2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

資本主義には寿命がある

2009年06月05日 | 資本主義の行くところ
資本主義は必ず行き詰る。

資本主義というのは、各自の才覚を使って自由な競争をして、自分の所に富を集める活動だ。

富と言うと、お金だと思うかもしれないけど、お金は人間が発明したバーチャルな物で、本物の富ではない。

本物の富は、地球の資源や、作物を生産する土地だ。

人間はエネルギーと食べ物があって生きられるので、お金は食べられない。

だから、どういうことかと言うと、現在は資本主義を求める人間が限りなく増え続けているので、地球上にある富は奪い合いによって分配されるのだけど、人が多ければ分け前は少なくなるのだ。

地球上の富(資源)は、人間の活動で増やせると思っているかもしれないけど、人間が活動すると増えるのではなくて減っていくのだ。

例えば、人間が増えると、家を造って住むのだけど、人間が土地に道を造り建物をびっしり建ててしまうと作物を作る土地は減ってしまうのだ。

でも、社会資本と称して、その人工の構造物にお金の価値をつけて、人間は財産を持っていると思っている。

仮想的に地球上が全部人間の家になって、作物を作るところがなくなった場合でも、人間の認識ではお金の価値として莫大なものが地上にあるということになるのだ。

日本などは小さいのだから、シュミレーションしやすいのではないだろうか。

人口の減少を恐れて少子化対策をしているし、住宅建築会社は毎年新しい家を造って売り続けている。

小さい日本の中で、どんどん人口を増やして、家を造りつづけ、お墓も増え続けたら、人口は5億人くらいになり、家は3億件くらいになり、木がはえているところや田んぼや畑はすごく少なくなっているかもしれない。

資本主義というのは成長しなければいけないらしいから、活動をどんどん進めて拡大していくと、極端だけどそうなるのではないか?




資本主義の活動と言うのは、もともとは誰のものでもない地球の無料の資源を掘った人が手間賃としてお金に変えて、それを買って運んだ人がまた手間賃と儲けとしてお金に換えて、それを買って製品にした人がまた儲けを加えてお金に換えて、と、人が活動するごとにお金に換えていき、最後に消費してなくなったり、ごみに変わったりするという活動なわけなのだ。

だから、簡単な話では地球の資源がなくなったら、資本主義の活動はできなくなるということになる。

石油が発見されるまでは、地球の一番大きな資源は森であったのだ。

古代文明が栄えたところというのは、大きな川の河口近くで、肥沃な土地だったからと、歴史などでは習ったけど、それに加えて大きな森が広がっていたのだ。

人間は森を切り開いて、畑を作り、木を燃料として燃やし、街を作りして繁栄したが、やがてその文明は滅んだ。

どうして滅んだのかというと、森がなくなり砂漠化したからだという。

現在のヨーロッパ、フランスやドイツなど、食料自給率も高くて、ほとんどが緑の畑になているが、元はほとんどが森だった。

森は開かれて土地は人間が利用するようになった。

このまま、石油が発見されなかったら、ヨーロッパでも燃料は牛の糞だったかもしれないのだ。

森を失うと文明も失われるはずだったのだ。

太平洋の真ん中にある、モアイで有名なイースター島は、森を失って人間がほとんど全滅に近いところまで死んでしまった島である。

イースター島の滅亡の仕組みは資本主義活動のはてではなく、部族間の争いなのだけど、森がなくなり人口が増えたことが原因なのは変わらない。

昔のイースター島の人口は最大で2万人にもなったらしいが、大海の孤島だったから、増えた人口の脱出先は無かった。

地球はイースター島よりは大きいけど、人口が増えて地球人全員を養えなくなった時、現在のところ脱出するところはまだ無いのだ。

森が無くなり、石油が無くなり、代替エネルギーの確保が間に合わなかった時、地球の人口がどれくらいになっているのかは分からないが、資本主義は終わって、同時に人類の歴史も終わるのかもしれない。



拡大しない資本主義、エネルギーと食料を自給して去年と同じ暮らしをする資本主義、人口を増やさない資本主義、あまり競争しない資本主義というようなものを考えないといけないのではないか、と思う。

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