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塩哲の空即是色

日々の徒然日記

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 寛保世説抄録

2015-01-29 05:43:54 | ミュージアム巡り_2015
 江戸時代、庶民だけではなく幕臣や藩士など武士も様々な罪で刑
に処されている。その中には武士だからこそ厳しく罰せられた罪も
あった。
 「寛保世説抄録」(全1冊、華族徳川昭武の所蔵を写書、修史館旧
蔵)には、寛保元年(1741)7月6日未明、700石の旗本・関内記が熟
睡中に妾に斬りつけられ重傷を負った事件(その後死亡)の経緯が記さ
れている。

 内記は被害者であるにもかかわらず“碑女に疵つけられ、あまつさ
えそのままに座をさらしめ事越度なり“という理由で、改易の処分が
下される。油断して妾に斬りつけられたばかりか、加害者を取り押
さえられなかったのが、旗本としてあるまじきこととされた。

 また、同書には寛保2年(1782)8月に江戸と関東各地を襲った豪
雨による洪水の記録他、寛保年間(1741~43)の出来事を書きとめた
雑録も収められている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 断獄典例

2015-01-28 05:44:54 | ミュージアム巡り_2015
 次の「断獄典例」(全11冊、修史館図書旧所蔵)は、加賀国金沢藩
で裁判及び行刑を担当した公事場の法規や職掌等を集録したもので、
「公事場御刑法帳」「公事場御条目帳」「公事場之定」「公事場奉
行勤方」等が収められている。

 この内、「公事場御刑法帳」には、“子を殺候者共”、“捨子仕者共”
“子を強折檻等仕候者”以下、23項目に分類した犯罪の実例とその判
決が記されている。

 宝永3年(1706)、乳児を川に流した水呑百姓の父親が磔になり、
同6年には6歳の娘を折檻死させた足軽の妻が斬罪に処せられた内
容が記されている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 御仕置例類集

2015-01-27 05:50:44 | ミュージアム巡り_2015
 幕府の評定所では、刑事裁判について老中から詰問があると、ど
のような判決が適当であるか評議し、答申を老中に提出することに
なっている。

 「御仕置例類集」は、評議書を犯罪内容に応じて類別、編集した
刑事判例集だ。明和8年(1771)から嘉永5年(1852)まで、5回にわ
たって評定所で編纂されている。

 この例類集には、次のような判例が出ている。

 10代前半の少女の放火事件や夫に不倫を疑われた妻の自殺事件、
火災で老父を救出出来なかった息子の罪が問われた事件、などなど
全85冊。

(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 黄紙

2015-01-26 05:44:54 | ミュージアム巡り_2015
 江戸時代には多くの罪人が重い刑に処せられている。しかし、三
奉行(寺社、町、勘定)や火付盗賊改等の判断だけで遠島や死刑など
の重罪が即決したわけではない。
 重い刑を申し渡す場合、刑の決定に迷う場合は、老中に“仕置伺”
を提出し、どのような刑に処すべきか指図を仰いでいる。

 その際は、犯罪事実等を記した“吟味書”を添付したのが「黄紙」
だった。
 この「黄紙」には、罪状に加えて“死罪可申付候哉”というような
伺いが記されている。“仕置伺”を受け取った老中は、担当の奥右筆
に先例を精査させたのち、刑を決定している。

 展示されていた「黄紙」は幕末の頃のもので、現存するのは稀で
多聞櫓文書には17点の「黄紙」が残っている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 尹台秘録

2015-01-25 05:58:02 | ミュージアム巡り_2015
 南北町奉行の公用人(奉行所内与力)は、奉行の秘書官的な存在で、
その与力・草加定環が寛政7年(1795)に編纂した「尹台秘録」(い
んだいひろく)には、草加が在職中に書き留めた町奉行所の諸記録が
収められている。
 町奉行や配下の与力同心に関するものから、老中等の令達・江戸
市政に関するもの、裁きの実例など盛り込まれた内容は様々。中に
は南北両奉行所の同心たちによる捕り物や、逮捕後のご褒美の実例
等も記載されている。

 展示資料は、明和4年(1767)3月17日、浅草で若い女性を殺害
したのち刃物を手に被害者宅に立てこもった男を、同心4人が取り
押さえた一件。逮捕後、北町奉行・依田豊前守と南町奉行・土屋越
前守から、老中・若年寄に同心4人に対するご褒美願が出され、翌
月に手柄の大きい順に金や刀が下腸された。

 町奉行所の公用人は奉行の私的家臣であるが、町奉行所の慣例や
諸事情に詳しい経験豊富な公用人は、乞われて他の奉行に仕えるこ
ともあった。
 20年以上公用人を務めて文化14年(1817)に62歳で没した草加も、
その1人だったことが伺われる。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)