御授戒を受け、御本尊様を持っていても、「行」が伴わなければ功徳を得ることが出来ません。日蓮正宗の行は、「勤行唱題」と「折伏」が基本です。これを「自行化他(じぎょうけた)」といいます。自行化他を行うことで、御本尊様から有り難い功徳を頂くことが出来ます。
修行は、信心と生活が両立できるように行います。片寄りがないように勤めるところに信心即生活があり「我此土安穏(がしどあんのん)」な境界があります。
他宗で行う「難行苦行」は無意味であります。かえって心身を害し悪因を積むことになり地獄に堕ちます。難行苦行を行わないだけ、日蓮正宗の修行は、勤行唱題と折伏という易しい修行です。難行苦行をしないで最高の成仏という境界を御本尊様から頂くことが出来ます。
自行の勤行唱題とは、自分自身の能力と境界を高める修行です。潜在能力を御本尊様により引き出して頂くことが出来ます。それが仏様の生命「仏界」です。人間には本来、仏様の命が眠っています。信心をもち御本尊様に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで仏様の命が蘇ります。それが勤行唱題という「行」です。
勤行では、法華経の大事な御経を読誦します。それが迹門の「方便品第二」と本門の「如来寿量品第十六」です。方便品を読むことで間違った低い教え、爾前権教を破折し、更に諸法実相を示して理の一念三千を観じていきます。寿量品を読むことで本門と迹門に違いを示し、更に文底に秘沈されている事の一念三千である御題目の南無妙法蓮華経を引き出します。それによって上行菩薩に付嘱された、御題目の南無妙法蓮華経が唱えられるのであります。
化他行の折伏は、仏様の命「仏界」を涌現させる行を他の人に教え、間違った悪道へ堕ちる宗教や仏教を正していく修行です。そして御本尊様の素晴らしさを訴えていきます。人に喜び・歓喜を与える「行」が折伏です。
折伏で大切なことは、歓喜に満ちた気持ちで行うことです。更に情熱と勢いと慈悲が大事です。その場の雰囲気を日蓮大聖人の御精神に満ちた空気を作り出すことが大切です。この雰囲気に動執生疑を起こし信心に目覚めます。折伏は周りの雰囲気作りが左右し非常に大切です。
この自行化他の修行を地道に行じていくところに、「広宣流布」である立正安国の世界が出来上がります。この広宣流布を心に思い描きながら自行化他に精進していくことです。
日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書1594)
と御教示であり、また『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり。」(御書1760)
と仰せです。自分自身も唱え、他にも勧めていく、自行化他の南無妙法蓮華経が今末法における正しい修行であると御指南です。自行化他の勤行唱題と折伏を行じていくところに成仏があります。成仏は毎日の積み重ねが、冥益となって顕れます。
「信」と「行」を強力にするため教学という「学」が必要不可欠です。教学である「学」は、日蓮大聖人が説かれた「御書」や歴代の御法主上人猊下の御指南を学びます。教学を学ぶことで人生の苦悩を未然に防ぐ知識を付けることが出来ます。また、宗教や仏教の正邪を理解することもできます。この正邪を知ることで人々を救っていく折伏の智慧が付くわけです。
『御義口伝』に、
「学とは無智なり、無学とは有智なり」(御書1748)
と説かれており、一般世間でいうところの無学と仏法で説くところの無学は意味が異なります。世間では無学というと学問が無いということになりますが、仏法においては無学となると智慧があり、学ぶものが全く無いという意味になります。つまり仏様を意味することになります。日蓮大聖人の仏法を学ぶときは世間一般の知識と間違った仏法と混同しないように気を付けましょう。
日蓮大聖人は『十法界明因果抄』に、
「何に況んや当世の学者偏執(へんしゅう)を先と為して我慢を挿(さしはさ)み、火を水と諍(あらそ)ひ之を糾(ただ)さず。偶(たまたま)仏の教への如く教へを宣ぶる学者をも之を信用せず。故に謗法ならざる者は万が一なるか」(御書208)
と御教示であり、仏教学者という肩書きを持つ人は、本来の仏法と違う偏った教えを説くので信用しないよう仰せです。
『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書92)
と御指南のように、正しい仏法や御経は御相伝によらなければ学ぶことが出来ません。相伝仏法を受け継いでおられる方が、御法主上人猊下であります。日蓮大聖人の御書も、御法主上人猊下が御指南下さる御言葉を拝し学ぶことが大事です。第二祖日興上人は「佐渡国法華講衆御返事」に、
「このほうもん(法門)はしでし(師弟子)を、たゞして、ほとけ(仏)になるほうもん(法門)にて候なり(中略)なをなをこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)い候へば、おな(同)じほくゑ(法華)をたも(持)ちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)にお(堕)ち候也」(歴全1-182)
と御指南であり、師弟相対したところに教学を学ばなければ無間地獄へ堕ちるという非常に厳しく仰せになっております。
「学」には「戒定慧の三学」というのがあります。『御講聞書』に、
