福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2008.6.21(土) 「ミクニナゴヤ」で食事のため名古屋に行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、「ミクニナゴヤ」で夕食をとるため、JR名古屋ターミナルの直上に位置

  する、JRセントラルタワーズのホテルタワー53階に行ったことである。

 

8:30博多発のぞみ12号で名古屋に向う

 

JR名古屋駅中央コンコース桜通口の「金の時計」広場

 

この直上に世界一背の高い駅ビル「JRセントラルタワーズ」がある

    

 

JR名古屋駅桜通口から駅前ロータリーを見る

 

JR名古屋ターミナルの直上に位置するJRセントラルタワーズ

 

   左がホテルタワーで地上53F、226m    右がオフィスタワーで地上51F、245m

   タワーズ駐車場は14F、約1,500台収納  

   

   ビルの構造は11FまでのJR名古屋タカシマヤの上に、2Fのレストラン街(タワーズプラザ)

   を乗せ、その上に円筒形のビル、オフィスタワーとホテルタワーを乗せたツイン構造である。

   二つのタワーのエントランスストリートは15階にあり、スカイストリートと呼ばれ、眼下に

   名古屋の街とお城の眺望が拡がる。JR名古屋タカシマヤには東急ハンズ、三省堂書店

   なども入っている。オフィスタワーには勿論、JR東海本社も入っている。ホテルタワーには

   名古屋マリオットアソシアホテルが入っており、今日の夕食はこのホテルの53Fにある

   「ナゴヤミクニ」でとることにしている。

   

   駅ビルとしては、世界最高の245mの高さで「世界一背の高い駅ビル」といわれる。

   延べ面積も 416,565㎡ で、日本一広いビルだそうだ。

 

   1999年竣工、2000年にJR名古屋タカシマヤと名古屋マリオットアソシアホテルが

   オープンし、「複合立体都市」といわれるJRセントラルタワーズが機能を開始したと。

                                                                

                                                                                                    

   JRセントラルタワーズの対面に位置するミッドランドスクエアから太閤通口を見る

  左がJRセントラルタワーズのホテルタワー、 地上53F、226m

  右がJRセントラルタワーズのオフィスタワー、地上51F、245m

 

JRセントラルタワーズの対面に位置するミッドランドスクエアから名古屋城を見る

 

JRセントラルタワーズ案内板

 

JRセントラルタワーズのタワーズプラザの山本屋総本家で味噌煮込みうどんの昼食をとる

 

JRセントラルタワーズ15F   名古屋マリオットアソシアホテルのロビー入口

 

JRセントラルタワーズ15F   名古屋マリオットアソシアホテルのロビーで

 

名古屋マリオットアソシアホテルの25Fの部屋からミッドランドスクエアを見る

 

      ミッドランドスクエア(豊田・毎日ビルディング)は地下6階、地上47階、高さ247mで

      ミッドランドスクエアの竣工は2006年9月で、1999年竣工のJRセントラルタワーズの

      オフィスタワーの高さ245mを抜いて名古屋一高いビルとなった。

 

                                                                                      

名古屋マリオットアソシアホテル53Fの「ミクニナゴヤ」

 

   オードブルを盛る大きな皿のなんと豪華で美しいことか。調理していない食べられるか

   食べられないか分からない装飾モノは皿の上に一切出なかったことには感心した。 

   十数種のチーズとケーキのワゴンサービスを受けたが、かってに遠慮してか、少なめに

   チョイスしたことが悔やまれる。それだけチーズとケーキと紅茶も美味しかったということか。

 

今夜の「ミクニナゴヤ」のメニュー

 

「ミクニナゴヤ」で

 

「ミクニナゴヤ」で


2008.6.14(土) 佐賀県有田のチャイナオンザパーク

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、孫に会いに行く途中に立ち寄った、佐賀県西有田町の深川製磁の

