次の「温知政要」(享保16年・1731、名君言行録に収録、全20冊、
昌平坂学問所旧蔵)は、尾張国名古屋藩主・徳川宗春(1696~1764)
が始めて国入りする際に施策方針を記した書。
宗春はこの書の中に“千万人に1人えん罪で処刑される者がいて
も、私の罪である“と自らを戒めるとともに、“罪人に吟味は可能な
限り入念に“、“吟味の時は個人的な好悪の情が萌すのは言語道断”
と家臣たちに説いている。

そのように、宗春は死刑を執行しないなど、裁判・行刑の面で寛
大だったことでも知れ渡っていた。
ところが、その政策や藩内に芝居小屋や遊郭を公許するなど、積
極的景気振興策を実施したところ、その施策が八代将軍吉宗の幕府
に咎められ、44歳で藩主の座を追われてなおかつ、明和元年(1764)
69歳で没するまでの25年間の謹慎生活を送っている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
昌平坂学問所旧蔵)は、尾張国名古屋藩主・徳川宗春(1696~1764)
が始めて国入りする際に施策方針を記した書。
宗春はこの書の中に“千万人に1人えん罪で処刑される者がいて
も、私の罪である“と自らを戒めるとともに、“罪人に吟味は可能な
限り入念に“、“吟味の時は個人的な好悪の情が萌すのは言語道断”
と家臣たちに説いている。

そのように、宗春は死刑を執行しないなど、裁判・行刑の面で寛
大だったことでも知れ渡っていた。
ところが、その政策や藩内に芝居小屋や遊郭を公許するなど、積
極的景気振興策を実施したところ、その施策が八代将軍吉宗の幕府
に咎められ、44歳で藩主の座を追われてなおかつ、明和元年(1764)
69歳で没するまでの25年間の謹慎生活を送っている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
丹波国篠山藩士で儒学者の松崎観瀾(1682~1753)の随筆「窓の
須佐美」(全3冊、内務省旧蔵)には、“火付盗賊改”の無名の人物が
登場する。
その人物とは、平岩若狭守親庸で宝永2年(1705)6月から同5年
4月まで“火付改加役”を務めた旗本。この“加役”とは兼任の意
で、平岩の本役は持弓頭。火付盗賊改は、当時は盗賊改や火付改、
盗賊改に分かれていた。
筆者の松崎によれば、平岩が死刑決定の前日、罪人を呼び出して
“自らの罪について、言い訳があれば申し述べよ”と最後のチャン
スを与えたという。

このように平岩は、えん罪で不当な死刑が執行されないよう心が
けていたことが伺える。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
須佐美」(全3冊、内務省旧蔵)には、“火付盗賊改”の無名の人物が
登場する。
その人物とは、平岩若狭守親庸で宝永2年(1705)6月から同5年
4月まで“火付改加役”を務めた旗本。この“加役”とは兼任の意
で、平岩の本役は持弓頭。火付盗賊改は、当時は盗賊改や火付改、
盗賊改に分かれていた。
筆者の松崎によれば、平岩が死刑決定の前日、罪人を呼び出して
“自らの罪について、言い訳があれば申し述べよ”と最後のチャン
スを与えたという。

このように平岩は、えん罪で不当な死刑が執行されないよう心が
けていたことが伺える。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
江戸時代は現在と比べものにならないほど多くの死刑が執行され、
えん罪による犠牲者も相次いだといわれる。その一方で、人命を尊
重し誤審やえん罪をなくすために、より慎重な審理を訴えた人も多
かった。
江戸時代初期の武士の世界では、喧嘩や刃傷沙汰が相次ぎ、辻斬
りも絶え間なかった。そこには武勇武威という美辞の元に人命を奪
うことを悔いないという、戦国時代の風潮が当時もはびこっていた。

「鱸鞍橋」(万治3年・1660、全3冊、昌平坂学問所旧蔵)は、武
士出身の僧侶・鈴木正三(1579~1655)の説法や問答を弟子が編集し
た書で、辻斬りや手討ち、追い腹など人命軽視の風潮を独自の論法
で非難する様子を伝えている。
つまり、入念な審理と公正な裁判、そして誤審防止というスタイ
ルは、侍ワールドの悪習を払拭することから始まっている。
鈴木正三は、徳川氏に従い関ヶ原の戦や大坂の陣に加わり、元和
6年(1620)に42歳で出家している。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
えん罪による犠牲者も相次いだといわれる。その一方で、人命を尊
重し誤審やえん罪をなくすために、より慎重な審理を訴えた人も多
かった。
江戸時代初期の武士の世界では、喧嘩や刃傷沙汰が相次ぎ、辻斬
りも絶え間なかった。そこには武勇武威という美辞の元に人命を奪
うことを悔いないという、戦国時代の風潮が当時もはびこっていた。

「鱸鞍橋」(万治3年・1660、全3冊、昌平坂学問所旧蔵)は、武
士出身の僧侶・鈴木正三(1579~1655)の説法や問答を弟子が編集し
た書で、辻斬りや手討ち、追い腹など人命軽視の風潮を独自の論法
で非難する様子を伝えている。
つまり、入念な審理と公正な裁判、そして誤審防止というスタイ
ルは、侍ワールドの悪習を払拭することから始まっている。
鈴木正三は、徳川氏に従い関ヶ原の戦や大坂の陣に加わり、元和
6年(1620)に42歳で出家している。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
備前国岡山藩士、湯浅明善(1748~99)が著した「天明記」(別名
:天明大政録、全7冊)に、天明7年(1787)6月に江戸北町奉行を
拝命した石河政武の逸事が記されている。
町奉行を拝命した石河が、白木の箱に切腹の際の着衣と短刀を納
め、これを居間の床の正面に置き、朝夕欠かさず捧げ持ったとある。
つまりは町奉行の職務をしくじったら腹を切る覚悟で日々仕事に務
めたという。

そのほか、変死体の検使を務めた同心たちが調書を提出した時、
調書の作成に時間を費やさず手抜きをした時も、自殺か他殺かしっ
かりと見分するよう叱りつけた話もある。
地味だった石河も名奉行といえる。しかし、町奉行就任3ヵ月後
に64歳で亡くなっている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
:天明大政録、全7冊)に、天明7年(1787)6月に江戸北町奉行を
拝命した石河政武の逸事が記されている。
町奉行を拝命した石河が、白木の箱に切腹の際の着衣と短刀を納
め、これを居間の床の正面に置き、朝夕欠かさず捧げ持ったとある。
つまりは町奉行の職務をしくじったら腹を切る覚悟で日々仕事に務
めたという。

そのほか、変死体の検使を務めた同心たちが調書を提出した時、
調書の作成に時間を費やさず手抜きをした時も、自殺か他殺かしっ
かりと見分するよう叱りつけた話もある。
地味だった石河も名奉行といえる。しかし、町奉行就任3ヵ月後
に64歳で亡くなっている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)