I believe

間違いに気づいたから、やり直そうと思います。

否定した人

2012年12月05日 | 20代の出来事
F活動をしていた当時、あからさまに拒否・否定された経験は無いと思っていたが
後にも先にも1回だけ、激しく拒否られたことがあったのを思いだした。

おそらく活動家時代、この経験は「負の記憶」だから、消そう忘れようとしてたんだと思う。
今となっては、激しく否定してくれたその人が、まともに思えてくるから不思議だ。

20代はじめに活動家になって初の選挙戦で、学生時代のバイト先の元上司にお願いをした。
元上司と言っても年齢は1つ上。
相手は高卒社員だったので上司だった。
バイトのまとめ役であり、バイトのミスをフォローしてくれる頼もしい存在。
シフトの無理も随分聞いてもらい、ほんとうに「いい人」だった。

元上司は、私と同じ時期にバイトしていた短大生女子に片思いをしており、私がバイトを辞めることに
なったとき、これからは友人として自分の恋愛に協力して欲しいと申し出てきた。
私は、バイト仲間の中でその短大生女子と一番仲が良かったから。
しかし、女子には片思いの相手が居て、役者志望の男性でものすごいイケメンだった。
正直、元上司じゃ勝負にならない(ルックスの点において)し、タイプも違いすぎる。
元上司はまじめで明るく、気さくな「いい人」タイプだった。
諦めた方がいいと思いますよ、と私は伝えたが、元上司は諦めきれないと言い、
短大生女子と、その男が付き合っていないなら、自分は振り向いてもらえるまで待つ(頑張る)と
言い張り。
その後、私が就職するまでの間、数回カラオケやボーリングに彼女を誘いだす役目を引き受けた。
彼女は、二人きりでは会わないと元上司に伝えていたから。
懇親会という名のもと、実際は元上司の為のイベントになっていた。
私は就職を機に、元上司の連絡を絶つようにした。
家族に電話を取り次がないようお願いをして。
当時は携帯もメールも無く、連絡手段は家の電話か手紙のみ。
短大生女子とはその後もたまにお茶や飲みに出かけていたが、彼女もバイトを辞めて元上司や
バイト仲間とも疎遠になっていった。
私の自宅にかかる電話も途絶え、もうあきらめたんだな、と勝手にそう解釈していた。

その翌年正月に、元上司から年賀状が届き、仕事を辞めて隣県の実家に帰った事を知る。
最後に会いたかったが(私が電話に出ない&掛け直さなかったので)相当忙しいみたいですね、
身体を壊さないように頑張ってくださいと書いてあり。
それを読んだ時、申し訳なく思った。
送別会の一つも開いてあげたら良かったなと。
私は思わず、はがきに書いてある電話番号に電話をかけた。元上司は、喜んでいた。
そして、観光地でもあるその土地にみんなで遊びに来てと言った。
短大生女子にも、最後に会いたかったけど、連絡がつかなかったとも。
だめもとで、元バイト仲間に連絡をとると、一人が車を買ったばかりで、遠出がしたかったので
丁度いいとその企画にのってくれた。
短大生女子を含む5人で元上司の住む町へ遊びに行くことに。
温泉地でもあり、1泊し、楽しく過ごした。
元上司は大喜びで観光案内をしてくれ、次は自分がそっちに遊びに行くからまた集まろうと話し。
だけど、その計画は実現しなかった。
短大生女子と、車の持ち主で運転をかって出てくれた青年が、この旅行を機に付き合うことになったから。
青年も、元上司からたびたび恋愛相談を受けており、短大生女子に思いを寄せている事を知っていた。
元上司に悪いので、交際の事は言わないで欲しい・今後、集まりがあっても自分たちは参加しない旨を
私に連絡してきた。
ややこしいことになりそうだ、と思い、私も再び元上司やバイト仲間との連絡を絶った。

その後、私は活動家に転身し、初めての選挙戦のF取りに、バイト仲間だった人全員あたることにした。
学会宣言すらしたことのなかった私にしたら、不安だったが、案外みんな頼まれ慣れていて
「うんうん」「わかった」と耳当たりの良い返事。
内心どう思っていたかは不明だけど、私に対してハッキリと否定するようなことを言って来る人は誰もいなかった。