   工場内にあるチャイナオンザパークである。チャイナオンザパークは深川製磁の展示館、

   アウトレット館、レストラン、ラベンダーガーデン等から成っている。

深川製磁作品展示館  「忠次館」

    深川製磁の初代、深川忠次は1900年のパリ万国博に大花瓶を出品し、金賞を受賞。

    忠次の作品から現在までの作品を同時に展示している。

    深川製磁の磁器は山マーク(富士に雲)のブランドマークで知られている。透きとおる

    ような青色の染付けは「フカガワブルー」と呼ばれ有名だ。

レストラン 究林登(クリント)

カレーライスの昼食をとる   ここで使われていた楕円形の中皿を記念に求めた

忠次館前からチャイナオンザパークを見る

前方に有田の歴史と文化の森公園と、ほのお博記念堂が見える


2008.5.17(土) 福岡市南区大橋界隈を行く

2011-09-29 | 日記・エッセイ・コラム

    今日の街角風景は、親しい者と会食するため福岡市南区大橋界隈に行ったことである。

正面が西鉄大橋駅東口

西鉄大橋駅前を右折する

日赤通りを北上し、福岡市南区役所前にでる

今日の会食場所の駐車場     すぐ左手が福岡市南区役所

木曽路大橋店にて

白色のノイバラと紅色のミクロフィラ(サルビアの仲間)

ノイバラ   野茨(のいばら)        バラ科

      道の辺(べ)の 荊(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の

            からまる君を 別(はか)れか行かむ        

         右の一首は、天羽(あまは)郡の上丁丈部鳥(はせつかべのとり)のなり。  

                                      万葉集巻第20-4352

      万葉時代にノイバラは、荊(うまら)(宇万良)と呼ばれていたという。

      天羽(あまは)郡とは、千葉県君津郡の南部にあたるという。

      丈部鳥(はせつかべのとり)については、伝未詳とのこと。

              大意 ; 道のほとりのイバラの先に這いつく豆の枝のように、からまるあなたに

            別れて行くのであろうか。    (岩波日本古典文学大系7 万葉集)

シンピジウム

シンピジウム

シンピジウム


2008.4.27(日) 諫早に本明川を見る

2011-09-29 | 旅行記

   今日の街角風景は、親戚の法事の会食をした料理屋「魚莊」から見た長崎県諌早市を流れる

   本明川(ほんみょうがわ)の風景である。

   諫早市(いさはやし)は長崎県の中央部にあって、人口は14万人を越える長崎県第3の人口

   を有する都市である。

   2005年3月1日に北高木郡飯盛町、森山町、高木町、小長井町および西彼杵郡多良見町

   と合併し、人口14万都市となった。これによって、かって諫早市も属していた北高木郡は所

   属する自治体がなくなり、消滅した。

長崎県の多良山系に源を発する本明川(ほんみょうがわ)が諫早の市街地に入ってきた。

右岸(写真で左側)側は永昌(えいしょう)東町、左岸側は天満町、直近の橋は四面橋だ。

     昭和32年7月25日にこの地を襲った集中豪雨により起こった、本明川の大洪水は

     諫早大水害と呼ばれ、539名の人命を奪った。僕はこのとき高校1年で長崎にいて、

     忘れることのできない諫早大水害を知ったのだ。     

     この時の現地情報はアマチュア無線に頼るしかなかったといわれる。

JR諫早駅は右岸(写真の左側)にあって、それと並行する形で本明川は南下する

本明川が左にカーブして東行する辺り

  カーブしている向こう岸は天満町で旧諫早街道が通る歓楽街

諫早の市街地を東に流れ下る本明川   左岸側が城見町、右岸側が高城町

   右岸側の小山は高城址で今は諫早公園となっている。この諫早公園に、国指定重要文化

   財の眼鏡橋(天保9年(1838)5月起工、翌年8月完工の石橋)が移築、保存されている。

   かっては向こうの方の橋の近くに天保10年(1839)架橋の石橋・眼鏡橋があった。諫早

   大水害の時、本明川に架かるこの眼鏡橋が頑丈であったため、流失せず、流木等をせき

   止めて洪水の被害を拡大したのではないかとも言われている。

諫早の市街地を東に流れ下る本明川はやがて有明海にでる。

右岸側の小山は高城址(あるいは亀城址)で諫早公園となっている。

   諫早家の始祖 龍造寺家晴は諫早2万6200石で召抱えられた佐賀鍋島藩(37万7千石)

