これやこのあまの羽衣むべしこそ 君がみけしとたてまつりけれ
秋やくるつゆやまがふとおもふまで あるは涙のふるにぞありける
友が妻に去られ(出家されたのである)しょんぼりしているのでかわいそうに思った昔男が、歌とともに夜具などを送った。その友が感謝のあまり二連発も歌ってしまったのが、上である。
よくこの友だちを素朴ないい人と解するのであるが、――確かに、尼と天をかけてしまうところや、秋が来たの?露と見違えるほど私の涙が降りすぎで袖が濡れすぎですよ、とか、喜んでいる割には意外と平静なレトリックで、まさに「いい人」である気がしないでもない。とはいえ、――日本では、こういう人がいい人だということになっているが、どうも、この友は、いい人の演技をしているような気がする。妻に去られ、夜具を送られた人間が果たしてこんなに素朴な反応を示すであろうか。わたくしは、掛詞をはじめとする技巧が本心を隠してしまっていると思うのであるが、それにくらべると、「君がみけしとたてまつりけれ」(あなたがお召し物としておつけになっていたのだからっ)というところに素朴さが見られるような気がする。なぜかと言えば、これは次の場面に展開しかねないからだ。
時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
俵万智は、この段について、贈り物よりも歌が彼を元気づけたに違いない、と述べていた。そうかもしれない。だから二発も歌ってしまったのだ。断じてそうであるはず、である。
確かに、吉本隆明が「源実朝」のどこかで言っていたように、詩の言葉は長い歴史のなかで素朴な贈答の時代を忘れ、修羅場と化してしまう運命なのかもしれないが、それ以前に、もっと素朴にわれわれの意識を覆い隠す役割をする。ただ、覆い隠される前のものが単純だとは限らない。ロールシャハ・テストを受けた吉本隆明(「吉本隆明の心理を分析する」)が、「女性×」を連発しているからと言って、彼がそういうやつであるとは限らないのと同じである。上の時雄も同じことである――はずである。