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2007都知事選に思う(5) 負け犬きっこの発言でわかる「護憲パラノイア」的発想

2007-04-11 05:07:06 | 根っこのところ

都知事選が終わった後の方が、言いたいことをブログで自由に言えるというのは不思議な状況だ。そろそろ法務大臣あたりに、ブログと公職選挙法の関係をはっきりさせてもらいたいものである。まぁブログレベルの文章を公職選挙法の監視範囲に入れようとするのであれば、それこそ「言論の自由」の観点から強硬に反対するが。

さて。選挙前に、威勢良く「石原慎太郎はレイシストだ!」的な誹謗中傷した後で、表向きには「公職選挙法違反」という理由でその誹謗中傷記事を削除したきっこ(その記事のキャッシュはこのウェブ魚拓から)が、選挙後に一体どんな「負け犬の遠吠え」をしているのかと思って覗いてみたら…。あまりにも哀れな「吠えざま」に、失笑を禁じ得なかった。と同時に、その吠え方に、「戦後護憲パラノイアのステレオタイプ」とでも呼ぶべきものがありありと浮かび上がっていたので、以下のようにしみじみと感じた。

あぁ、「こういうヒトもいつかはわかる日が来るだろう」的な期待は、抱くだけ無駄なのだろうなと。

きっこの日記 「東京都民の良識」より

>この結果を見れば分かるように、この国の総理大臣も東京都知事も、引き続き、 「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間がつとめることになったってワケだ。だけど、 それが民主主義ってもんなんだから、多数決で勝てば、人間同士が殺し合う戦争を「感動的」 だと賞賛し、「日本も優秀な戦闘機を作ってどんどん海外に輸出すればいい」なんて言ってる人でも、 東京都知事を続けられるってワケだ。つまり、多数決で勝ちさえすれば、 「平和」よりも「戦争」が「正しい」ってことにもなっちゃうワケで、あたしたち「平和」を願う少数派は、また4年間もガマンしなきゃなんない今日この頃、皆さん、 いかがお過ごしですか?

 

これだけ、「あちら側のヒト」の基本的な発想がシンプルに述べられている文章もそうそう見たことがない。その意味でこの文章は、現代日本の左側の人たちの発想を象徴する、「時代を象徴する文章」の一つであると、まずは賞賛しておこう。

赤字の部分を箇条書きに抜粋すると、

>この国の総理大臣も東京都知事も、引き続き、「核兵器の保有」を謳い、戦争ができるように憲法を変えようとしてる人間がつとめることになった

>多数決で勝てば、人間同士が殺し合う戦争を「感動的」だと賞賛し、「日本も優秀な戦闘機を作ってどんどん海外に輸出すればいい」なんて言ってる人でも、東京都知事を続けられる

>多数決で勝ちさえすれば、「平和」よりも「戦争」が「正しい」ってことにもなっちゃう

>あたしたち「平和」を願う少数派は、また4年間もガマンしなきゃなんない

一点目からして、巷でよく聞くフレーズである。もうツッコむのも疲れるのだが、逃げ口上と取られないように、しっかりツッコみ続けよう。

こういう発言をしているヒトは、

1 「今の日本国憲法は、日本が戦争ができないようにしている」 から

2 「日本は戦争をしなくて済む」

ゆえに

3 「日本は平和を保てる」

と、本気で思っているということなのだろうか。だとしたら、そう思っている人は、このブログで何度も指摘しているように(たとえばここ)、国内レベルで「あらゆる犯罪に対する無抵抗宣言」をし、周りにいる犯罪者のなすがままにされれば良かろうに。それができないのなら、なぜそれと全く同じことを「国際」レベルでやれと平気で言えるのだろうか?

国内レベルではあくまでも「現実主義者」、国際レベルではとことん「理想主義者」。そんな人間を「救いようのないバカ」と言わずして何と言うべきであろうか。そんなバカが応援する人間に、政治家という仕事を任せたいとは、私などは絶対に思わないのだが、世の中は広いらしく、そうでない人も結構いるらしい。

 

国際レベルでも、少なくとも国内レベルと同じくらいの現実主義者になることができれば、憲法9条と国際法、そして北朝鮮のような「ならず者国家」や中国のような「軍拡国家」という「周囲の現実」との齟齬(そご)を整理し、自衛のための軍備の存在を正面切って議論しようとする安倍サイドや石原サイドの方が、よほど「国際平和のためになる姿勢」であるのは自明であろう。そういう姿勢を認めた上で、日本の軍備はこれだけでいいのだ、これ以上の軍拡はするな!と主張するのなら何も不思議な点はないのだが、きっこや社民党(福島瑞穂)、共産党を始めとする「護憲パラノイア」の連中は、