   の陪臣である。家督を継いだ龍造寺直孝は本藩に従属し、御親類同格とされていることに

   鑑み、龍造寺の姓を改め、伊佐早の地名からこれを縮めたを諫早とし、地名も諫早とした。

   諫早家は本藩より命ぜられた諸役の他に、長崎の警備を分担し、長崎街道を往来する長崎

   奉行などの公用の旅行者に宿舎や人馬を提供した。


2008.3.28(金) 対馬紀行・対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、対馬空港から浅茅(あそう)湾を見て福岡に向う風景である。

  魏志倭人伝に記された対馬の地名が21世紀の今でも毎日使用されている。平成16年3月に

  対馬は島全体が一つになって対馬市が誕生した。そして厳原、美津島、豊玉、峰、上県、

  上対馬などの島の地名も安易に改変されることはなかった。

  民族学者の谷川健一氏は次のように言っておられる。

    地名は単なる記号ではない。日本人の情緒を触発する媒体である。歌枕の多くは地名

    である。この歌枕をたどって芭蕉の「おくのほそ道」の旅はつづけられた。地名はまた、

    「大地に刻まれた百科事典の索引」である。地名は更に「時間の化石」である。・・・と。

万関橋を渡って対馬空港に近づく

       万関橋(まんぜきばし)は、明治33年、日本海軍が艦船の航路として人工的に開削した

   瀬戸に架かる橋で、現在三代目となる。

  対馬空港前から白嶽(しらたけ 519m)を遠望す

対馬空港   ヤブツバキの花が咲いている   対馬は「つばきの島」である

対馬空港売店  さざえと真珠のブローチをお土産に求める

福岡行きのB-737が入ってきた   懐かしいドルフィン号だ

空港を飛び立ち浅茅湾(あそうわん)上空へと上昇する

浅茅湾(あそうわん)

浅茅湾(あそうわん)

   魏志倭人伝のレポーターは、この浅茅湾(あそうわん)に入港し、対馬国を紹介したのでは

   ないかと思えてくる。波静かな浅茅湾(あそうわん)に入れば、安泰であったに相違ない。

浅茅湾(あそうわん)を見て、眼下の対馬空港をあとにする

機は福岡市の大濠公園を見て、福岡空港に着陸する。

これで対馬紀行を終える


2008.3.28(金) 対馬紀行・玄海つつじと豊玉町

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、豊玉町仁位から対馬空港寄りの国道382号線脇の玄海つつじの花と

  豊玉町仁位の中心部の風景である。

  魏志倭人伝に対馬国のことが記載されている。

  始度一海 千余里 至対馬(対海)国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百

 

  余里 土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

  ( 始めて一海を渡り千余里で対馬国に至る。その大官は卑狗(ヒコウ、ひこ、ひく)といい、

   副官は卑奴母離(ヒドボリ、ひなもり)という。居する所は絶島で、およそ四百余里四方で

   ある。土地は山が険しく、深い森が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千戸余りの家

   がある。良田は無く、海産物を食べて自活している。船に乗って南北に行き、商いをして

   穀物を買い入れている。 )

  魏志倭人伝にいう対馬国とは、この地、豊玉町一帯ではなかったろうかと思えてきた。

玄海つつじ

玄海つつじ

玄海つつじ

つつじいけて 其陰に干鱈(ひだら) さく女        芭蕉

ホテルから見た霧立ち昇る豊玉町仁位の森

ホテルから見た豊玉町文化の郷

  公会堂、郷土館、文化会館をもつ公園である。豊玉姫の大きな白い像も建っている。

対馬市豊玉支所庁舎   対馬市議会も入っている

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー

対馬市議会議場の前にあるスーパー    水槽には魚が泳いでいるのだが・・・

長崎県立豊玉高等学校


2008.3.27(木) 対馬紀行・海幸彦、山幸彦の地、豊玉町を行く

2011-09-29 | 旅行記

  今日の街角風景は、海幸彦、山幸彦の伝承をもつ対馬豊玉町仁位の和多都美(わたづみ)