「戒定慧の三学は妙法蓮華経なり」(御書1840)
と説かれるように、御題目の南無妙法蓮華経には、戒定慧の三学が具わっています。三学とは仏道を修行する者が、必ず修学しなければならないものが戒定慧です。戒は禁戒で、身口意の三業の悪を止め非を防いで善を修することです。定は禅定で、心を一所に定めて雑念を払い安定した境地に立つことです。慧は智慧で、煩悩を断じて真理を照らし顕わすことです。
戒によって定を助け、定によって慧を発し、慧によって仏道を証得することになります。末法の三学は、寿量品の事の三大秘法と説き、虚空不動戒を本門の戒壇、虚空不動定を本門の本尊、虚空不動慧を本門の題目としています。これは三大秘法の御本尊様を意味します。
日蓮正宗の信心は学ぶことが大事です。学ぶことで幸せを掴み、成仏の近道です。お寺へ参詣し教学を身に付けましょう。
人間は生まれれば誰しも受ける苦しみが「四苦八苦」です。恵まれた環境や逆境を体験しない人には理解できませんが、実際に経験をするとその苦しみは身に染みてわかります。四苦八苦は、御本尊様に御題目を唱えることで苦しみを和らげることが出来、四苦八苦をバネにして人生を勇敢に生きることが出来ます。日蓮大聖人の教えにおいては、四苦八苦が成仏の大切な糧になります。
四苦八苦とは、生老病死の四苦と愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五盛陰苦(ごじょうおんく)です。
生老病死の四苦である生苦が生きる苦しみです。生まれて生きていくというところに、苦しみを受ける原因が具わっています。苦しみの原因を自由自在に操っていく修行が日蓮正宗の信心です。
老苦が老いる苦しみです。人は必ず年をとり、体も老化していきます。老いる苦しみは避けられません。体は老化しても心は老化することはありません。それが信心です。信心によって気持ちを若く持っていくことが可能です。自然と気持ちが若いと老化現象を遅らせることが出来ます。
病苦が病気になる苦しみです。大半の人が必ず経験します。病の苦しみは、人生を大きく変えます。この時、はじめて健康な体の有難味がわかります。病苦も信心によって自然治癒力を高め乗り越えることが出来ます。
死苦が死ぬ苦しみです。生まれれば死に向かって生きております。しかし、仏法から見た場合、死は一時的なものにしかすぎません。仏法では三世を説き、生死を繰り返しています。死を迎えれば、必ずまた生まれるのであります。間違った宗教が説く、思想に執着すると死の苦しみを感じます。
愛別離苦が愛する者と別れる苦しみです。家族や御主人や奥さん、そして恋人や友人と別れなければいけない時があります。この苦しみを経験したとき、経験した人にしか解らない心の痛みがあります。そしてどんな行動をとればいいのか、迷う人が多いと思います。事前に予備知識を具て、体験する人は少ないことでしょう。まず冷静になり気持ちを落ち着かせることが大事です。そして決して一人では悩まず、御本尊様に御題目を唱えて智慧を頂くことが大事です。
怨憎会苦が会いたくない人と会わなければならない苦しみです。世の中には、好きな人ばかりではありません。相性があわない人もいます。怨憎会苦は、色んなケースがあります。嫁姑の関係や仕事場における上司同僚との人間関係、学校での先輩やクラスメートなどがありましょう。これが怨憎会苦です。一切衆生の恩を感じ、御題目を唱えて相性があうよう努力し、苦しみを和らげることが必要です。言動や振る舞いを工夫することです。
求不得苦が得ようとして求めても得られない苦しみです。煩悩を断ぜず、五欲を離れずに、少欲知足を旨としていくことが大切です。欲望や願望が強すぎると、この苦しみを感じます。時には意識を他に向けることが必要でしょう。
五盛陰苦が色受想行識の五陰から生まれる苦しみで、私達の肉体・精神における苦しみです。生きていれば必ず縁に触れて経験することです。
以上を仏教では四苦八苦といいます。日蓮大聖人は、四苦八苦を取り除く教えを、私達に御書として残されておられます。日蓮正宗の寺院では、四苦八苦を逃れる教えを教えています。信心を知らない人達は、四苦八苦を感じると貪瞋癡の三毒が強盛になります。信心をしている人は、御本尊様にひたすら御題目を唱え、貪瞋癡の三毒を変毒為薬し菩提へと転じて、人生を楽しく生きていくことが出来ます。四苦八苦に直面すると、必ず貪瞋癡の三毒が私達の心を汚します。御題目を唱えて洗い流すことが大事です。月に一度は寺院に参詣して、心の汚れを洗い流すことをお勧めします。
16.身・口・意の三業
17.冥の照覧を恐れる信心を
18.死魔を乗り越える信心を
19.信心を阻む三障四魔
21.異体同心の信心
23.転重軽受の法門とは
25.願兼於業は地涌の菩薩の証
27.九思一言を心がけましょう
28.病を克服する信心を
日蓮大聖人は「八風」について『四条金吾殿御返事(八風抄)』に、
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり」(御書1117)
と御指南であります。この「八風」によって人生を狂わされた人は多いと思います。八風とは、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)という、私達の心の中に吹き荒れる八つの風です。八法ともいい、仏地経論巻五等に説かれます。
利・誉・称・楽を四順といい、衰・毀・譏・苦を四違といい、一切衆生は此等の八風に愛欲し忌避するとされます。日蓮正宗の信心をすれば、此等の心の風を自由自在にコントロールすることが出来ます。
