今年は昭和で数えれば90年、世の中何もかも変わってしまいました。
この上ない便利なのは良いのですが、何でもスマホに撮り、瞬時に動画アップ、
本当に人々が望んでいるのでしょうか。
大きなお世話のような「便利」もあるような気がしてなりません。
個人的に16年前頃からどっぷりとハマってしまった、パソコンとネット社会。
私、ここ数年前から、拍車を掛けてえらい勉強家になっています。
中学生の頃からこれだけ勉強しておけば人生変わっていたのではと思うほど。
別に書物がその代わりだったんだから、本で勉強すれば同じことだったのですが、
大の読書嫌いでバカまっしぐらになってしまいました。
今、挽回に入ろうと日々努力をいたしておりますが、ウルトラマンのように
「ピコーン、ピコーン」と鳴り始め、「もう残り時間は少ないよ」と警告
されているようです。
前にも一度勉強しかかったのですが、自分が生まれる前のことなので、
分からないことが多く、父母は早々亡くなっていて、直接教えてくださる方が
いません。父と一緒に暮らしたのは15~6年間、母とは約40年間、父の訃報は
担任が伊丹先生の時、授業は「ショウジョウバエ」の研究家中村先生の時でした。
中村先生が私を廊下に連れ出し、小声で「お父さんが・・・・早く帰りなさい・・・」
と知らせてくれて、足早に時々ハンカチで涙を拭いながら、長谷通りから
堀端の正春堂という武道具屋さんの前、常葉学園の前、マルトパン、精華学園の前
を通り、当時鷹匠2丁目だった我が家に辿り着きました。
私の家は
引揚者で父は復員兵、東条英機 に似た風貌で「鷹匠町の東条さん」
と呼ばれていたそうです。
むしろ風化させて知らなかったことにしておけばよかったものを、
「イスラム国」の一件で、そこまでの経緯は違うものの「満州国」に再び興味が沸き、
ネットを使えば父母も戦前生まれの兄姉は仕方が無いが、戦後生まれの
私を入れ残る3人には絶対に伝えようとしなかった、戦争の悲惨さ
凄惨さを大雑把に捉えることができるのではと、パソコンに向かいました。
日本の進撃に関わりがあった、東南アジアの国々の眉唾な作り事のような
話も知ることになりました。日本軍の「イスラム国」など比べ物にならない
残酷さ、これらは戦争と言う非常事態の中、人間を狂人にさせてしまい
殺戮の「善」も「悪」も判別がつかない状況の中で起こりえたことなので
何も申し上げられません。
母は平成元年に80幾つかで亡くなりましたが、それより10年ぐらい前頃から
ポツリポツリと引き上げる少し前のあたりのことを話してくれるようになりました。
「どこの家にも子供が沢山いて、全員は連れて帰れないので、満人に売ったんだよ、
満人は日本人は頭がいいから是非売ってくれと押し寄せてきた。それで
竹薮のあちらこちらで家族が大きな声で泣きながら抱き合って別れを惜しんで
本当にあんなに可哀想なことは無かった。」
そして、こんな話も・・・・
「日本の敗戦が決まった後、ロシア軍が攻めてきて、町中を戦車で
走り回るんだけど、満人達を平気でひき殺してくんだよ、夜はロシア兵が
ウオッカをラッパ飲みしながら、丸太んぼうに仕留めた虎を吊るし、大きな声で
歌を歌いながら歩いてるんだ、恐かったよ~~」
さらに、あまりにも人口が増えすぎた対策として、満人は些細な犯罪でも
即刻斬首処刑となり、自ら自分が埋められる穴を掘り、その前に正座させられ
日本兵は職務として淡々とその作業をこなしていったそうです。
「お父さんもやらされたと思うよ、何も言わなかったけど、昼間
何かあったな?という日は必ず大きな声で魘されるからわかる。」
もうこんなことを教え伝えてくれる方々は生きていても100歳を越えてしまい、
その生々しい話を少しだけ聞いた私もこの歳ですから、次の世代に
伝えるべきか、パソコンにお願いするか、もう忘れてしまおうかと
思っていた時の「イスラム国」事件でした。日本が70年も前に卒業してきた
ことがまだ繰り返されているということです。
やはり、ネットで見つけたものですが、確かご自身も引揚者だったと
思いますが、左翼の作家・森村誠一さんの「夕映えの殺意」に描写されています。
森村さんの小説の前の一説は引用です。
大日本帝国は満州(中国東北部)の農民から、土地を安い金額で半強制的に同意させ
買収しました。このため敗戦後現地の中国人から、残忍な仕返しを受けます。
日本の入植者の中には、半強制的に安い値段で取り上げた土地だという事を
知らない人もいました。 また自力で荒地を開拓して入植した方々もおられた事を、
日本人の名誉のために付け加えておきます。
しかし満州国崩壊後は、荒地を開拓した日本の入植者たちも、
中国人たちに殺されています。
「(だまして)武装解除させた裸の開拓民に(中国人の)暴徒は襲いかかった。
石を投げ、木槍で渡り合う抵抗も束の間、押し寄せる暴徒の前にもみ
潰(つぶ)された。 暴徒は無抵抗の女子供の区別なく、
まるでニワトリでも絞めるように殺していった。
鎌が草でも刈るように子供の首を切り落とす。鉈(なた)が女の頭に振り下ろされる。
あまりに突きまくったために先端が丸くなった木槍を、今度は棍棒(こんぼう)にして
振り回している暴徒。 いずれも返り血に染まって、まさに悪鬼のようであった。
虐殺の後には根こそぎの掠奪(りゃくだつ)が始まった。
(逃げ出した日本人たちは、中国人暴徒の執拗な追撃に)とても逃げ切れられないから、
ここでみんな自決しようということに決まった。
せめて死体を辱(はずかし)められないように、女たちは川の中で死ぬことにした。
家族に死ぬための時間を稼いでやるために、男たちは最後の力を振り絞って、
暴徒に抵抗した。 その間、幼な児たちは母親によって首を絞められて川に
投げ込まれた。子供たちも、泳げないように後ろ手に縛って次々に川へ放り込んだ。
子供の始末をつけた女や老人たちが、子供の後を追って川へ飛び込んだ。
その女を追って、暴徒が川の中まで入り込み、陵辱(りょうじょく)するために
岸に引きずり上げようとする。 彼らの流す血の色によって川水は赤く染まった。
この世の眺めではなかった」
森村誠一著「夕映えの殺意」より抜粋
この日本人開拓民の悲劇を、どのように感じますか?
さらに、便利なウィキペディアやネット検索が歴史の授業に出てこなかったと思う
こんな事件
、「敦化事件(とんかじけん)」をも知ってしまうことに
なりました。記憶がないですね。やはりあの国は信用できないわ。
本日の記事はかなりマジになっていますが、途中何度も込み上げる
ものがあり、書けなくなってしまうことがありました。
最後に、満州国とは。(←クリックで)
北街道の現在駿府町(当時追手町)と呼ばれている、駿府城の
外堀を埋めてできた商店街は、当時「大陸マーケット」と呼ばれていました。
中国大陸からの引揚者たちが住まわせてもらい、今日に至っております。
今年81歳になった私の兄は、小学校6年時に引き揚げてきましたから、満州の
風と土の匂いを嗅いできて、それを語れる残り少ない日本人の1人かもしれません。