「中国の民衆は現在の不平等をいかに見ているか」懐黙霆
中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/shwt/P020090619294848598429.pdf
文章来源:《社会学研究》2009年第1期
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3 結論
先の分析が明らかにしているのは、中国の調査対象者は、多くの分析者や中国政府の官僚が考えているようなものとは異なり、現在の不平等の程度が公平かどうかに対して不満を抱いている。逆に、ほかの国の人々と比べると、中国の調査対象者の不平等に対する態度はより積極的なものである。ほかにも、通常の見方と異なるのは、そうした現在の不平等に対して最も不満を持っているのは、中国で最も力の弱い集団ではないことである。農村の住民、特に内陸部の省で都市から離れた場所に住んでいる農民は、どの点においても中国社会における最下層である。多くの人は、彼らが市場改革の中ではるか遠くの、世の中の向こう側に捨て去られ、彼らの利益は様々な市場化の施策によって損害を蒙っていると考えている。・・・・・
しかし、我々の調査結果が明らかにしているのは、現在の不平等の程度やリスク、公平さがどうであるのかという点において、こうした一般的な見方が大きく誤っている、あるいは正確とは言えないということである。全体的に見ると、都市住民の不平等に対する不満のほうが大きく、それはとくに教育程度が比較的高い人と中部の省に住んでいる人、そのなかの中年世代にその傾向がある。逆に、農村住民、とくに都市から遠く離れている農民は、現在の不平等を受け入れる傾向がある。こうした点において、我々は少なくとも農民の「故郷を離れる怒り」(タイム誌の記事―訳者註)を見ることはできなかった。
・・・・・・
注意する必要があるのは、ここで我々が中国の農民が不満の基礎を生み出していないと示唆したいわけではけっしてなく、彼らの不満が主には目の前の不平等がであるかどうか、あるいは公平であるかどうかに由来しているものではない、ということなのである。事実、ここ数年激発している農村の抗議運動の多くは、手続き上の不公正(procedural injustice)によるものであって、分配上の不公正(distributive injustice)によるものではない。たとえばようやく廃止された、最近までずっと存在していた農村の不公平な税負担、周辺の工場に環境汚染を停止させることに対する農民の無力、および農村の土地収用に十分な競技や保証がないこと、などなどである。
同様に、もし我々が主観的な要因を考慮すると、都市はより多くの点で優勢であり、都市住民の生活水準も農村に比べてより速く高くなっているにも関わらず、都市住民が不平等に対してより批判的な態度であるのも、決して不思議なことではない。確かに、都市では富を得る機会は農村に比べてより多いが、都市の住民も失業、社会福利の減少、収入減少といった問題に直面している。これは都市住民に、農民とは異なり、「何も失うべきものはなく、ただ上に動くことだけが可能である」という感覚を持ち得ないようにしている。1990年代中期にはじまった国有企業改革が非常に多くの人に「鉄飯碗(食いはぐれのない職業)」を放棄させたことのほかに、都市の住民はさらに市場経済改革のリスクに直接目撃することになっており、多くの新しく出現した「暴富」階層および彼らの奢侈的な生活スタイルも見ている。前者は自己の改革の中の苦しみやもがきであるが、後者は急速に裕福になった人が都市住民の視野に入ってくる――このことすべてが、都市住民に農民と比較を通じて慰めを得るということを不可能にしているのである。この意味において、過去や身の回りの人と比較しても、農民は現在の不平等に対して用意に受け容れるのであり、このような比較は別の面においては、相当な部分かえって都市住民に不満を抱かせる可能性を持つものにもなっているのである。
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再び中国社会学網の論文。論文は読みやすい&訳しやすいから、あまり中国語の勉強にならないのだけど。
都市という平等的・競争的な空間ほど、不平等に対する不満が蓄積されやすい。農村の住民のように、最初から格差が圧倒的であったり、形式的・制度的な平等への規範が弱い社会では、そもそも不平等への不満が沸き起こりにくい。これは、トクヴィル以来指摘されてきた、「古くて新しい」問題であると言えるだろう。日本でも、中間層(特に団塊世代の旧中間層)のほうに不平等感が強く、昨今話題の「ワーキングプア」などは、「格差社会」の現実を受容する態度があると言われているが、おそらくこれと似たようなところがある。
しかしそれでも、中国はあくまで全体が上昇しているなかでの不平等感であり、有形無形のインフォーマルな「人情(レンチン)」や「関係(グワンシ)」が根強く、それが社会的な不満を全体として緩和しているところがある。不平等感も、今のところは全体として上昇志向の源泉になっていると言える。農民に不平等感が低いのも、半分以上は生活水準の上昇体験によるものであろう。
日本の場合は経済全体が縮小・停滞しているだけではなく、中国のような「人情」「関係」もなくて個人が孤立化しているため、不平等感が足の引っ張り合いになっているところがある。中国では貧困者を救うという認識が最低限共有されているが、日本では貧困運動へのバッシングが相当根強いものがある(日本の貧困者に対する冷淡さは世界の中でも際立っている)。
日本では、目立った群衆デモや犯罪もない一方で、社会の雰囲気がどこか殺伐として陰鬱である。日本にいるとなかなか気がつかないが、たまに中国に行って帰ってくると日本社会の雰囲気の特異性を強く感じる。
