史報

中国史・現代中国関係のブログ

「蟻族」を生み出した原因(2)

2010-02-03 21:02:41 | Weblog

2 ミクロな原因

(1)家賃が安く、交通が便利であることが「蟻族」形成の客観的原因である。中心地区と近郊地の区画管理措置が次第に及ぶようになるにつれて、移動人口も必然的に周辺の都市郊外(環城)の地区に移っていった。同時に、都市郊外地区の交通が便利で速く、生活コストは低く、開発・利用できる土地が相対的に多く、開発建設速度も速く、起業のチャンスも比較的恵まれ、それに加えてこうした地域が大量に合法・違法に建設された家屋を貸し出していることが、卒業したばかりの大学生が成功するにためにここに留まらせる結果になっていることなどの理由で、勢いここで集団生活を形成することになっているのである。プロジェクトチームが「蟻族」の集団居住が比較的多い昌平区沙河鎮で調査してわかったことは、この村の農業の転制基地(?)は2006年10月に建設が完成し、多くの家屋が建てられ、その主要な建築面積は20平方メートルで、部屋にはキッチン、トイレがあり、建築後はインターネット上で部屋を貸し出す情報が出て、家賃は月200元前後である。割合に家賃のコストが低く、交通が市街地から近く、比較的便利で、居住条件が部分的に大学卒業生の需要に合っていることによって、一定の大学生は北京の各地から来て部屋を借りて住み、「集住村」を生み出しているのである。

(2)集団間のアイデンティティを求めていることは、「蟻族」形成の主観的な原因である。社会に足を踏み入れたばかりの大学卒業生にとって、よく知っている人の集まりというのは比較的大きな安心感を与えるものである。このため、彼らは往々にして卒業以前の先輩や同級生とつながりを保ち、彼らと同じ地域に住むことを希望し、「集住村」を形成している。この時の「集住村」とは相対的に顔を知った者どうしの港のようなものであり、卒業生は疲れきった船を、港に錨を下ろして隠れているわけである。プロジェクトチームが海淀区の唐家嶺の「集住村」を調査・研究してわかったことは、多くの「蟻族」のメンバーは、「集住村」で自らの生活圏と交流圏を形成し、そのサークルの中の人は自らの同級生あるいは同郷人であることであった。

(3)独立した生活環境を求めることが、少ない数の現役学生を「集住村」に居住することの選択に導いている。そのなかには、性格的な欠陥から「集住村」の居住する大学生もいる。こうした学生は、同級生との付き合いが苦手であったり、集団生活になじめなかったりしている。学校の外で部屋を借りて住むことを選択するのは、静かである上に煩わしくないからである。大学生が異なる地域から来ることによって、ルームメイトたちは生活習慣、衛生習慣などの点で何らかの違いが存在しているため、往々にして集団生活のなかで相互に分かり合うことが難しくなっており、さらには矛盾や対立を生み出すことになる。そこで一部の学生は、同級生は「相手にせず避ける」という心理状態を抱き、これを避けて遠ざけ、学校の外で自らに属する生活の天地と自由な空間を作っているのである。

 
 ・・・・・・・・・

 

 
 就職難で大学生が都市に滞留している問題は前々から知られていたところであるが、昨年に廉思という若干30歳の若手研究者による『蟻族』が出版されてから急激にクローズアップされ、中国共産党もこの問題に真剣に取り組むことを宣言するようになり、日本でもほとんど周知の話題になっている。

 いろいろと研究上の制約が多く、実証研究でも色々なものが隠蔽されている印象が拭えない中国だが、この問題については豊富なインタビュー調査など、かなり突っ込んだ研究がなされている印象がある(日本では社会学系の論文の半分くらいがインタビュー調査のような感があるが、中国では比較的珍しい)。廉思自身が共産党の若手エリートであり、問題の深刻さを認識しはじめた党政府が仕掛けたと見たほうがよいかもしれない。

 この文章にも書いてある通り、中国ではこの5年で大学生の数が2倍になって進学率は23%に達している。大学は既に「大衆化」し、90年代以前のようなエリートの養成所では全くなくなっている。しかしながら、大衆化する以前の時代に受験競争に突入した学生のほうは、エリートになるために苦労して大学に入って卒業したという意識が極めて強く、このギャップが様々な問題を引き起こしているのは廉思が述べている通りである。

 しかも、高度成長の真っただ中にも関わらず、企業も大学生にエリートに相応しい職業を提供できていない状況にある。いわゆる「脱工業化」以降の金融資本主義や情報産業の時代においては、企業は情報処理能力の高い少数の優秀なビジネスマンがいれば十分で、学生の大量採用には何のメリットもなくなっている。しかも大学の価値が日本と同様で、就職につながる技能を身につける場所というより、進学・卒業したこと自体の威信・ブランドに置かれている。結果として、特に専門的な技能を身につけたわけでもないごく普通の大学生たちが、大量に就職にあぶれてフリーター化しているわけである。

 大学生の大衆化は、団塊世代が大学に進学した1970年前後の日本にも生じており、それが学生運動の高揚の背景にもなっていた。しかし、当時の日本は高度成長のただ中であっただけではなく、「脱工業化」が本格的にはじまる前の、まだ会計処理も手作業による人海戦術を必要としたような時代であり、企業の大量採用によって学生の大衆化の波をすっぽりと飲み込んでしまった。

 ただ、問題は深刻なことは確かに深刻なのだが、「蟻族」に対して今の日本の若者(というか全世代)に漂っているような、鬱々とした閉塞感はあまり感じない。廉思も述べているように、「蟻族」は未来に対する期待値が大きすぎるところがあり、ある意味で中国社会の活力の強さに伴う問題と言えるだろう。それに、一般世論もこれが個々人ではなく社会の問題であることを十分に認識しており、日本で依然としてはびこっている自己責任論の入り込む余地は全くない。