釈尊は法華経の結経である『仏説観普賢菩薩行法経』に、
「復当に煩悩を断ぜず、五欲を離れずして、諸根を浄め、諸罪を滅除することを得、父母所生の清浄の常の眼、五欲を断ぜずして、而も能く諸の障外の事を見ることを得べき」(法華経610)
と説かれています。御本尊様を受持し御題目を唱えるところに、五欲を離れることなく六根を清め、諸の罪障を消滅し、仏法の父母となる仏様の清浄な眼を常に具え、五欲を断つことなく、三障四魔を明らかに見ることが出来、八風に左右されることなく生きることが出来ます。
八風は私達の五欲である色欲・声欲・香欲・味欲・触欲を紛動させ、人生の目的を翻弄するものです。『如来寿量品第十六』に、
「貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん」(法華経433)
と釈尊が説かれますように、仏様が説かれる教えを学び修行をしないと、憶想妄見の網の中に入り、八風に左右される人生を送ることになります。
小乗教などの低い教えは、灰身滅智を目的とし、欲望である煩悩を無くす修行をしますが、日蓮正宗の修行は大乗教であり、大乗の中でも一番最高の教えのもとに宗旨が成り立っています。それが法華経であり、法華経のもとに修行をし、欲望を完全に無くさなくても、扱い方を間違わなければ、人生を非常に裕福にします。
八風は楽しみと苦しみという苦楽を八つの風に譬えています。楽しい方の利・誉・称・楽の四順は、自信を越えて自尊心を大きくし、慢心を増長させる危険があります。適度に扱うことで成仏における重要な仏因が積めます。
苦しい方の衰・毀・譏・苦の四違は、度が過ぎますと悲観的になり、人生のあらゆるものが暗く見え、絶望感に浸る日々を送りかねません。この八風を適度に調和させることを目的として精進する修行が信心です。
八風は、ある一定の限度を超えると自他両面にマイナス的な影響をもたらし心身に悪影響を及ぼします。この限度を超えないように心を平常に持つ方法を、日蓮大聖人が御指南されております。その修行が勤行唱題です。御本尊様に手を合わせる習慣を毎日持ちましょう。
私達は、身口意の三業にわたって信心をすることはなかなか難しいことです。日蓮大聖人は『女人成仏抄』に、
「然るに一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒(てんどう)の里に入りしより已来、身口意(しんくい)の三業(さんごう)になすところ、善根は少なく悪業は多し」(御書344)
と仰せであります。信心は身口意の三業にわたって行うことが理想ですが、過去遠々劫の謗法の垢が厚いため困難であります。
身口意の三業とは、身である体と、口である声を出す口と、意である心の三つを三業といいます。日蓮大聖人の教えは、この三業にわたり信心するところに、成仏の境界を築くことが出来ます。身である体だけ信心している姿を見せても、口と意である心が信心と違うことをし考えていてはいけません。また口から出す言葉が信心にかなっていても、身と意が異なっていればこれもいけません。更に意である心の中で、この信心は正しいと知っていても、身と口が違う行動をとっていればこれもいけません。
日蓮正宗の信心は、身口意の三業にわたってはじめて信心と呼べるのであり、身口意の三業が調わないことは信心と呼びません。日蓮正宗に入信している人で、功徳がなかなか頂けないと悩んでいる人は、この身口意の三業がバラバラで調っていない場合があります。今一度、勤行唱題の中で自問自答する必要があります。
功徳が頂けない背景には、我欲が先行し日蓮大聖人の御精神から逸脱したときです。大聖人の教えのもとに我欲を調節し、身口意の三業を調えることが大事です。
日蓮大聖人は『教行証御書』に、
「公場にして理運の法門申し候へばとて、雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猿(あさまし)き事なるべし。弥(いよいよ)身口意を調へ謹んで主人に向かふべし、主人に向かふべし」(御書1110)
と御指南であります。これは折伏における心構えを仰せになられた御言葉です。折伏行には、身口意の三業を調えて、身口意の三業が乱れたままで折伏をしないことです。身口意の三業が乱れたままでは、日蓮大聖人の法を下げることになり、折伏は成就しません。身口意の三業を調えて折伏に望むことは基本であり鉄則です。
『総在一念抄』に、
「問うて云はく、一文不通(いちもんふつう)の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口(く)業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むね(胸)の中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり。」(御書115)
と仰せであります。知識や学問が全くなく一文不通でも、信をもち御題目を口に唱えることで、口業の功徳を得て成仏することを御教示です。
過去遠々劫の謗法に迷わされないよう、身口意の三業にわたる信心に徹していきましょう。
