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塩哲の空即是色

日々の徒然日記

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 冤罪処分の議

2015-01-24 06:18:23 | ミュージアム巡り_2015
 旧松山藩士・服部嘉陳(1834~91)は、明治6年(1873)に石鉄県
(神山県と合併して愛媛県)の県官を殺害した嫌疑で東京に護送され
獄に入れられる。しかし、翌年、無罪が判明して釈放。

 突然の逮捕と入獄を体験した服部は、獄中記「忿悒録」を著すと
共に、1874年3月に冤罪の原因と防止策等を述べた建言を政府に
提出する。どうして冤罪が無くならないのか、服部は保身を図り手
柄を立てようとする官吏の弊風が背景にあると指摘する。

 服部はその後、左院・修史館・工部省他に勤務。退職後は旧松山
藩主の久松家に、在京の旧藩士の子弟に学資等を援助する組織を創
設するよう提案し、久松家は服部の提案を受けて常盤会を設立する。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 出牢之儀歎願

2015-01-23 05:51:34 | ミュージアム巡り_2015
 次の展示資料は、慶応2年(1866)11月、幕府領・下総国猿島郡
沓掛村(現:茨城県坂東市)の村医者・松翁の親類一同から提出され
た歎願書。

 内容は、松翁と息子の応助が殺人事件の共犯者として捕らえられ
牢屋に入れられた件について、“非道之御吟味”(理不尽な取り調べ)
によって“無実之罪”(冤罪)に落としたものであると訴えている。
 この歎願書によれば、共犯者に仕立てるために拷問や証言のでっ
ち上げも行われたという。松翁親子は本当に無実だったのか。

 結局、真相は藪の中。この資料には、当時冤罪がどのようにして
作られたかを、詳細かつ具体的に記したものだ。
 江戸城の多聞櫓に未整理のまま置かれていた歎願書(全1通、多聞
櫓文書)である。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 洗冤録

2015-01-22 05:41:17 | ミュージアム巡り_2015
 中国の医法学書は、江戸城内にあった紅葉山文庫(将軍の図書館)
にも収められていた。
 次は、袖の中に入るほどの小さな本“袖珍本”の「洗冤録」(乾隆
49年(1784)序刊、全4冊、紅葉山文庫旧蔵)。同書は南宋の宗慈の
著であるが、清の陳明善がこれを袖珍本に編集して、救急治療法
などが増補されている。

 陳は、書の序で「洗冤録」を“屍傷の隠微、備へて其の中に載す”
と評している。持ち運びの便利な袖珍本にしたのは、検死必携の本
書をより使いやすくするためだった。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 無冤録述

2015-01-21 05:40:34 | ミュージアム巡り_2015
 犯罪捜査とえん罪防止に不可欠な法医学の知識は中国から伝来し
ている。
 中国では宋代(南宋)に世界最古の法医学書「洗冤集録」(1247年)
が刊行され、元代にこれを修正・増補した「無冤録」(1308年)が著
されている。
 この「無冤録」は朝鮮を経て日本に伝わり、医者の河合尚久が元
文元年(1736)に翻訳され、明和5年(1768)に「無冤録述」の書名で
刊行される。
 この「無冤録述」はその後、明治34年(1901)頃まで“幾度も増刊
されて広く頒布し、実際に盛んに用いられた“という。例えば、水
戸藩の郡方役人を永年務めた坂場流謙も、この書を“横死改吟味仕
方の書“として推奨し、担当役人は“此書を見るべし”と述べている。
 展示資料は寛政11年(1799)の「無冤録述」(全2冊、司法省旧
蔵)。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 棠陰比事

2015-01-20 05:44:33 | ミュージアム巡り_2015
 南宋の桂万栄は、北宋の鄭克が著した「折獄亀鑑」から「疑獄集」
を補正した両書を元に、144話の裁判実話を収録した「棠陰比事」
(1211年成立)を編集。

 この書には、“犯人を捜索して逮捕する役人が、犯人を逮捕でき
ない責任逃れや恩賞欲しさのために、獄吏と結託すれば無実の者を
簡単に犯人に出来る“という鄭克の言葉が紹介されている。また、
えん罪を防ぐためには裁判を行う者が、それを見破らなければなら
ないことなども書いてある。

 展示されていた資料は、林羅山の旧蔵で、元和5年(1619)11月の
羅山の跋に、朝鮮版を書写した後、別に朝鮮版によって校訂を加え
たとある。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)