史報

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東トルキスタン共和国(1)

2009-07-15 13:08:27 | Weblog
いままでろくに勉強してこなかった東トルキスタン共和国について、簡単にノート。

中国研究者は誰も知っているが、一般にはほとんど知られていないのは、新疆ウィグル自治区にはかつて独立国家が短期間樹立されていたことである。それが1933年の「東トルキスタン共和国」である。

新疆は18世紀の乾隆帝の時代に清朝に編入された。「新疆」とは「新しい土地」の意味である。1886年に左宗棠の手で「新疆省」として中国の行政区分なかに繰り込まれ、省主席は漢族官僚がつとめていく。中華民国の成立以降、特に蒋介石の南京国民政府以降、省主席の金樹仁は「改土帰流」を推し進めて土着のムスリム王族の権力を剥奪しはじめる。

この金樹仁政権に対する反感が東トルキスタン共和国の建設につながっていくのだが、この反金樹仁勢力が一枚岩ではないために結局は短期間で終わってしまうことになる。

反金樹仁勢力の第一が、ムスリム王族を中心とした勢力である。これはどちらかというと、清朝以来の伝統的な緩やかな支配への回帰を望む勢力であり、理念もイスラム教による超民族的なものであった。漢族イスラム軍人である馬仲英が深く関わっている。反乱の主力であったにも関わらず、独立国家への動きは必ずしも強くなかった。

第二が、汎トルコ主義を奉じる民族主義の勢力である。彼らは少数勢力で軍事的には弱体であったが、「ウィグル人」の名の下による明確な民族国家の建設を目指した。現中国の少数民族に公的に承認されている「ウィグル」は、これ以前は必ずしも一般的な民族名ではなかった。東トルキスタン共和国の独立の宣言は、この勢力が中心となって布告された。

この共和国は新疆にイスラム王国を設立しようとした馬仲英によって崩壊した。その馬仲英も、新疆省の督弁を務めていた盛世才の軍事力と権謀術数の前に敗れ去った。新疆の反中央勢力も決して一枚岩ではなく、そこに中国の軍人官僚がうまく突け入ることによって、独立は阻止されることになった。馬仲英は1937年ごろに死去し、盛世才は後に「新疆王」と呼ばれるほどの権勢を振るい、1949年に台湾に亡命して1970年まで生きた。

次は、二度目の東トルキスタン共和国について。

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