  神社である。

  山幸彦(やまさちひこ)である弟の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、海幸彦(うみ

  さちひこ)である兄の火闌降命(ほのすそりのみこと)の釣針を借りてこれを失い、海岸をさま

  よい歩くうちに塩土老翁(しおつちのおじ)(場所を教える神)に逢い、籠の中にいれられて

  海に沈められる。たちまちに海神宮(わたつみのみや)に至る。と日本書紀にあるという。

  和多都美(わたづみ)神社の主神は山幸彦である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と

  かれが通じて一児を生ませたという豊玉姫命(とよたまひめのみこと)であるという。

  この地を訪れ、一見して厳島神社の原型がここ和多都美(わたづみ)神社にあると思った。

和多都美(わたづみ)神社の海中の鳥居   対馬市豊玉町仁位・浅茅湾(あそうわん)

和多都美(わたづみ)神社の海岸ぎわの鳥居は先の台風で損壊し、新調された

海中の鳥居を背に和多都美(わたづみ)神社正面を見る

  鳥居の先の本殿の左脇まで潮が入ってくる。左に三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそら

  えびす)が見える。

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って右側を流れる川     潮があがってくるはずだ

和多都美(わたづみ)神社本殿参道

和多都美(わたづみ)神社本殿      対馬市豊玉町仁位・宇和宮

和多都美(わたづみ)神社本殿に向って左側にある三柱鳥居と細石(さざれいし)

  この奥に豊玉姫(とよたまひめ)の墳墓といわれるものがあるが、磐座(いわくら)とはこういう

  ものだと思われるような神秘的な場所である。

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   海とつながっており、潮の干満がある、一つの神社に二つの三柱鳥居があるのは極めて

   珍しいというより、全国で唯一ではなかろうか。 

和多都美(わたづみ)神社   三柱鳥居に祀られた磯良恵比須(いそらえびす)

   三柱鳥居に祀られたこの岩は磯良恵比須(いそらえびす)といわれている。背面に鱗状の

   亀裂が見られるこの岩は、今もなお神聖な霊場として祭られている。これを磯良(いそら)の

   墓とした伝説があるが、これは社殿が営まれる以前の古い祭祀における霊座か、それとも

   御神体石だったのではないかと思われる。というようなことが白い案内板にみえる。

   この地は海から社務所のところまで潮が満ちてくる中間にある。いま潮が引いている。

   磯良(いそら)は安曇(あずみ)氏の祖神で神功皇后三韓征途に際し、水先案内をしたという。

   安曇(あずみ)、阿曇(あずみ)、海人(あま)、海部(あまべ)などとさまざまに表記される古代

   の海人族は、古代日本を両分するほどの巨族であったという。 

 

豊玉町仁位(にい)のホテル   ここで念願の対馬名物「いりやき」を食す


2008.3.25(火) 対馬紀行・城下町厳原を行く

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、長崎県対馬市厳原町の武家屋敷跡が残る城下町の風景である。