リストの中に、元上司の名前はなかったが、比例区でお願いしようと思い、久しぶりに電話をした。
元上司は、私の連絡が遅いと怒っていた。電話をなんどもかけたのに、コールバックが無かったじゃないかと。
私は御無沙汰を詫びて近況を聞いたが、元上司はバイト仲間の数人に連絡をとっても、そっけない
態度をとられたとかで御立腹だった。
この状況で頼むのは厳しいなと思ったが「今日はお願いがあって電話しました」と伝える。
おねがいごとなんて珍しいなぁ、何か買ってくれとか、借金はダメだぞと冗談めかして元上司は言った。
私は、そういうお願いじゃなくて選挙なんですと言った。
元上司は一瞬間を置いて「どこの政党?」と聞く。
私が「公明党を」と言い終わらないうちに
「お前、何をやってるんだよ?そんなこと、みんなに電話してるのか?」と怒り出した。
私が、バイト仲間の連絡付く人全員にお願いしたと伝えると
「馬鹿!そんなことすんなよ。お前、とんでもないことやってるな。友達なくすぞ?」と言った。
私は否定された事が無かったので、頭の中がまっしろになった。
「なんでそんな事言うんですか?他の人は皆、わかったよって普通に聞いてくれましたけど」
と答えると、元上司は深いため息をつき
「そんな事を頼むって言うのは、友達を大事にしてない証拠だし、お前も友達から大事にされてない証拠だよ」と言った。
私は頭にきて「そんなことありません!」と言い返した。
その後、あれやこれやと言い争ったが、元上司は組織や、私のF活動を非難した。
そして「もういいです、OOさんにはもう二度とお願いもしないし電話もしませんから」と
一方的に電話をガチャ切りした。

当時の私にしてみれば、あんたの恋愛、応援してやったのに。なんでFのひとつくらい気持ち良く
「うんうん、わかった考えとくよ」と返事が出来ないのか?
頭ごなしに組織や私を否定してくるのかと、元上司の心の狭さが腹立たしかった。
でも、これでいいと思った。
元上司の恋愛を応援する事はもうない(出来ない)し、私が接点をたもちつづける事は、実はマイナスかも
しれない。
こうして、相手の本性(アンチ創価)がわかったから、元上司との縁は切って正解だ!と思っていた。

その後、2-3年の間、元上司からは年賀状が自宅に届いた。
ひとこと「元気か?」と書いてあるだけ。私は元上司に年賀状を送る事も無ければ、電話もかけなかった。
Fを断られたことで、完全に縁切りしたと、こっちは勝手にそう決めていた。
以降、元上司がどうしているのかは全く知らない。
バイト仲間とも自然に連絡が途切れ、いまでも年賀状をやりとりしているのは1人だけになった。


マインドコントロールの解けた今、冷静に振り返ると、元上司は本当にイイ人だったんだなぁと思う。
私はF活動を否定されただけで、相手をシャットダウンしてしまったが、元上司はそれでもなお
年賀状は送り続けてくれた。私には、そういう事ができなかった。
組織を否定された時点で、敵に変わっていたのだ。
そこには対話の姿勢なんてなかった(元上司の創価嫌いぶりが、はんぱなかったのもあるんだけど)。

組織では「F活動で、相手の本性が出る」と度々聞かされた。
否定する人・素直に聞く人・馬鹿にする人etc
それぞれ、境涯の高い低い・仏に近い生命の人or地獄に近い生命の人、などと立て分けられていた。
組織にとって好意的な人は「仏に近い尊い存在」で、組織を誹謗中傷する人は「地獄・餓鬼・畜生・修羅」という教え方。
そうやって、否定された相手は見下せばいいって組織ではおしえていた。
テンテーは「悠々と、みおろしていけばいい」と指導してたな。
どこまでも組織に都合のいい教えだった。
この場合で言えば、元上司は四悪道の人ってことになる。
だけど、本当はそうじゃない。
冷静に「F活動なんかやるな、友達なくすぞ」と忠告してくれていたんだから、せめて人界じゃないかなって
今はそう思える。

