ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

家族と社会

2010-02-25 | パパ
日頃の子育てによる疲れのせいか、先週彼女が熱を出してダウンしてしまった。僕もどうしても仕事を外せなかったので、近くにすむ母親に急遽お願いして、渉一を散歩に連れ出したりと一日面倒を見てもらった。
こんなとき、気兼ねなく頼むことのできる親類が近くにいる環境というものは家族にとって非常に大事だなと感じた。
しかし、現実の社会に目を転じると、何らかの事情で都市での生活を余儀なくされ、家族だけで社会に立ち向かわなければならない家族が多く存在するのも確かだ。
「親切」が「お節介」と受け取られ、「共生」が「面倒」にすりかえられる風潮にあって社会のコミュニティは希薄化し、家族はますます孤立化していく。
一昔まえは、家族の中で済ませていたいろいろな「コト」は、お金を払って外部に委託し済ませてしまう「モノ」へと追いやられるなかで、家族の機能はどんどん社会へと分化していく。機能を奪われ孤立化していく家族は、もはや日本の伝統や文化を次の世代に継承する社会の装置ではなくなった。すべてを学校教育に押し付ける親、死の場面が家から病院に移されることによる死の忘却と生への無関心、老人の孤独死、怒る前にきれてしまう若者の増加は、すべてその反動といえるかもしれない。

ドイツの社会学者フェルディナント・テンニース は人間社会が工業化、近代化するにつれて、地縁や血縁、友情で深く結びついた伝統的社会形態である「ゲマインシャフト」は会社や都会の欲望によって結びついた関係が支配している社会形態「ゲゼルシャフト」へと変遷していくと考えた。

社会がどんどん便利になることで、わずらわしい関係を迂回しても見かけ上は、生きていくうえでなんら困ることはないようにみえる。しかし、時とともに、本当に大事なものまでが、周りからなくなってしまうことになる。そのことに気づき、もとに戻ろうとしても、そこには帰る場所がもはやないのである。迂回と思っていたものが実は、崩壊という痛みをともなう欲望への道だったのだ。
近代化の終着点まできてしまった現代人は、「ゲゼルシャフト」から「ゲマインシャフト」への回帰を望んでいる。そのためには、崩壊したものの意義を考え、再構築しながら前に進んでいくしかないように思う。