「冥の照覧」とは、諸仏・菩薩や諸天善神が衆生の一切の一念・言動を悉く存知していることです。「冥」は暗くて、凡夫の眼に見えないことを意味しますが、深遠で奥深い力用をあらわします。「照覧」は明らかに見ることです。つまり、御本尊様が常に、私達を見守って下さるという、非常に有り難いことであります。その反面、決して悪いことが出来ない、悪いことをして人は見ていなくても、御本尊様が常に見ておられるという誡めが「冥の照覧」です。この冥の照覧を恐れる信心が大切です。
『持妙法華問答抄』に、
「豈(あに)冥(みょう)の照覧(しょうらん)恥づかしからざらんや。地獄の苦しみ恐るべし恐るべし。慎むべし慎むべし」(御書298)
と御指南であり、「冥の照覧」を恐れないと地獄の苦しみを経験すると仰せです。
『同生同名御書』に、
「人の身には同生同名と申す二(ふたり)のつか(使)ひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて、影の身にしたがふがごとく須臾(しゅゆ)もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にのぼて申し候と仏説き給ふ」(御書596)
と仰せであり、同生同名天(どうしょうどうみょうてん)が両肩に生まれた時からいて、冥の照覧を司っていることを御指南です。命終において同生同名天が閻魔大王に全てを報告し、未来に生まれるところを決定付けます。
親御さんは法統相続において、同生同名天の話をお子さんに聞かせて、教化育成することが大事です。同生同名天というのは、生まれたときも同じで名前も同じであるために「同生同名天」といいいます。同生天は女神で右肩にいて悪業を記録し、同名天は男神で左肩にいて善業を記録しているとされます。
具体的に「冥の照覧」を恐れる信心とは、信心を忘れる時を恐れなさいということです。この信心を忘れる時を恐れなければいけません。信心を忘れるときは、世俗の思想に紛動され易いときです。この時に罪をつくり、謗法をおかす危険性があります。そして「後悔先に立たず」という諺を痛感させられます。
その時を御本尊様は決して見逃しません。同生同名天がしっかり記録し、命に深く刻まれます。謗法与同罪を恐れる信心に通じるものが「冥の照覧」であります。
冥の照覧を恐れる信心とは、十四誹謗をおかさないということでもあります。また勤行唱題を怠らないことです。怠慢な姿は、人が見ていなくても御本尊様がお見通しであります。
この冥の照覧を恐れる気持ちが、出来ている人は確実に成仏に向かいます。冥の照覧を恐れる信心は、己心の魔や師子身中の虫を抑える作用があり、様々な煩悩である迷いや悩みを最小限に止める働きがあります。常に細心の注意力を怠らないことになり、大事に至らないよう未然に防ぐことが出来ます。それが「冥の照覧」を恐れる信心であり、御本尊様を常に意識することであります。
故に戒定慧の三学という戒において「防非止悪」の意味を持ちます。「冥の照覧」を恐れる信心を志しましょう。
「死魔」とは三障四魔のひとつであり、仏道修行を妨げる「障魔」です。三障四魔とは、三障が煩悩障・業障・報障です。四魔が煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔です。そのうちの「死魔」について、どのように考えていけばよいのか、特に愛する家族や親友を死によって失ったときの、心の動揺は抑えることが出来ません。非常に辛く悲しいものがあり、つい生前の頃を思い出し涙することもありましょう。
世間一般では、時間が解決してくれるとよく言われます。確かに一理ありますが、心深くに浸透してしまった悲しみは経験した人でしか解らない辛さがあります。この辛さ苦しみを抑えるには私達の感情では限界があります。この限界を回避し、冷静さを取り戻してくれる方法が日蓮正宗に伝わっているのであります。
それが「信心」であります。悲しさと辛さをバネに力強く生きていく生命力を、御本尊様から頂いて乗り越えることができます。
御本尊様だけが、唯一失ってしまった故人の架け橋になって下さるのであり、御本尊様に御経をあげ、御題目の南無妙法蓮華経を唱え、伝えたい気持ちを御題目の一つ一つに込めれば必ず伝わります。そして次の新たなる人生で、有意義に生活を送ることが御本尊様の力によって出来ます。
毎日、御本尊様に御経をあげ御題目を唱えることで、生きていたときと同じ情景を唱題中に心の中に再現できます。信じ難いことでありますが、これは信心をして積み重ねれば冥益により可能です。日々の弛まぬ努力と精進が大切です。
世の中は、因縁仮和合の世界です。仮に五陰が因縁和合したのが人間です。「仮諦」に執着すると悲しみと辛さが生まれます。空仮中円融三諦を御本尊様によって観じさせて頂くことが大事です。
そして御本尊様に毎日御給仕することを忘れないことです。その御給仕が失った最愛の家族や親友にそのまま真心となって伝わります。お水を朝に御供えすることや仏飯を御供えすること。そしてローソクや御線香に火を灯すことで、失った家族の新たなる人生を明るく照らしてあげられます。また御樒を供えて水をかえることで、来世における長生きという「長寿」を施すことが出来ます。御本尊様が御安置されているところをお掃除することで、来世、生活する場を綺麗にお掃除をすることにつながります。以上の気持ちで御本尊様に御給仕することが、最愛の失った家族に伝える唯一の志です。
「死魔」に直面したとき、人生を悲観的に絶望的に考えてはいけません。全てのことが暗く見え、暗黒の生活になります。暗黒の生活にならないように食い止めるのが「信心」です。マイナス思考にならないよう、プラス思考に転じ善知識として物事を考えていくことが大切です。そして歓喜を忘れないことです。