ほんと、F活動なんて、くだらない。
実際、私は候補の事・党の事、ほとんど理解もしないまま外部にすすめてたし(笑)。
党員でもないのに応援活動してたんだから。
そんな女子部員が、大半だった。
紹介DVDをちょっと見たくらいじゃ、何も分からない。ただ、功徳を積むためにと、やってる人が大半。
「功徳がある」と会員を煽って、選挙支援活動をさせる組織は、完全に悪だと私は思う。
やるもやらないも、人の自由だけど、上から言われて仕方なくなら、F活動なんて、やらなきゃいいじゃん。
報告数なんて、てきとーに言ってりゃいいんだよ(笑)罰なんて、ぜったい当たりませんから。

いざというとき

2012年11月10日 | 20代の出来事
女子時代の県幹部に指導名人がいた。
非常に人気のあるその幹部の指導は独特の語り口調で、今もはっきり思い出す。
滔々と、流れるように、途切れることなく、音楽みたいにしゃべる。
あれはどこかで訓練されたものなのだろうか?
ニュースキャスターの女性に似ている人がおり、テレビでみるたび
「元気なのかな、あの幹部」と思いだす。
私が結婚する1年ほど前、40代をすぎたということで未婚のまま婦人部へ勇退(と組織では呼んでいた・笑)
していったその幹部は、確か組織のお仕事をされていたはず。
(「テンテーに近い人」とも呼ばれていた)
縁談の話は山ほどあっただろうに。結婚相手は自分でみつけたい派だったのかな(大きなお世話)。

その幹部が出席する女子の会合で任務についたときの指導が強く印象に残っている。
(白蓮のころなので、約20年前の話)
私は場内整理を担当しており、後方のドア付近に立ったまま指導を聞いていた。

その幹部はテンテーと接する機会も多かったようで、折々にテンテーの最近あった話をしていた。
いかにテンテーが青年部を、女子部を大切にしているか、思っているか、滔々と語る。
「ふところに入れてくださっている」という表現もよく使われていた。

”どれほど師匠が弟子の成長を祈り、見守ってくださっているか。
師匠が弟子の為にと、最前線で、御高齢にもかかわらず(でもよく考えたら、当時60代だったはず
テンテー、ずいぶんメタボで老けてたなと思う・笑)真剣勝負で闘い続けてくださっているか、
不肖弟子のわたくしたちは、どれほどその師匠のお心に応えることができているだろう。
弟子は師匠の期待にこたえねばならないのです。”

このへんまでは、なんとなく理解できたのだけど
当時聞きながら「それはどういった事態を想定しての発言なのか?」と不思議に思った内容があった。

その内容

”弟子というものは、いざという時、まっさきに師匠の元へかけつけなければなりません。
師匠の一大事のとき、一体どれほどの人が師匠の元へかけつけられるのか。
「先生!」と声をあげ、何を差し置いても、まっさきにかけつけることの出来る人がどれほどいるのだろうか。
弟子が師匠を求めていくということは、常にそのいざという時のための訓練なのです。
いざという時、かけつけられないようでは本物の弟子ではありません。
そのいざという時が、明日なのか、10年後なのか、20年後なのか、30年後なのかは誰にもわかりません。
その「いざという時」に本物の信心が試されるのです。
青年部で闘って闘って闘いきって、師匠をどこまでも近くに感じる事が大事なのです。”
”本物の弟子となるため、常に心は師匠の元へ。”

(注意・この内容は私の当時つけていた「活動日記」から引用。
 会合終わり帰宅後に、印象に残った指導をノートに書いていた)

”いざという時(一大事)”って何なのよ?と不審におもいながら聞いていた。
その当時、漠然とイメージしたのは「テンテー死亡時」だった。
でも、葬式にまっさきに・一番にかけつけるって意味不明。
だいたい会員が多すぎて、全国から我一番にとみんなが駆けつければ交通網がパンクしたり、パニックになりそう(笑)
そんな理由で葬式はしっくりこないから、却下。