中国社会学網
http://www.sociology.cass.cn/shxw/shwt/P020090619294848598429.pdf
文章来源:《社会学研究》2009年第1期
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3 結論
先の分析が明らかにしているのは、中国の調査対象者は、多くの分析者や中国政府の官僚が考えているようなものとは異なり、現在の不平等の程度が公平かどうかに対して不満を抱いている。逆に、ほかの国の人々と比べると、中国の調査対象者の不平等に対する態度はより積極的なものである。ほかにも、通常の見方と異なるのは、そうした現在の不平等に対して最も不満を持っているのは、中国で最も力の弱い集団ではないことである。農村の住民、特に内陸部の省で都市から離れた場所に住んでいる農民は、どの点においても中国社会における最下層である。多くの人は、彼らが市場改革の中ではるか遠くの、世の中の向こう側に捨て去られ、彼らの利益は様々な市場化の施策によって損害を蒙っていると考えている。・・・・・
しかし、我々の調査結果が明らかにしているのは、現在の不平等の程度やリスク、公平さがどうであるのかという点において、こうした一般的な見方が大きく誤っている、あるいは正確とは言えないということである。全体的に見ると、都市住民の不平等に対する不満のほうが大きく、それはとくに教育程度が比較的高い人と中部の省に住んでいる人、そのなかの中年世代にその傾向がある。逆に、農村住民、とくに都市から遠く離れている農民は、現在の不平等を受け入れる傾向がある。こうした点において、我々は少なくとも農民の「故郷を離れる怒り」(タイム誌の記事―訳者註)を見ることはできなかった。
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注意する必要があるのは、ここで我々が中国の農民が不満の基礎を生み出していないと示唆したいわけではけっしてなく、彼らの不満が主には目の前の不平等がであるかどうか、あるいは公平であるかどうかに由来しているものではない、ということなのである。事実、ここ数年激発している農村の抗議運動の多くは、手続き上の不公正(procedural injustice)によるものであって、分配上の不公正(distributive injustice)によるものではない。たとえばようやく廃止された、最近までずっと存在していた農村の不公平な税負担、周辺の工場に環境汚染を停止させることに対する農民の無力、および農村の土地収用に十分な競技や保証がないこと、などなどである。
同様に、もし我々が主観的な要因を考慮すると、都市はより多くの点で優勢であり、都市住民の生活水準も農村に比べてより速く高くなっているにも関わらず、都市住民が不平等に対してより批判的な態度であるのも、決して不思議なことではない。確かに、都市では富を得る機会は農村に比べてより多いが、都市の住民も失業、社会福利の減少、収入減少といった問題に直面している。これは都市住民に、農民とは異なり、「何も失うべきものはなく、ただ上に動くことだけが可能である」という感覚を持ち得ないようにしている。1990年代中期にはじまった国有企業改革が非常に多くの人に「鉄飯碗(食いはぐれのない職業)」を放棄させたことのほかに、都市の住民はさらに市場経済改革のリスクに直接目撃することになっており、多くの新しく出現した「暴富」階層および彼らの奢侈的な生活スタイルも見ている。前者は自己の改革の中の苦しみやもがきであるが、後者は急速に裕福になった人が都市住民の視野に入ってくる――このことすべてが、都市住民に農民と比較を通じて慰めを得るということを不可能にしているのである。この意味において、過去や身の回りの人と比較しても、農民は現在の不平等に対して用意に受け容れるのであり、このような比較は別の面においては、相当な部分かえって都市住民に不満を抱かせる可能性を持つものにもなっているのである。
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再び中国社会学網の論文。論文は読みやすい&訳しやすいから、あまり中国語の勉強にならないのだけど。
都市という平等的・競争的な空間ほど、不平等に対する不満が蓄積されやすい。農村の住民のように、最初から格差が圧倒的であったり、形式的・制度的な平等への規範が弱い社会では、そもそも不平等への不満が沸き起こりにくい。これは、トクヴィル以来指摘されてきた、「古くて新しい」問題であると言えるだろう。日本でも、中間層(特に団塊世代の旧中間層)のほうに不平等感が強く、昨今話題の「ワーキングプア」などは、「格差社会」の現実を受容する態度があると言われているが、おそらくこれと似たようなところがある。
しかしそれでも、中国はあくまで全体が上昇しているなかでの不平等感であり、有形無形のインフォーマルな「人情(レンチン)」や「関係(グワンシ)」が根強く、それが社会的な不満を全体として緩和しているところがある。不平等感も、今のところは全体として上昇志向の源泉になっていると言える。農民に不平等感が低いのも、半分以上は生活水準の上昇体験によるものであろう。
日本の場合は経済全体が縮小・停滞しているだけではなく、中国のような「人情」「関係」もなくて個人が孤立化しているため、不平等感が足の引っ張り合いになっているところがある。中国では貧困者を救うという認識が最低限共有されているが、日本では貧困運動へのバッシングが相当根強いものがある(日本の貧困者に対する冷淡さは世界の中でも際立っている)。
日本では、目立った群衆デモや犯罪もない一方で、社会の雰囲気がどこか殺伐として陰鬱である。日本にいるとなかなか気がつかないが、たまに中国に行って帰ってくると日本社会の雰囲気の特異性を強く感じる。