   12世紀には対馬藩主、宗(そう)氏の始祖・惟宗(これむね)氏が筑前の宗像(むなかた)郡

   から対馬に入国する。対馬守護、地頭であった大宰府の小弐氏の代官として、次第に対馬

   での実権を握って、宗(そう)家の始祖となったという。建久6年(1196)宗家の始祖・惟宗氏

   の名前が対馬の在庁官人のなかに初めて見られるという。

金石(かねいし)城跡    対馬市厳原町金石   清水山の麓

    金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

    (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたって、宗家の居城であった。

    写真の遺構は、平成2年に発見されたものという。

対馬歴史民族資料館の前庭に建つ朝鮮国通信使之碑   右側にヤブツバキの花

   対馬歴史民族資料館は厳原町の中心、今屋敷にある。このすぐ奥に金石城跡の櫓門が

   ある。

韓国旅行団が対馬歴史民族資料館見学に訪れた

朝鮮国通信使之碑の横に建つ珠丸遭難者慰霊塔    厳原町今屋敷

   先の大戦を生き延びた九州郵船の珠丸(たままる)(800トン)(博多~対馬~釜山航路)は

   昭和20年(1945)10月14日、連合軍の航行差止めが解かれて、戦後はじめて対馬から

   博多への航海に出発した。船が壱岐・勝本の北方約16マイルにさしかかった午前9時ごろ

   機雷に触れ爆沈した。乗船名簿によると730名乗船ということであった。

   今なお対馬海峡の海底深く珠丸とともに眠っている方々の慰霊のため建立された。

武家屋敷塀の残る道を行く

 武家屋敷塀の残る道を行く

半井桃水生誕の地

   半井桃水(なからいとうすい)は樋口一葉の小説の師ではあるが、一葉の想われ人として

   知られている。

   半井桃水は万延元年(1860)対馬厳原の生まれ。藩主宗家の御典医の家の長男。東京

   朝日新聞入社、小説記者、代表作に朝鮮半島を舞台にした「胡砂(こざ)吹く風」、「春香伝」

   などがある。大正15年没、享年65

   

   樋口一葉(明治5年(1872)~明治29年(1896)

   一葉日記の明治24年(1891)4月15日の項に、初めて桃水を訪ねた記述に「色いと白く

   面ておだやかに少し笑み給えるさま誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人

   にすぐれて高く肉豊かにこえ給えばまことに見上る様になん」とあるという。

   

   焼き捨てよと妹くにに手渡された一葉の日記は、死後15年を経て公開され、そこに記された

   桃水への尽きぬ思いは多くの人々に衝撃を与えたという。

八幡宮神社

藩校・日新館門    長崎県指定有形文化財・建造物    対馬市厳原町桟原

    元対馬藩主宗氏の中屋敷門であったが、幕末には藩校・日新館に用いられた。江戸末期

    における大名家の格式を備えた武家屋敷門としては長崎県唯一のものである。

    日新館は幕末、対馬勤王党の拠点であったが、藩の内紛によりその多くが憤死して、痛恨

    の歴史を遺したといわれる。

    昭和45年、長崎地裁厳原支部の改築工事に伴い解体・保存していたものを平成4年に

    復元したとのこと。   

藩校・日新館門の前の国道382号線


2008.3.25(火) 対馬紀行・厳原町お船江跡から万松院へ

2011-09-29 | 旅行記

今日の街角風景は、福岡から空路対馬を訪問し昨夜来の雨も上がった対馬市厳原町お船江跡

  から万松院へと続く風景である。

  厳原(いずはら)は鎌倉時代、宗氏が現在の対馬市峰町佐賀から文明18年(1486)に移館

  以来、明治維新まで約380年間の城下町で、府中、府内とよばれ、維新後、厳原(いずはら)

  と改称された。

  

  対馬藩の城下町は対馬国府中、現在の長崎県対馬市厳原町におかれ、金石屋形(かねいし

  やかた)と桟原屋形(さじきはらやかた)の居城があった。

  徳川時代初期の領地石高は、対馬国が無高、肥前基肄(きい)・養父(やぶ)郡が1万石(佐賀

  県田代領)の合計1万石であるが、幕府の朝鮮貿易を任されていたので、対馬藩宗家の格式は

  10万石であったとされるとのことである。文化14年(1817)に肥前松浦郡(佐賀県)、筑前

  怡土(いと)郡(福岡県)、下野安蘇(しもつけあそ)・都賀(つが)(栃木県)の2万石を加増され

  た。

対馬藩お船江跡  長崎県指定文化財  対馬市厳原町久田

対馬藩お船江跡は厳原の南方約2kmにある。久田浦にそそぐ久田川川口に5基の

船着場があり、対馬藩お船屋の跡である。現在の遺構は寛文3年(1663)の造成

という。築堤の石積みは当時の原形を保ち、往時の壮大な規模を窺うことができる。

江戸時代、水辺の藩はその藩船を格納するお船屋を設けていたが遺存例の乏しい

現在、日本近世史上貴重な遺構であるという。今も久田浦に往時の美しい姿を映す。

対馬藩お船江跡    往時の復元船が舫っていた

  対馬名物「かすまき」の菓子店   餡のカステラ巻といったところ

この料理屋で昼食をとる

昼食はサザエ刺身定食  さすが対馬の魚介類は美味しい

西山寺(せいざんじ)