その次にイメージしたのは「終末期」。
なんらか国内で騒乱がおこり、ノアの方舟状態で会員たちが
テンテーと宇宙船にでも乗って新たな地へ向かうとか(笑)これも現実的では無い。

または組織がなんらかの権力に潰されそうになって、籠城集団自決するなど、聖戦を思い浮かべた。

どっちにしても「師匠の一大事」とは、私の思考力では不穏な事しか想像できず、
何と恐ろしい幹部指導なんだと当時思った。


@@@@@

2002年の会則変更で、テンテーが生きながらにして「永遠の指導者」入りした。
そのことを当時はなんとも思わなかった。
とりたてて、すごいともおもわないし、まったく疑問にも思わない。
組織をつくって・大きくして・世界に拡大したのはこの3人。
殿堂入りするのは自然と思っていた。
今より以上の飛躍をなし遂げるような先導者が次に現れない限り、殿堂入りは無いよねーくらいの感覚で。

だけど最近、この「いざという時」幹部指導を読み返して、ぞわっとした。

永遠の指導者が、もう全員この世を去ってからの「殿堂入り」してるなら問題ない。
ひとりまだ生きてる(って事になってる)状態で、これってまずいんじゃないのかって。

ひとり生きてた「永遠の指導者」が亡くなったら、そのとき弟子たちはどうするのか。
次なる永遠の指導者候補もいないのに。
(というか、もうそんな人物は出てこないことを見越しての三代なのだろう)
(大きなお世話だが、世襲だけはぜったいにやめといたほうがいいとおもう、いくらおとなしい
 信者とはいえ、動乱起きそう)
そのとき盲信者たちは、闘い・生きる意味を失わないだろうか。

これ以上の憶測は、やめておくけれど、
有事の所作を20年前すでに幹部から教え込まれていたのかなと
冷静になったいま読んでも、やっぱりものすごく怖いと思う。

そして私は、もうとっくにタヒんでるのではないかとも感じている・・・。


バリ活の人が聞くとまた違う解釈になるのだろう。
いざという時ってどんなとき?

考察

2012年11月04日 | 20代の出来事
白蓮をやっていたときのこと。

会合が終わると、会場に掃除機をかける。
畳敷きの、学校の体育館くらいありそうなスペース。
業務用の重たい掃除機を、引きずらないように2人1組で。
ひとりが本体を持ちながら長いコードを捌き、もうひとりがホースノズルで畳の目に沿って丁寧に吸引する。
どちらも、重労働。
(余談・重たい掃除機は20年前の話で、10年前に見た時は、コンパクトな掃除機に変わっていた・笑)

ある日、班長が言った
「会館のお掃除を頑張ったら、掃除機をかけた畳の枚数分の大きなお家に
将来住む事ができる(境涯になる)」と。
おまじない的なこんな言い伝えが、ほかにも色々とあった。
(トイレ掃除にもいわくがつけられてたが内容は忘れた)
(新聞推進は経済革命。お金を相手に出させて悪いと思うなかれ、相手の経済を安定させてあげる
 功徳があるのだから、おもいっきり行け、という言い伝えもあった)

班員のひとりに、狭い団地に住んでいて3姉妹で1部屋を使っている子がいた。
「わたし絶対、掃除機がいい!」
彼女は役割をきめるさい真っ先に掃除機をかける事を選んだ。ほぼ毎回。
私は幸いにも自分の部屋はあったし、実家もそこそこだったので、各種おまじないはピンとこず。
おまじないについての是非は考えず、私にはどうでもよい事ばかりだった。
御利益があるからこの雑用をすすんでやる、というのは私のモチベーションUPには繋がらなかった。
いつも皆が選んだ後の、余った仕事をやるようにしていた。それはたいてい、楽な仕事だった。
狙ってそうしたわけじゃない。
大変そうな仕事をまっさきに選ぶことは「率先垂範」の白蓮メンバーにとって命題だったから
早い者勝ちで、あっという間に大変な・敬遠されがちな仕事は売り切れる。
結果、私は楽な仕事をやることになっていた。