月に一度「命日」の日は寺院に参詣し、御塔婆を建立して御本尊様に御題目を唱えることで、最愛の家族や親友を成仏の境界に御本尊様の力によって確実に導いて下さいます。寺院への御参詣を心からお待ち申し上げます。
「三障四魔」とは、三障が煩悩障・業障・報障、四魔が煩悩魔・陰魔・死魔・天子魔です。仏道修行の途上で競い起こる障害です。
日蓮大聖人は『兄弟抄』に、
「其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は、今一重立ち入りたる法門ぞかし。此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ。此の釈に三障と申すは煩悩障・業障・報障なり。煩悩障と申すは貪・瞋・癡等によりて障碍(しょうげ)出来すべし。業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし。又四魔の中に天子魔と申すも是くの如し。今日本国に我も止観を得たり、我も止観を得たりと云ふ人々、誰か三障四魔競へる人あるや」(御書986)
と三障四魔について御教示であります。正しい仏法を行じていくところには、三障四魔という魔の働きが必ずあると日蓮大聖人が仰せです。
煩悩障とは、貪欲というむさぼり・瞋恚であるいかり・愚癡となるおろかなどの惑いによって起こる障りです。つまり貪瞋癡の三毒です。
業障とは、五逆・十悪等の業によって起こる障りです。また妻や子供等によって起こる障礙をいいます。
報障とは、三悪道である地獄・餓鬼・畜生、正法誹謗、一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国主や父母、社会的権力者によって起こる障礙をいいます。
煩悩魔とは、衆生の生命に本来そなわっている煩悩(貪瞋癡)の働きが仏道修行の妨げ魔の働きとなることです。煩悩障と意味は同意です。
陰魔とは、五陰魔の略で衆生の心身は、五陰の仮に和合したものであるから、常に苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とします。
死魔とは、死の苦悩で、死がよく衆生の命根を断つので魔といいます。
天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天である第六天の魔王がよく人の善事・善行を害することをさし、権力者による障害等がこれにあたります。
以上の三障四魔によって信心を妨害されることが因縁によってあります。魔が競うことで正しい仏法を修行していることを知り、障魔に随わず恐れることなく一生貫く姿勢が大事です。三障四魔の妨害に耐え忍び、乗り越えたとき有り難い成仏の仏果を御本尊様から必ず頂けます。
三障四魔が現れたとき、信心強盛に御本尊様を信じて御題目を唱えることが肝要です。三障四魔に屈しない精神をつくる道場が寺院です。御住職様と一緒に御題目を唱えるところに、日蓮大聖人の御精神が通った有り難い功徳が頂けるのであります。
法華経の法師品第十に「柔和忍辱衣」(法華経332)という経文があります。正法を素直に受持し、いかなる難にも屈せず耐え忍ぶ心構えを衣に譬えたものです。
日蓮大聖人も『法衣書』に、
「殊に法華経には柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)と申して衣をこそ本とみへて候へ。又法華経の行者をば衣をもって覆(おお)はせ給ふと申すもねんごろなるぎ(義)なり」(御書1546)
と仰せであります。更に『御衣並単衣御書』に、
「法華経を説く人は、柔和忍辱衣(にゅうわにんにくえ)と申して必ず衣あるべし」(御書908)
とも仰せであります。御本尊様を受持し御題目を唱えるところに、「柔和忍辱衣」という衣を着ることが出来ます。この衣を着ることで、人生の障害物となる四苦八苦や三障四魔といわれる障魔を克服し、三類の強敵(俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢)にも屈することのない強靱な精神を具えることが出来ます。それが「柔和忍辱衣」であります。
法華経を弘通するための軌範となる、衣座室の三軌となる衣が柔和忍辱衣で、法華経を弘通する方法と心構えを説かれたものです。
「柔和忍辱衣」の柔和は性格がやさしくおとなしいとの意で正法を素直に受け持つことを意味します。また心が柔軟であることです。つまり我見を差し挟まずに信伏随従することが柔和です。忍辱はいかなる迫害・災害や辱めにも屈しない信心をいいます。誹謗中傷となる辱めに対し、耐え忍ぶことが忍辱です。
一般的に人は、侮辱・屈辱を受けたり災害にあえば、感情的になって三毒強盛になります。更に人間関係が拗(こじ)れ、様々な問題が発生します。五濁爛漫(ごじょくらんまん)な世の中を正常にするには、柔和忍辱の精神が必要です。
日蓮正宗の信心は、侮辱・屈辱を受けたり災害にあった時に、どうような言動をとれば無難であるのか説いているのであります。その一つの心構えが「柔和忍辱衣」です。
信心において、この「柔和忍辱衣」は自行化他両面にわたって見つめることが必要です。応用すれば、信心と生活に活用され、実行していくことで安穏な境界を築くことが出来ます。世間一般では、柔和な気持ちと忍辱という耐え忍ぶことが、疎かになっている姿が見受けられます。まさしく、爾前権教に執着するために、出来上がった結果が今の世相となって現れています。この五濁爛漫となった世相を修復するには、日蓮大聖人の教えに基づいた柔和忍辱の精神です。世相を修復するのが私達の修行となる折伏です。