・改憲→日本を「戦争ができる」国に→日本は「戦争に巻き込まれやすくなる」

という偏執的妄想にとりつかれているのかわざとしがみついているのか、ことあるごとにひたすら繰り返すことで、「自衛のための軍備の適切な規模と形」について「そもそも議論すること」をひたすら「タブー」として封印しようとしてきたし、今も続けている。

軍隊や戦争について考えることは、相手や自分の痛みを想像できない、これまたある種のバカを除いては、リアルに考えれば考えるほど「苦痛」以外の何物でもない。だからといって、その「苦痛」が生じないように済むための「議論」そのものをタブー化しようとするその根性とは…

ただのガキ?それともやっぱりバカ?

戦争という苦痛をいやがればいやがるほど、戦争を止めるための手段としての軍隊については、徹底的に現実的な議論を重ねていく必要があるだろうに。国内レベルに置き換えれば、犯罪による痛ましい犠牲者を出さないように、犯罪を抑止する制度としての警察力や法律について、徹底的に現実的な議論を重ねなければならないのと同じことだ。

 

こんなことは、きっこと反対側にいる人々にとっては言うまでもないくらいの自明のことなのだが(だよね?)、きっこを始めとする護憲パラノイアの連中にとっては、われわれがこういう発言を明示的にしていないことを「石原を応援する連中は、戦争をしたがっているに違いない!」という、極めて幼児的な決めつけにスライドさせ、

「戦争がイヤなら軍隊について考えるな!」

的な、小学生並みのアジテーションを繰り返す。これからは、こういう種類のおバカさんには、笑顔でこうささやいてあげよう。

「犯罪がイヤなら警察について考えるな!」

いや、この方がわかりやすいか。

「『戦争がイヤなら軍隊をなくせ!』というのなら、先に『犯罪がイヤなら警察をなくせ!』でしょ?

私たちが生活しているこの世界が、『警察がいなくても犯罪が起こらない世界』なら、私はあなたの意見に賛成しますよ。」 

 

 

さて。100京歩ほどゆずって、こういう「護憲パラノイア」的な発想が正しいと、きっことそのゆかいな仲間たちが本気で思っており、なおかつその発想に少しでも「現実的な正しさ」が存在するのならば、その思想をなぜ彼らは

・軍拡を続けている中国

・核兵器を保持している北朝鮮

・徴兵制がまだ残っている韓国

に広めようとしないのだろう??この手の連中が不思議であり、なおかつそれゆえに信用できない点はここにもある。あたかも「世界の理想の先頭を行く」かのような「日本国憲法的精神、特に9条的精神」の信奉者が、その精神を他国には全く広めようとしないのである。この点についてかろうじて言及する信奉者がいるとしても、彼らは

それは他国の問題でしょ?今は日本のことを論じているのですよ。

などとしたり顔で語るのも笑える。オイオイ、日本の平和って、日本だけが非武装になれば達成できるのかよ。本気でそう思っているのなら、しつこいが、「オレだけ犯罪無抵抗宣言」してみろって。

 

ここだけで随分と長くなったが、これは例の、太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』に対する内容的な批評でもある。この二人は、時には理想主義者、時にはお笑い芸人と、自分たちに都合の良いように立場を変えながら、結局憲法九条が「日本の平和」にどれだけ貢献できるかという「現実」面の考察をまったく行っていない点が限りなくウンコ、というより「読者に対するサギ行為」である。現実に対しどのくらいの影響を与えうるかを論じずに、ある法律が「宝なのだ!!」と高らかに謳っている本を、私は初めて読んだ。これは、法律としての憲法の本ではなく、宗教としての「護憲教」信者の妄想集にすぎない。

にもかかわらず、この本がそこそこ売れ、太田光が「政治も等身大で語れる熱い芸人」的なイメージを得て、今ではスカパーの宣伝で「テレビに自由を」などと語っている。つくづく日本とは平和な国なのだなと、こういう現象こそが、私に最も強く感じさせてくれる。

 

うむ。「護憲パラノイア」とは、ここまで広く日本人の一部に浸透しているのである。今後もこの点については考え続けていきたい。

いい加減に、次の話に行こうか(苦笑)。二点目。

 

>多数決で勝てば、人間同士が殺し合う戦争を「感動的」だと賞賛し、「日本も優秀な戦闘機を作ってどんどん海外に輸出すればいい」なんて言ってる人でも、東京都知事を続けられる