そんな私を見てあるとき責任者が言った
「あなたにはまるでハングリー精神が感じられない」と(笑)。
せっかく訓練を受けているのに、それでは勿体無いよといわれる。
なぜいつも一歩引いて周囲を見てるの?もっと欲張りになりなさいとの指導。
ちゃんと見られてるんだなとヒヤっとしたと同時に、いい子に見られたかった私は
次からは掃除機を選ぶようになった。

「率先垂範」この言葉もまったくピンとこなくて、どこかうそくさいとおもっていた。
うそくさい、というのはメンバーの「私が私が」状態の事。
たとえば、ひとこと活動報告は希望者、と司会に呼びかけられたら誰よりも早く大きな声で
ハイッ!と勢いよく挙手しなくてはいけない。
しかも班全員で。それが責任者からの指示。
私は活動を頑張ってはいたけど、人前に出てしゃべるのは苦手だったからこの指示が
とてもイヤだった。
件の、掃除機大好きメンバーは本当に元気よく、鉄砲玉状態で飛び出す子だった。
たとえしゃべることがなくても「とにかく一番を取る」事に躊躇の無いタイプ。
そんな姿を見て「すごいなぁ」と思う反面「本気かよ?」と思っていた(笑)。
悪口ではないけど、私と同じくちょっと引き気味なメンバーとこっそり
「すごいなとはおもうけど、彼女みたいになれないよね」と話したこともあった。

在任中、責任者から繰り返し指導を受けたが
「率先垂範」について
”目的や理由が頭で(考えて)わからなくても、とにかく素直に素早く行動ができること”
と教えられたこともあった。
私はそれが出来ていないとの指摘。
頭で考えすぎて、行動が遅くなっているという指摘。
「上からの指示は全てテンテーの指示と受け止めて行動することができれば難無いはずだ」
とも言われた。

私は、活動面においては、折伏・新聞もできたし、入決数もそこそこあったし、頑張っている自負があった。
だのに「率先垂範を頭でわかろうとしすぎ、行動が伴わない」と言われるのは心外だった。
結果を出せないままのメンバーも居た中で(掃除機大好きメンバーもそうだった)
自分はこれだけ目に見える数字(笑)を出しているのに。
多忙な中、寝る間を惜しみ、父に怒られても夜遅くまで走りまわり、いっぱい頑張って
勇気出して友人にあたってこの結果を出したのに「行動が伴わない」と言われることに
困惑していた。


卒業を控えて
「”率先垂範”でいえば、一番出来ていたのは掃除機大好きメンバーだ」と
幹部が名指しで誉めた事があり、私は納得しつつも、少しだけ不満だった。
自分も誉めてもらいたかったのに、全くダメだったから(笑)。

(注意・断っておきますが、あくまでも私が居た地域での指導内容です。
 私のいた地域だけ、特殊だったのかも知れません)

私の地元の幹部たちがいうところの「率先垂範」
これはある意味、ずうずうしさがないと出来ない事だと思う。
動物的瞬発力とも言うべきか。理性が邪魔をするようではダメなのだ。

そして「頭で考えるな、まず(上からの指示どおりに)行動せよ」
冷静に考えて、これってすごく恐ろしい。
結局は元気いっぱい勢いよく”いいなり”になれって事でしょ。
黒幕操るところの、煽動隊長にはもってこい。

いまおもえば、「率先垂範」とは、婦人部で先陣切って闘うその時のための訓練だった。
頭で理由を考えたら、まともに闘えなくなる活動内容ばっかりだもの(笑)。

述懐⑦

2012年10月19日 | 20代の出来事
決して嫌なことばかりだったわけではない。
美談(?)もある。

未活期間、家庭訪問の対応は適当にしていた。
相手の言う事をひととおり聞き、日程を貰っておしまい。
近況やプライベート話題は手短に切り上げる。
選挙は行きます・友達に会えたら頼んでみますと答え、当たり障りのない対応を。
自分が家庭訪問にまわっていた経験から心得ていた。
その頃の幹部や担当者は私が未活になった理由を知っていたので
無理強いは無く、その気になるまで待っている感じだった。