信心をしていても、柔和な気持ちと忍辱の心を時々忘れてしまうことがあります。忘れないようにする行が勤行唱題です。勤行唱題では、柔和忍辱の精神を心に刻む大事な修行です。世俗の思想が根強く御利益主義に走る傾向がある人は、この柔和忍辱の精神を心に染めながら勤行唱題することであります。その根強い執着心も柔和になって和らぎ、忍辱の精神が養われていきます。そして地涌の菩薩としての自覚も出来上がります。
信心は「柔和忍辱衣」を心に纏(まと)うことが大切です。
「異体同心」とは異体異心の反対語で、異体同心の意味は身体は異なっていても、心を同じにしていくことです。この異体同心、信心には当然必要であり、生活にも不可欠な心がけです。家族や仕事場における人間関係には大事になることが「異体同心」です。
日蓮正宗の信心における「異体同心」を育成する修行が勤行唱題です。また総本山の登山等です。日蓮大聖人は『生死一大事血脈抄』に、
「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書514)
と御指南のように、御開扉や丑寅勤行等で御法主上人猊下と異体同心して唱える御題目には血脈が流れ通っております。
末寺では、六根のうち耳根を敏感にさせ養うことに通じ、御経を唱える導師のリズムと速さに合わせることで六根清浄の仏因を積みます。更に僧俗和合という異体同心を養い、自己中心的な異体異心の命を罪障消滅させます。勤行唱題は、人間関係の円滑性を磨く大事な修行です。唱題行は異体同心を心がけることが大切です。
それぞれの家庭においては、導師のリズムと速さの他に、息継ぎのタイミングを御経が途切れないように、心がけることで些細な気配りが養われます。この勤行唱題で養った気配りを生活の場に延長させ、あらゆるところに応用することで更に異体同心の心を全体に広げることが出来ます。異体同心の気持ちは教化育成と折伏によって広げられ、自然と異体同心の和が広がっていきます。それが日蓮大聖人が仰せになる「立正安国」につながります。
世の中を見ますと特に、政治を考えた場合、異体同心ではなく異体異心の姿が明白です。異体同心の気持ちが崩れると人間関係が悪くなります。政治に関わらず、この異体異心に迷い悩んでいる人は多いことでしょう。人それぞれに拘(こだわ)りや執着心がありますので、異体同心は難しいところがあります。互いに譲り合う気持ちが欠如し妥協しないところに原因があります。また他人には劣りたくなく勝りたいという、人間の本能的なものが邪魔することがあります。これがまた己心の魔や師子身中の虫に変わります。勤行唱題では、この点も自己を見つめていくことが大切でしょう。
異体同心は、相手のことを思いやる気持ちがまず大切です。自己中心的な考えでは、異体同心は不可能です。日蓮大聖人は『異体同心事』に、
「異体同心なれば万事を成(じょう)じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なし」(御書1389)
と御指南であります。更に同抄に、
「同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書1389)
とも仰せであります。
日蓮正宗の僧俗と法華講中においては、「異体同心」が重要です。異体同心を忘れたところには、日蓮正宗の信心はありません。異体同心を養い教化育成される場所が、日蓮正宗の寺院です。本堂に在す御本尊様に御住職様と共に、勤行唱題するところに「麻畝の性」となって、悪い性格が直され異体同心が養われていきます。寺院での唱題行には積極的に参加しましょう。
日蓮大聖人は『華果成就御書』に、
「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくは(蓄)ひぬれば師弟地獄にを(堕)つといへり。師弟相違せばなに事も成すべからず」(御書1225)
と仰せであり、師匠と弟子が師弟相対した信心が大事であることを御指南です。「師弟(してい)」とは師匠と弟子のことで、師匠は模範となって人を導く方、弟子は師について教えを受ける者です。師弟の関係について仏法では、師弟相対や師弟不二をもって真の師弟のあり方としています。
「師」とは師匠であり日蓮正宗において、宗祖日蓮大聖人と第二祖日興上人已来、歴代の御法主上人猊下であります。更に末寺の御住職様も法華講員の方には師匠になります。
「弟」とは弟子であり、日蓮正宗に入信した法華講中の講員さんが弟子の立場になります。
この師弟相対した筋目を心得て信心していくところに成仏があります。
第二祖日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、
「このほうもん(法門)はしでし(師弟子)を、たゞして、ほとけ(仏)になるほうもん(法門)にて候なり(中略)なをなをこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)い候へば、おな(同)じほくゑ(法華)をたも(持)ちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)にお(堕)ち候也。」(歴全1-182)
