁談の話は山ほどあっただろうに。結婚相手は自分でみつけたい派だったのかな(大きなお世話)。

その幹部が出席する女子の会合で任務についたときの指導が強く印象に残っている。
(白蓮のころなので、約20年前の話)
私は場内整理を担当しており、後方のドア付近に立ったまま指導を聞いていた。

その幹部はテンテーと接する機会も多かったようで、折々にテンテーの最近あった話をしていた。
いかにテンテーが青年部を、女子部を大切にしているか、思っているか、滔々と語る。
「ふところに入れてくださっている」という表現もよく使われていた。

”どれほど師匠が弟子の成長を祈り、見守ってくださっているか。
師匠が弟子の為にと、最前線で、御高齢にもかかわらず(でもよく考えたら、当時60代だったはず
テンテー、ずいぶんメタボで老けてたなと思う・笑)真剣勝負で闘い続けてくださっているか、
不肖弟子のわたくしたちは、どれほどその師匠のお心に応えることができているだろう。
弟子は師匠の期待にこたえねばならないのです。”

このへんまでは、なんとなく理解できたのだけど
当時聞きながら「それはどういった事態を想定しての発言なのか?」と不思議に思った内容があった。

その内容

”弟子というものは、いざという時、まっさきに師匠の元へかけつけなければなりません。
師匠の一大事のとき、一体どれほどの人が師匠の元へかけつけられるのか。
「先生!」と声をあげ、何を差し置いても、まっさきにかけつけることの出来る人がどれほどいるのだろうか。
弟子が師匠を求めていくということは、常にそのいざという時のための訓練なのです。
いざという時、かけつけられないようでは本物の弟子ではありません。
そのいざという時が、明日なのか、10年後なのか、20年後なのか、30年後なのかは誰にもわかりません。
その「いざという時」に本物の信心が試されるのです。
青年部で闘って闘って闘いきって、師匠をどこまでも近くに感じる事が大事なのです。”
”本物の弟子となるため、常に心は師匠の元へ。”

(注意・この内容は私の当時つけていた「活動日記」から引用。
 会合終わり帰宅後に、印象に残った指導をノートに書いていた)

”いざという時(一大事)”って何なのよ?と不審におもいながら聞いていた。
その当時、漠然とイメージしたのは「テンテー死亡時」だった。
でも、葬式にまっさきに・一番にかけつけるって意味不明。
だいたい会員が多すぎて、全国から我一番にとみんなが駆けつければ交通網がパンクしたり、パニックになりそう(笑)
そんな理由で葬式はしっくりこないから、却下。

その次にイメージしたのは「終末期」。
なんらか国内で騒乱がおこり、ノアの方舟状態で会員たちが
テンテーと宇宙船にでも乗って新たな地へ向かうとか(笑)これも現実的では無い。

または組織がなんらかの権力に潰されそうになって、籠城集団自決するなど、聖戦を思い浮かべた。

どっちにしても「師匠の一大事」とは、私の思考力では不穏な事しか想像できず、
何と恐ろしい幹部指導なんだと当時思った。


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2002年の会則変更で、テンテーが生きながらにして「永遠の指導者」入りした。
そのことを当時はなんとも思わなかった。
とりたてて、すごいともおもわないし、まったく疑問にも思わない。
組織をつくって・大きくして・世界に拡大したのはこの3人。
殿堂入りするのは自然と思っていた。
今より以上の飛躍をなし遂げるような先導者が次に現れない限り、殿堂入りは無いよねーくらいの感覚で。

だけど最近、この「いざという時」幹部指導を読み返して、ぞわっとした。

永遠の指導者が、もう全員この世を去ってからの「殿堂入り」してるなら問題ない。
ひとりまだ生きてる(って事になってる)状態で、これってまずいんじゃないのかって。

ひとり生きてた「永遠の指導者」が亡くなったら、そのとき弟子たちはどうするのか。
次なる永遠の指導者候補もいないのに。
(というか、もうそんな人物は出てこないことを見越しての三代なのだろう)
(大きなお世話だが、世襲だけはぜったいにやめといたほうがいいとおもう、いくらおとなしい
 信者とはいえ、動乱起きそう)
そのとき盲信者たちは、闘い・生きる意味を失わないだろうか。

これ以上の憶測は、やめておくけれど、
有事の所作を20年前すでに幹部から教え込まれていたのかなと
冷静になったいま読んでも、やっぱりものすごく怖いと思う。

そして私は、もうとっくにタヒんでるのではないかとも感じている・・・。


バリ活の人が聞くとまた違う解釈になるのだろう。
いざという時ってどんなとき?