これもありがちな発想の一つである。おそらくは石原慎太郎が総監修した映画のことを指しているのだろうが、きっこにとっては、過去に起こったある現象としての戦争を少しでも肯定するような芸術作品を作れば、それは「戦争礼賛」につながり、ひいては「戦争へ向かってゆく雰囲気や世論」ができやすくなり、「平和を維持しにくくなる」ということなのだろう。私は何て親切なのだろう(苦笑)。

ここで区別しなければならないのは、「平和」と、「無抵抗状態」である。きっことその愉快な仲間たちが望んでいるのは「無抵抗状態」であって、「平和」では決してない。なぜなら、「平和」という概念の中には、「日本を攻撃したら反撃を喰らいかねない」という「合理的な予測」に基づく、他国側の「攻撃の抑制」が含まれているからだ。

きっことその(ry)が理想としているであろう、「武力行使という行為そのものをすべからく『絶対悪』という価値観で染め抜く」という思想は、最終的には日本の「無抵抗状態」を招くだけであろう。例えばバカサヨクによって戦後続いてきた、自衛隊員への陰湿ないやがらせ行為などは、この思想に基づく、「信念のある凶行(それだけに始末が悪いのであるが)」の一例であるが、そんなことを続けていたら、日本の国土を守ろうという人間などいなくなってしまうだろう。

そこで聞きたいのだが、自国を守ろうという人がいない国は、どのような意味で「平和」なのだろうか。

それは「他国が侵略してこない」という意味の「平和」などでは決してなく、「他国が侵略しても抵抗する者が誰もいない」という意味での「無抵抗」にすぎない。そして、「無抵抗」が「レイプや略奪などを生まない『おだやかなもの』」である根拠など、どこにもないのだ。あるのはただ「そうであってほしい」という「幼児的な希望的観測」ばかりである。

以前腰を抜かすほどびっくりした、ykimata氏のこの記事を参考にさせて頂いた。日本には、こういう希望的観測を抱き続けている集団が、少なくとも無視できないくらいには存在するようである。かえすがえすも、日本とは平和な国である。その平和の源が、憲法九条にあると信じて疑わない点も含めて。

そんなわけで、話を元に戻すと、戦争を賞賛する映画が、戦争を賞賛しているからという理由だけで批判できると思っているのは頭が悪すぎる。少なくとも上演された映画を見てから、その映画に即した批判をすべきであろう。ここできっこがやっていることは、ただ「戦争を賞賛する映画を叩くのはいいこと!」という、これまた護憲パラノイアがよくやらかすことのリピートにすぎない。

 

三点目。

>多数決で勝ちさえすれば、「平和」よりも「戦争」が「正しい」ってことにもなっちゃう

一点目でしっかり論を立てたおかげで、反論が楽である。きっこは、安倍総理や石原知事が「軍隊について冷静に議論する」ことを、「戦争を無条件に肯定すること」と安易にスライドさせてご満悦なだけである。

もう一つ、反論を付け加えるならば、

きっこと(ry)が多数決で勝ちさえすれば、「平和」よりも「無防備」が「正しい」ってことにもなっちゃう。少なくとも私はそんな日本になることはゴメンなのだ!なのだったらなのなのだ!

ということになるな。この口調って…本当にバカっぽいな。

 

ようやく、これらのまとめとしての四点目。

>あたしたち「平和」を願う少数派は、また4年間もガマンしなきゃなんない

きっ(ry)が願っているのは「平和」ではなく、単なる「日本が無防備なら日本の平和は守れる」という、信じられないくらい恐ろしい希望的観測の維持である。『まるごし刑事』の読み過ぎであろう。日本が無防備ということは、まるごし刑事がヘナヘナのもやし君状態であるということだろうに。そんなまるごし刑事は、チンピラどころか、反抗期の小学生にさえもボコられて終わりだろうに…。

4年間どころか、生きている間は常に警戒しなきゃなんないのはこちらの方である。選挙があるたびに、こういう「護憲パラノイア」の台頭を阻止しなければならないのだから。

き(ry)は、4年待てばどうにかなると思っているところも、これまた甘すぎる。

 

憲法と九条を狂信的に守ろうとする護憲パラノイアとは、とことん戦わねば、日本の治安と平和が脅かされかねないとは… つくづく逆説的である。

 

あ~…今日も長くなってしまった。また分けなきゃならんのかな…いやだ…。

きっこのこの日の記事については、また後日ツッコミを入れる予定だ。

 

あ、これを忘れていた。エヴァファンであるきっこに謹んで。アンタカァ~~ 

 

 

当ブログ参考記事

2007都知事選に思う(2) <きっこが浅野氏を支持する理由って

次期社民党党首に推薦します 太田光(爆笑問題)


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