天安元年(857)島分寺が炎上した翌年、国府嶽(こうだけ)の麓に大日堂

を建てたのが大日寺と号するようになり、これがこの寺の起源だといわれる。

永正9年(1512)宗 貞国夫人の菩提寺となったことから、その法号にちなん

で西山寺(せいざんじ)と改めたという。入口の石段、石垣も見事という外ない。

西山寺下の道路から清水山(206m)を望む   厳原中心部の西にある

   森が伐採されて地肌のように見えるところがある。頂上から清水山城の一の丸、二の丸、

   三の丸と通称される城壁や石塁が残る郭(くるわ)跡である。 これらは国の史跡に指定

   されている山城の遺構である。

   豊臣秀吉の朝鮮出兵時の、いわゆる文禄慶長の役の兵站城であった清水山城址である。

   本丸(一の丸)の規模は東西約50m、南北約40mで城内の跡および枡形が残っていると

   いう。二の丸、三の丸の規模もこれに準じるとのことである。

   

清水山城の二の丸、三の丸の遺構   万松院や金石城跡は清水山の麓にある

   朝鮮出兵に際し天正19年(1591)8月、築城令が発せられ肥前の名護屋城、壱岐の勝本

   城とここ対馬の清水山城が築かれた。当時の対馬領主・宗義智が主力となり築城したといわ

   れている。

   清水山城の遺構のなかに秀吉の御座所にあてられた建造物の形跡が判明しないのは真下

   にある金石城を御座所にあて、この清水山城は背後の要塞であったというのが通説とか。

万松院(ばんしょういん)    国指定史跡    対馬市厳原町西里・金石

   元和元年(1615)第20代対馬藩主、宗義成(そうよしなり)が父・義智(よしとし)の菩提を

   弔うために創建し、父の法号に因んで「万松院(ばんしょういん)」としたという。

   万松院の建物は数度の火災により焼失したが、桃山様式を残すこの山門と両側の仁王尊

   のみが、昔の面影を留めているという。

万松院(ばんしょういん) 仁王尊

万松院墓地  百雁木(ひゃくがんぎ)  132段の石段

   万松院の墓地である。桃山様式を残す山門の脇から、百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる

   132段の自然石の大石段を上ったところにある。

金石城(かねいしじょう)跡   清水山の麓、万松院の隣にある

   金石城は享禄元年(1528)宗家第14代将盛が、この地に屋形を造営したもので、桟原

   (さじきはら)に新たな居館ができるまでの約150年間にわたり宗家の居城であった。

   写真の遺構は平成2年に発見されたという。驚きだ。


2008.3.8(土) 伊都国の王都 三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡を行く

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景(2/3)は、福岡県前原市の三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡を行くである。

 三雲・井原遺跡は魏志倭人伝に記された伊都国の王都に比定されている遺跡である。

三雲・井原遺跡は福岡県前原市に在って、遺跡の面積は瑞梅寺川と川原川に挟まれた

約60haの三角地で、その規模は弥生時代最大級という。

前原市(まえばるし)大字三雲(みくも)字寺口(てらぐち)にある前方後円墳

左の森が築山(つきやま)古墳

築山(つきやま)古墳

中国の史書「魏志倭人伝」に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳

築山(つきやま)古墳    前原市(まえばるし)大字三雲(みくも)字寺口(てらぐち)

前方部は北西を向くが、現在前方部、後円部とも一部破壊されている

築山古墳周濠区画復原図

 前方部は北西を向くが、現在前方部、後円部とも一部破壊されている。1974年(昭和49年)の

 調査で、墳丘の全長約60m、後円部の直径約49m、高さ約8m、前方部の長さ約15m、

 幅約25m規模の後円部に比べ前方部が短い、帆立貝式の前方後円墳であるという。斜面には

 葺石(ふきいし)が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていたようで、周濠を含む全長は約150

 mになるという。主体部は未調査だが、周濠から壺形埴輪や円筒埴輪が出土していて、築造は

 四世紀末頃と考えられているようだ。

 この築山古墳の北にある端山(はやま)古墳に後続して築かれたと考えられているという。

 