と師弟相対しない信心は、無間地獄に堕ちると非常に厳しい御指南をされておられます。
師弟相対する信心は正法の「令法久住」に必要不可欠です。師弟相対しないところには、正法を末法万年といわれる未来まで伝えることは出来ません。そのためにも師弟相対した信心は大事であります。弟子は我見を差し挟むことなく、日蓮大聖人の教義を師匠から正しく学ぶことです。その学んだことを心に染め、更に折伏で正しく教えていくことが理想です。
御住職様から御指導を仰ぐことも師弟相対の信心になります。師弟相対する信心の実践は、寺院参詣における永代経や御講に参加し、御住職様の御法話を拝聴させて頂くことです。また日蓮正宗の機関誌である「大日蓮」や「大白法」を読んで、御法主上人猊下の御指南を拝読させて頂くことです。
更に、支部総登山等で総本山大石寺に登山をして、また大きな法要や行事に参加をし、御法主上人猊下の御指南を賜ることが師弟相対の信心につながります。日蓮正宗では、御法主上人猊下の御言葉は、信心の根幹でありますので疑うことなく、信伏随従(しんぷくずいじゅう)し「信」をもって拝することが大事です。
無いとは思いますが、もし疑問が生まれた場合、自分自身の信心を見直し、信心の原点にかえることが必要です。そして過去からの謗法の思想や生涯において根拠もなく身に付いた考えと我見が、心の中で魔となっていないか確認することです。勤行唱題で魔の働きを打ち破ることが必要でしょう。そして、御住職様や講頭さんに相談をして正しい信心に立ち返ることであります。
師弟相対の信心は、寺院参詣が基本です。率先して御住職様の御法話を拝聴させて頂きましょう。
日蓮大聖人は『転重軽受法門』に、
「涅槃(ねはん)経に転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)と申す法門あり。先業の重き今生につ(尽)きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっとき(消)へて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をう(得)る事の候。不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の悪口罵詈(あっくめり)せられ、杖木瓦礫(がりゃく)をかほ(被)るも、ゆへなきにはあらず。過去の誹謗(ひぼう)正法のゆへかとみへて『其罪畢已(ございひっち)』と説かれて候は、不軽菩薩の難に値ふゆへに、過去の罪の滅するかとみへはん(侍)べり」(御書480)
と御指南であります。
「転重軽受」とは、重きを転じて軽く受くと読み、智慧の力・修善(しゅぜん)の功徳・護法の功徳によって、過去世の重い罪業を転じて、現世に軽くその報いを受けることです。その修行が御本尊様に勤行唱題することになり、過去世の謗法による重い罪も軽く受けて消滅させることが出来ます。日蓮大聖人は『経王殿御返事』に、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書685)
と仰せであります。この御指南は、曼荼羅の御本尊様に日蓮大聖人の命である魂を、墨に染め流して書かれた御本尊様であるので疑うことなく信じ、御題目を唱えれば「転重軽受」の功徳を頂くことが出来るという有り難い御指南です。
「転重軽受」の語源は、釈尊が一日一夜にして説かれた、涅槃経に由来します。「有智の人は智慧の力をもって、能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚癡の人は現世の軽業を地獄に重く受く」という意味の経文に依ります。
時として信心をしているにも関わらず、様々な難にあう場合があります。これは、私達の記憶にない生まれてくる前、過去世の法華経誹謗という、謗法行為の罪障が出たのであり、本来信心をしていなければもっと悲惨な状態になるものが、御本尊様を受持し信心したおかげで軽く罪障が出たと考えるべきです。それが「転重軽受」です。
見方をかえた場合、御本尊様を信じなかったらもっと悲惨な状態になっていたということです。信心をし御本尊様を受持して、難にあった場合は、御本尊様に過去世の謗法による重罪を転じて、軽く受けさせて頂いたことを感謝する必要があります。更に御本尊様を持っていなかったら、もっと最悪な苦しい現実を体験しなければならなかったことを肝に銘じることです。
この転重軽受を御本尊様から頂くことで、信心を深め日蓮大聖人の御精神に近づくことが出来ます。つまり境界が高くなり非常に有り難いことです。勤行唱題するところに過去世の罪障を御本尊様に取り除いていただき、六根清浄の功徳を得る過程でなされる大事なことが「転重軽受」です。
人は生きていく時、知識が必要です。知識がなければ生きることは出来ません。人は本能的に無意識のうちに学んで知識を身に付けています。これを身に付けよう、あれを身に付けようと、その都度、確認をして知識を身に付けることは少ない方です。興味のあるものには、直ぐに飛びつく性質を持っているのが人間です。本能的に行うところが多いことでしょう。ここがまた危険なところであり、注意しなければいけません。この本能的な部分を有効に活用すれば、勉強は苦になりませんが、現実問題として難しい面があります。また善悪を識別しない知識には、人道から脱線する可能性があります。