数年後、地域のリニューアルで家庭訪問にやってくる人も変わった。
派遣の部長女子だったが、彼女は私が未活になった経緯を全く知らない。
新任で張り切っており、未活を掘り起こしたいという気持ちに溢れていた。
何度か会う中、私が当たり障りない対応だったので脈ありと思ったのか
アポなし訪問・車でやってきて「乗ってください、今から会合に行きましょう」と強引な
行動に出た。
私は会合に一切出ないと決めているから帰ってくれと言ったが
「どうしてそんなに頑ななんですか?」と若干キレ気味に聞いてきた。
そこで(具体的内容は伏せて)過去に組織で嫌な思いをしているから、と話した。
彼女は、その事は知らなかったのでごめんなさいと謝ったが
「そんなつまらないことで広宣流布を止めていいんですか?」
「自分が損するだけで勿体無いですよ」と大真面目な顔で言った。
本人に悪気がない事は解っていたが、私は立腹。
もう誘いに来ないで欲しい、あなたの家庭訪問は一切応対しませんと言った。
彼女は驚きながらも「しょうらんさんの為を思って言ってるんです」と引き下がらず。

「組織で躓いた事も無く、順風満帆にやってきた人に何がわかるの?
”あなたの為を思っている”なんて言ってもリアリティないから」と言った。
彼女は
「確かに私は組織で躓いたことはないです。でも、決して順風満帆なんかじゃありません。
 悩んだり傷ついた事はいくらでもありますよ。でも、その時の為に信心があるんじゃないですか?
しょうらんさんはどうして逃げるんですか?」と言った。
更に頭にきた私は
「解ったような事を言わないで。そういうのを人の心に土足で踏み込むって言うんだよ?」と返した。
とにかくもう来ないで欲しいと伝えその場は終わった。

その後、彼女は日程表やメモをポストに入れるだけになり顔を合わせる事はなかった。
選挙前は本部幹部の家庭訪問で彼女は来ず。

数年後、同窓生女子が突然やってきた。
幹部の彼女は圏にあがった挨拶で部員全員の家を回っているとのこと。
私はリストラで退職まで1ヶ月を切ったところだった。
昔のよしみと、次が決まらず心が弱っていたこともあり思わず彼女に悩みを話した。
じっくりと聞いた後彼女は
「絶対大丈夫よ。仕事が早く・良いところに決まるよう、祈っていこう。
私も祈っているからね」と激励してくれた。

母からは、すぐにでも組織の活動に戻るよういわれたが
私はプライドから再就職が決まるまでそれはしないと決めていた。
この時の状況は個人信仰にあたるとおもうのだが、十分な手ごたえ(心の充足感や
絶対大丈夫だと思える心)を感じながら、再就職を決めた。

再就職が決まってすぐ私は圏幹部の彼女にメールで報告した。
彼女はすぐに家庭訪問に来てくれた、件の派遣部長を連れて。
派遣部長は本部長になっていた。
本部長は「ご無沙汰しています、あの時はすみませんでした」と頭を下げた。
かなり時間も経過し、私はなんとも思っていなかったので
「そんなの気にしないでください、私もすみませんでした」と謝ると
彼女が後ろを向いたので、何かと思えば「嬉しい」と泣いていた。
ずっと自分の言った事が原因で、ますます組織離れさせてしてしまったらどうしようと悩み、祈っていたとの事。
まっすぐ綺麗な心が見えて、ハッとさせられる。
祈ってくれてありがとう。
私は、この本部長を支えていきたいとそのとき思った。
これが再度活動のきっかけになり、組織に戻った。

「祈っていた」簡単な言葉じゃない。
その後の活動で本部長と接していくうち、この人はすごいと尊敬が日に日に増した。
誰かの為にと言葉だけでない地道な行動が出来、結果を出す人だった。
私の再活動からちょうど一年経った頃、結婚で遠方へ引っ越していった。

馬鹿な幹部男子もいたけど、そういった一部の勘違い連中を除いて
大半の人達はみな真面目で善良で純真だった。
私は当時の同志がいまでも好きだし、感謝もしている。

中の人達は悪くない。
その善良な人達の純粋な信仰心に巧みにつけ入り、美談の苑から出られないよう
タテヨコの繋がりを強化させ、仮想敵を次から次へと用意して団結心を煽り
考える隙や暇を与えない。
反逆はもっとも悪と教え込み、それが結果的に内部の言論統制に繋がっている。
隣国とやってることが同じじゃんと最近気づいた。
おそらくその見事なまでの統率力をリスペクトしているのではなかろうか
彼の国の首脳陣は。