 築山古墳から雷山(らいざん 955m 左のピーク)を望む

築山古墳の北側に端山(はやま)古墳がある

右端に見えるのが端山(はやま)古墳     左の森は築山古墳

端山(はやま)古墳   やはり前方後円墳である

築山古墳前から東方に高祖山(416m)を望む   この山の向こうは福岡市西区    

前方の田畑一帯が遺跡である

築山古墳前から東方を望む    

前方を右に上ると日向(ひなた)峠で、その向こうは福岡市早良区である

築山古墳前から南方に井原地区と井原山(983m)、雷山(955m)を望む

山の向こうは佐賀県である

築山古墳前から南方に井原地区と井原山(983m)、雷山(955m)を望む

築山古墳前から東南方に井原地区を見る   カチカラスが一羽

今年の土筆は遅い


2008.3.6(木) 雪を見に三瀬トンネルを越える

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、前々夜の雪が残るであろう国道263号線の三瀬トンネルの

佐賀県三瀬村側である。

背振山系の福岡、佐賀県境の国道263号線の三瀬峠は雪のため通行禁止で

あり、峠の下を走る有料の三瀬トンネルを通って佐賀県三瀬村にはいった。

福岡市早良区の石釜地区から背振山系を見る。  この背振山系の右側に三瀬峠がある。

石釜豆腐が有名な福岡市早良区の石釜地区   国道263号を上る

三瀬トンネル佐賀県側

三瀬トンネル佐賀県側休憩所の駐車場

三瀬トンネル佐賀県側休憩所の駐車場

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から三瀬トンネル方向を見る

三瀬村産品販売所から下りの三瀬村中心部に向う国道263号

佐賀県三瀬村の中心部を見る

三瀬の蕎麦や

三瀬の蕎麦やで昼食とした。


2008.2.25(月) 前原市三雲地区から雷山を遠望す

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡県前原市(まえばるし)三雲地区から雷山(らいざん 955m)など

 周囲の風景を遠望したときのものである。

 前原(まえばる)は魏志倭人伝に記された伊都(いと)国であり三雲地区や井原地区は、その

 伊都(いと)国の国原であったに違いない。

三雲地区から南南西の方向に冠雪した背振山系を望む

右方のピークが雷山(らいざん 955m)  

中央やや左奥のピークが井原山(いはらやま 983m)

 柿本人麿が万葉集に詠った「雷岳(いかづちのをか) 万葉仮名で雷之上」、「雷山(いかづち

 やま) 万葉仮名で伊加土山」は、この雷山(らいざん 955m)ではないかとする説がある。

 

 万葉集巻三の雜歌

    天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

  大君は 神にし座(ま)せば 天雲(あまくも)の 雷の上に 廬(いほ)らせるかも

    右、或る本に曰はく、忍壁皇子(おさかべのみこ)に獻(たてまつ)るといへり。

    その歌に曰はく、

    王(おほきみ)は神にし座(ま)せば雲隠(がく)る雷山(いかづちやま)に宮敷きいます

                                           万葉集巻三ー235

  岩波古典文学大系4の万葉集の注釈と大意は次の如し。

  天皇 : 未詳。人麿の作歌だから天武・持統・文武の三帝のうちであろう。持統天皇か。  

  

  雷岳(いかづちのをか) : 奈良県高市郡明日香村雷にある丘。異説がある。

  忍壁皇子(おさかべのみこ) : 忍坂部・刑部とも書く。天武の第九皇子。

  (大意)大君は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりしておいでになることである。

  雷山の頂上近くには天ノ宮として石宝殿があり、中腹には雷(いかづち)神社がある。万葉集

  に詠われた「雷岳(いかづちのをか) 万葉仮名で雷之上」あるいは「雷山(いかづちやま)

