★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

御目を御覧でざりしこそいといみじかりし

2023-11-18 23:13:30 | 文学


院にならせたまひて、御目を御覧でざりしこそいといみじかりしか。こと人の見奉るには、いささか 変らせたまふ事おはしまさざりければ、そらごとのやうにぞおはしましける。御まなこなども、いと きよらかにおはしましける。いかなるをりにか、時々は御覧ずる時もありけり。「御簾のあみ緒の見ゆる」 なども仰せられて、一品の宮ののぼらせたまひけるに、弁の乳母の御供の候ふが、さしぐしを左 にさされたりければ、「あゆを、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかに かなしうし奉らせたまひて、御ぐしのいとをかしげにおはしますを、さぐり申させたまひて、「かく美しく おはする御かみを、え見ぬこそ、心うくくちをしけれ」とて、ほろほろと泣かせたまひけるこそ、あはれにはべれ。

「大鏡」の前の「栄華物語」が「源氏物語」の影響下にあるのはみんな習うことなんだが、これはほんと含蓄ある事態である。歴史こそ物語のパロディになることがある。イスラエルが行っていることは、現実の行為の反復であるが、物語の真面目な戯画化であって、それが自然に感じられてしまう教育によって成立しているに違いない。「源氏物語」が用いられた教育だって行われたのかも知れない。「源氏物語」が時代を終わらせたのかも知れないのは、そういう意味である。そしてその終わりが現実となっている段階では、その反復である物語はおもしろくなくてよい。実際、「大鏡」となるとあまり作品としてはおもしろくなくなっているような気がする。おそらくその必要がなかったのだ。

昨日と今日、空をみあげていると、下手なSF映画よりもすごく終末感が出ていた。わたしも映画を見過ぎているようだ。われわれはいつも自らが見ている世界に不信感があり、眼が見えないほうがよく見えるなどと考えるひともでてくる。「大鏡」の作者は、陰謀を目で見たわけではない。その意味で、みえない陰謀とそれによって出家させられた院は同じ闇に沈んでいる。