私は組織から脱しても中の人と友達でいたいと思っている。
大本営が嫌いになっただけで、彼女らは悪くないから。

でも、そうは問屋がおろさない事もちゃんと知っている(笑)

述懐⑤

2012年10月14日 | 20代の出来事
原点が無い、と書いたがそれは「師匠(先生)との原点」がないだけで
私の信心の原点は母から聞かされた体験と、自分で掴んだ体験。

新生児のとき、原因不明の病で生死の境をさまよった。
町医者にうちでは診きれないと言われ、大病院に行き即入院。
3日がヤマです、覚悟して下さいと医師から言われたが両親と親戚の必死の祈りで
1週間でなにごともなかったように退院できたとの体験。
もちろん私はそんなこと一切覚えてない。
親と母方の親戚方に幼少時代から「御本尊様のお陰で助かったんだよ」と
繰り返し聞かされてきた。
幼いときから御本尊様ってすごいんだという気持ちと、守り神なのだという意識があった。

自身で祈りの体験を掴んだのは中学生時代。
クラブ活動の人間関係に悩んだときや、倍率が100倍というある抽選に当たったことなど
御本尊様に祈ったことで「乗り越え」「叶った」事がある。
そうやって得た確証=功徳によって信仰心が深まっていった経験。

学会と言えば「師弟」というけれど、私が師弟について意識をもったのは
20代前半で白蓮に入った時だった。
その時初めて人間革命を読み、創価学会の歴史を知った。
幼少期からずっと「師弟」の意識もなければ、私の親は先生贔屓でもなく。
学会はあくまでも「日蓮正宗の信徒団体」だから自分たちも所属しているという
感覚だった。
会長先生に信奉して所属している訳ではなく。
だったら、宗門問題の時点でお寺につくのが本当は正解だった気がするけど
どういうわけか学会に残った。
どうして当時そのことに気がつかなかったのだろうと思ってしまう。

「師匠(先生)との原点」という言葉も、実は白蓮に入って知った。
さかんに幹部の口から語られる「原点」
まだ無い人はこの時期に掴んでおきなさい、ということもしょっちゅう言われた。
お手紙を書きなさい、という打ちだしもあったが私は自発的に書いた事が一度もない。
組織の人に促されて(まとめて送るからと)書いた記憶はあるけど、何を書いたのかも
記憶がない。
よくこんなことでやっていられたなぁ、と思う。

白蓮にいたころ、仏法対話をしようと(人数のノルマがあった)
無謀にもゼミの先生を訪ねて話したことがある。
先生は無神論者だったが、クスクス笑いながら私にむかって
「あの、会館で、会長先生の写真を拝んでいるのでしょう?」と言ってきてビックリ。
大学教授ともあろう人がそんな(嘘の)知識しかもっていないとは・・・と呆れて
ぜんぜん違いますよ!と反論したら
「いや知ってますよ。写真で無くお曼荼羅を拝んでいることくらい。
 ただ、世間一般からのイメージはそんなもの(会長先生の写真を拝む)ですよ」と
返された。
一応、尊敬している相手(ゼミの先生)だったのでこんな印象を持たれていたことに
私は非常に落ち込み傷ついた。
私は会長先生なんて拝んだことないし。
あくまでも、日蓮大聖人の教えと・御本尊様を信じているのになと。
その他、語ってはみたが暖簾に腕押し状態で、当然だが解り合う事もなく
悲しい・悔しい思いだった。
(余談・・・この件を組織の先輩に報告したところ、逆縁だと励まされ
納得していた)

ここで真剣に「師弟」を感じていたなら、
師匠を馬鹿にしたな!と怒るのかもしれないが、腹立たしいと思わなかったので
私に師匠との原点は無かったんだろう。
身内を馬鹿にされたようなものなのに、怒らなかったのだから。