旧松山藩士・服部嘉陳(1834~91)は、明治6年(1873)に石鉄県
(神山県と合併して愛媛県)の県官を殺害した嫌疑で東京に護送され
獄に入れられる。しかし、翌年、無罪が判明して釈放。

突然の逮捕と入獄を体験した服部は、獄中記「忿悒録」を著すと
共に、1874年3月に冤罪の原因と防止策等を述べた建言を政府に
提出する。どうして冤罪が無くならないのか、服部は保身を図り手
柄を立てようとする官吏の弊風が背景にあると指摘する。

服部はその後、左院・修史館・工部省他に勤務。退職後は旧松山
藩主の久松家に、在京の旧藩士の子弟に学資等を援助する組織を創
設するよう提案し、久松家は服部の提案を受けて常盤会を設立する。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)
(神山県と合併して愛媛県)の県官を殺害した嫌疑で東京に護送され
獄に入れられる。しかし、翌年、無罪が判明して釈放。

突然の逮捕と入獄を体験した服部は、獄中記「忿悒録」を著すと
共に、1874年3月に冤罪の原因と防止策等を述べた建言を政府に
提出する。どうして冤罪が無くならないのか、服部は保身を図り手
柄を立てようとする官吏の弊風が背景にあると指摘する。

服部はその後、左院・修史館・工部省他に勤務。退職後は旧松山
藩主の久松家に、在京の旧藩士の子弟に学資等を援助する組織を創
設するよう提案し、久松家は服部の提案を受けて常盤会を設立する。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)