日蓮正宗の信心は、この善悪の知識を正しく判別し、仏様の眼を御本尊様から頂いて現実を冷静に判断し、生活を有効にするよう説かれた教えです。その修行が勤行唱題にあります。知識の中にも「善知識」と「悪知識」があります。『御講聞書』に、
「末法当今に於て悪知識と云ふは、法然・弘法・慈覚・智証等の権人謗法の人々なり。善知識と申すは日蓮等の類の事なり。総じて知識に於て重々之(これ)有り。外護(げご)の知識、同行の知識、実相の知識是なり。所詮実相の知識とは所詮南無妙法蓮華経是なり。知識とは形を知り、心を知るを云ふなり。是即ち色心の二法なり。謗法の色心を捨て法華経の妙境妙智の色心を顕はすべきなり。悪友は謗法の人々なり。善友は日蓮等の類なり云云」(御書1837)
と説かれていますように、仏教においても善知識と悪知識があります。御題目を御本尊様に唱えるところに最高の善知識を得ることが出来ます。謗法の知識が悪知識となり人々の心を迷わす原因になります。悪知識を正して、善知識を教えていく行が折伏です。世の中を混乱させる悪知識は折伏によって消滅させることが出来ます。そのため折伏は重要であります。
世の中には悪知識に心身が汚染された人は多くいます。外見は悪知識に染まっていないようでも、心の方が悪知識に浸かっている人や、心は悪知識に染まっていなくても、周囲の影響で外見が悪知識に浸っている人、心身両面が悪知識にどっぷり浸かっている人と悪知識の汚染のされ方も生活環境や縁する人によって千差万別です。折伏では悪知識の染まり具合を入念に分析することが大切です。
知識も善と悪の判断基準を持ち合わせていませんと非常に危険です。法統相続でも教えることが大事ですし、自分自身にとって迷いや悩みの種になり、三毒強盛となって心身を害する要素を秘めています。『富木殿御返事』に、
「諸の悪人は又善知識なり」(御書584)
と仰せのように、「人の振り見て我が振り直せ」という悪人の言動を真似ないよう、善知識と考えるように御指南です。これも法統相続では必要です。
正しい善悪の知識を判断する基準を得る唯一の場所が、日蓮正宗の寺院です。寺院で行われる永代経や御講の御住職様による御法話を聴聞することで正しい知識を得ることが出来ます。特に仏法における善知識と悪知識といわれる正邪を判別する教えは日蓮正宗以外にはありません。お寺へ参詣して正しい知識を身に付け、生活を安泰にしていきましょう。
『開目抄』に、
「願兼於業(がんけんおごう)と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かた(形)のごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし。当時の責めはたう(堪)べくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり」(御書541)
と「願兼於業」について日蓮大聖人は御教示であります。「願(ねがい)、業を兼(か)ぬ」と読みます。「願兼於業」は四弘誓願(しぐせいがん)における衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)です。世の中には、自ら進んで地獄の苦しみを経験し、その経験を活かして悩み苦しんでいる人達を、救おうという人は非常に稀であります。それが「願兼於業」であります。願兼於業を私達に化儀化法の形で、具体的に大慈大悲の上から御指南下されたのが、宗祖日蓮大聖人であります。
日蓮大聖人は、末法である現代の仏様として、私達が経験する苦悩(四苦八苦)を我が身に全て受けられ、更に様々な大難小難を体験された上から有り難い教えを残されました。文証理証現証という三証から「御書」という書物に残されたのであります。御書が「願兼於業」の御一代記です。この御書を私達の心に刻み、信心に励むところ願兼於業の一分を拝することが出来ます。
信心をしていて、様々な苦難や法難にあう意味には、願兼於業が含まれます。苦難や法難にあうことで、マイナス思考になることなく、信心が更に向上し善知識であるプラス思考と、苦難と法難を考えることが大事です。そして地涌の菩薩という自覚に立ち、苦難を乗り越えるわけであります。人生の苦難と法難で経験したことが、成仏において大切な仏果に結びつきます。
「願兼於業」はプラス思考の眼力を高め、仏様になるための必要不可欠になる修行です。ふつうは好き好んで悪業をつくることを忌み嫌います。信心をしていても、棚ぼた式の御利益主義になりやすいですが、順境に甘んじることなく、更にその順境をあえて退け、願って悪業をつくることが願兼於業です。
過去世においてあらゆる功徳に満足した人は、最終的に他の迷える人を救済しようという願望に変わります。それが「願兼於業」という衆生無辺誓願度です。真の地涌の菩薩における誓願であり願望であります。
『御講聞書』に、
「四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外(ほか)には所詮無きなり」(御書1862)
と仰せでありますように、御題目の南無妙法蓮華経を唱える以外に、苦悩に喘ぐ人々を救うことが出来ません。
信心をして四苦八苦などの苦難を経験し、日蓮正宗の信心をもって克服していくことで苦難に彷徨う、世の中の人達を折伏して救っていくことが出来ます。自他共に幸せになる願いが「願兼於業」です。寺院に御安置されております御本尊様に、御題目を唱えるとき個々の様々な苦難は消滅され、我此土安穏な境遇にかわります。