  万葉仮名で伊加土山」が、この雷山(らいざん 955m)であるとすれば、標高955mと高く

  似つかわしいなあと思えてくる。

三雲地区より南方に井原地区、そのむこうに井原山のある背振山系を望む

三雲地区より東方に高祖山(たかすやま 416m)を望む

三雲地区より北北西の方向に可也山(かやさん 365m) 別名筑紫富士を望む

土筆   今年は遅いようだ


2008.2.23(土) 春日市を通る新202号線沿いのスーパーに行く

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡市と春日市の境を通る一般国道新202号線沿いのスーパーに

 行った時のものである。

左側の高架は福岡都市高速5号線  春日市須玖北(すくきた)付近

その下は一部供用開始された一般国道202号福岡外環状道路

向こうに背振山系と油山が見える

現在の国道202号線は福岡市の博多駅近くの国道3号線と交わる堅粕一丁目交差点

を起点として祇園(旧国鉄博多駅のところ)、中洲を通る国体道路を通って、唐津市から

佐世保市、長崎県西彼杵半島の西海市を経由して長崎市に至る全長約200キロメートル

の一般国道である。福岡市の東西を貫通する国道202号線は、2010年には一般国道

202号福岡外環状道路として福岡市の南半分をカバーする福岡外環状道路の完成を

待って新しく国道202号として全面供用開始されるとのこと。

食品スーパー

右奥は、まだ工事中の一般国道202号福岡外環状道路

ここで井尻六つ角から春日市に向う県道31号線と交差する

食品スーパー

食品スーパー

食品スーパー

食品スーパーの2階駐車場から背振山(1055m)を望む  


2008.2.14(木) 福岡・那珂川の上流を行く

2011-09-29 | まち歩き

今日の街角風景は、福岡市の中心、中洲を流れる那珂川の上流、福岡県筑紫郡那珂川町の

  市ノ瀬地区を通って国道385号線を南下し、新規開通した東背振トンネル(有料)を通り佐賀県

 の道の駅「吉野ヶ里」に至る風景である。

  このルートの東側には、現在工事中の九州新幹線鹿児島ルートの博多南駅~新鳥栖駅(仮称)

 を結ぶ全長約12キロの筑紫トンネルが貫通しているそうだ。筑紫トンネルは平成14年7月に工事

 を開始し、平成19年12月1日に貫通式を挙げたという。

福岡県筑紫郡那珂川町の市ノ瀬地区を流れる那珂川     この上流域が筑紫耶馬溪

前方の山が九千部山 (くせんぶやま 847m)で、その下を筑紫トンネルが貫通している

    筑前国続風土記(貝原益軒編纂 元禄16年・・1703年に黒田藩主に献上)巻之六

   那珂郡下の 「一瀬(いちのせ)村」の項の冒頭に次のように記されている。

     那珂川の上流にて、是より五箇山へ越所、川瀬ある故に、一瀬といふにや。村は

     高き所にあり。後は山、前は川、向(むかひ)にも山ありて、佳景也。しかれども谷水

     の音常にかまびすし。又此所に一嶽といふ古城あり。・・・・・・

那珂川町の市ノ瀬地区の那珂川端の中ノ島公園駐車場

正面の山が福岡、佐賀県境の九千部山

写真の左手から 九千部山の下を通って九州新幹線の筑紫トンネルが貫通している筈だ

市ノ瀬地区の那珂川の下流域   橋の向こう側に日吉神社が鎮座まします

日吉神社

日吉神社

日吉神社

那珂川の最上流域にある南畑(みなみはた)ダム   ここは那珂川町五ケ山地区だ

ダムの水位は相当下がっている

福岡側から最近開通した東背振トンネル(有料)を通って佐賀県側の道の駅「吉野ヶ里」に着く

道の駅「吉野ヶ里」から北方に、いま通ってきた東背振トンネル方向を見る

道の駅「吉野ヶ里」から南方に佐賀平野を見る   

史跡吉野ヶ里は右方の山襞に隠れて見ることが出来ない