中央公論5月号の特集が
「宗教は日本を救うか」
とのこと。
・高村薫「だからわたくしは仏教に期待する」
・加賀乙彦「大震災と一信徒の祈り」
・稲場圭信「日本人の利他性と『無自覚の宗教性』」
などなど、「宗教学」としては多少は専門的なのだろうが、大事なポイントを何一つ突いていないと思われるタイトルと識者の名前が並ぶ。
現代日本で、宗教と社会の関係を考えるための最重要なポイントは、
「日本人は、『教祖絶対主義』としての『宗教』を受け入れるかどうか」
に尽きる。したがって、ここを論じない論考は、何ら現実的な処方箋にはなり得ないだろう。
現代日本において、宗教が人を動かすことがあるならば、それは必ず
「教祖絶対主義としての宗教」
であると断言できる。「そうでないもの」について考えればよくわかる。「そうでないもの」とは、
・「宗教」と銘打っておきながら、教祖がいなかったり、教祖の影響力がかなり低い宗教
である。いわゆる「日本教」における、各パーツである。正月には神社で初詣をし、家族の葬儀は仏式で、結婚式はチャペルで、そしてハロウィンパーティーもクリスマスも、キリスト教の宗教的行事なのだが、日本ではすでに「ファッション(流行)」に過ぎないものになっている。こういう、各宗教の要素を「イベントの構成要素」としてとらえ、その構成要素を、自分たちの服を着替えるように、好きなように組み合わせる。これが「日本教」である、としていいだろう。
そして、その日本教の信者は、20歳以上の日本人の中では、半分以上はいるだろう。例えばクリスマスを祝わない厳格な仏教徒や、初詣を絶対にしない厳格なクリスチャンは合わせても1割もいないだろう。
ただ、神道はどこまで「宗教」と言えるか微妙なので、あとでまた考察する。
でだ。そういう「日本教」が、日本を救えるかという問題の設定だが、何も救えないということは自明だと言っていいくらいだ(笑)。なぜなら、そういう「ファッションとしての宗教儀礼」をいくつ積み重ねても、従来の日本人の考え方を変え、よりお互いを協力的にする作用は持ち得ないからだ。クリスマスをできるだけ多くの日本人で祝ったからと言って、聖書に書かれていることをより守ろうというスローガンに結びつくことはまずないし、仮にそうなったとしても、
「それはイヤ」
と拒否する日本人が普通に大量に出て来るであろう。そう、例の「思想・良心の自由」である。
ということは、日本人を、集団として変える力を持つ宗教は、自ずから
「教祖あるいは教典の発言力が極めて高い宗教」
ということになる。しかしこういう宗教も、日本国内での評判はあまり良くない、というイメージがごくごく一般的である。公明党の支持母体である創価学会や、あれだけ負けても候補者だけはパカパカ立ててくる幸福実現党の支持母体である幸福の科学などは、教祖なりリーダーなりの発言力、影響力は極めて高いが、それだけに、
・リーダーと意見が違ったら、自分の意見は収めてリーダーの言うとおりにしなければならない
という心理的圧迫感が強いため、進んで信じられる姿勢を持つ人間でなければ、なかなかその集団になじむことはできないだろう。ちなみに私も、なじむことができない人間の一人である。
ここで神道について少し考えてみるが、神道は日本古来の「八百万の神」という発想も受け入れつつ、日本国内の儀礼を司ってきた一種の宗教であると私も考えるが、「八百万の神」という言葉に象徴されるように、
・これを守らなければならない
という「主張」は、神道そのものにはない、と私は考えている。その意味で、高橋哲哉ら、左翼系の論者が必死にアジテーションしている、
「戦前は国家神道が日本人を戦争に向かわせたのだ!神道こそ軍国主義だ!!」
という主張には全く説得力が見いだせない。例えば竹田恒泰あたりが必死に「『保守』の星」ぶっていろいろなことを叫んでいるが、自称「保守」の人が、竹田恒泰の主張を冷静に批判することもごく普通のことであるし、そこには
・竹田氏の方がより神道の本質を理解している。
などという「中心-周辺」モデルは存在しない(むしろ、あってたまるか(笑)状態である)。仮にあったとしても、それをもって、竹田氏の政治的主張に全員が倣うべし、などという結論は全く出てこない。要するに「ごった煮」状態なのである。儀式における一連の所作さえ守ってもらえれば、あとはご自由にというのが、私の理解している「神道」の重要な本質の一つである。
とまあこうして概観すると、見えてくるのは、日本の宗教には、アメリカのキリスト教のような、「真ん中あたりのポジション」がない、ということである。真ん中あたりのポジションとは、
・思想的求心力も中くらいで、人的組織力も中くらい。すなわち、アメリカの「ティーパーティー」ができるほどの組織力はあるけれども、「リーダーの主張を全て受け入れよ」という強制力もない。
ということであり、そういうポジションを持つ宗教である。
まあ、今の日本にはないよね。
次に、「そういう宗教があったらどうするか」という問題になるが、それは稿を改めよう。
中央公論さん、こういう角度からのツッコミをよろしくお願いしますよ。例えば仏教典をいくらめくっても、日本人は動きませんよ。