「小倉山庄色紙倭歌」(江戸時代前期書写、京都学習院旧蔵、全1
軸)とは“小倉百人一首”のことで、藤原定家によって編まれた秀歌撰
として飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの名歌100首
が年代順に配列されている。
元来、13世紀頃に鎌倉幕府御家人の宇都宮頼綱の別荘・小倉山荘
を飾るために色紙として製作され、現代でも“歌かるた”として普及
するのは江戸時代になってから。
展示の書は、雲母引きした上で金泥の下絵を描いた料紙に、小倉
百人一首を書写した豪華な装丁の巻子本で、箱書によると狂歌作者
の豊藏坊信海が書写したものと伝わる。
信海は、石清水八幡宮の社寺、豊藏坊の社僧で、狂歌を通じて多
くの文化人と親交があった。茶事は小堀遠州に学び、俳諧は松永貞
徳に師事し、書は“寛永の三筆”と呼ばれた能書家・松花堂昭乗に学
んでいる。

もう一つの巻子本「百人一首」(江戸時代初期書写、京都学習院旧
蔵、全1軸)は、二条派歌人で能書家、公卿の烏丸光広と伝わってお
り、光広の筆跡は個性豊かで、書風は“光広流”と称されている。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)
軸)とは“小倉百人一首”のことで、藤原定家によって編まれた秀歌撰
として飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの名歌100首
が年代順に配列されている。
元来、13世紀頃に鎌倉幕府御家人の宇都宮頼綱の別荘・小倉山荘
を飾るために色紙として製作され、現代でも“歌かるた”として普及
するのは江戸時代になってから。
展示の書は、雲母引きした上で金泥の下絵を描いた料紙に、小倉
百人一首を書写した豪華な装丁の巻子本で、箱書によると狂歌作者
の豊藏坊信海が書写したものと伝わる。
信海は、石清水八幡宮の社寺、豊藏坊の社僧で、狂歌を通じて多
くの文化人と親交があった。茶事は小堀遠州に学び、俳諧は松永貞
徳に師事し、書は“寛永の三筆”と呼ばれた能書家・松花堂昭乗に学
んでいる。

もう一つの巻子本「百人一首」(江戸時代初期書写、京都学習院旧
蔵、全1軸)は、二条派歌人で能書家、公卿の烏丸光広と伝わってお
り、光広の筆跡は個性豊かで、書風は“光広流”と称されている。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)
「和書」とは、日本国内で書写、出版された書物のことで、源流
には紅葉山文庫、昌平坂学問所、和学講談所の蔵書に遡る。
この3つの機関は、和書を精力的に収集、研究し、長きに渡り蔵
書の年代や形態は様々で、歴史や文学、政治、経済、医学など多岐
に渡る。
その中から「本朝続文粋」(1955年重要文化財指定、金沢文庫旧
蔵、全13巻)。

この書は、平安時代後期の漢詩文集で、後一条天皇から崇徳天皇
までの約120年間に創られた漢詩文を蒐集、分類された貴重な書物
で、平安時代中期に編まれた「本朝文粋」にならって創られている。
展示されていた書物は、現存する写本では最古の完本。金沢文庫
の創設者とされる北条実時が文永9年(1272)に書写させたもの。
慶長7年(1602)に徳川家康の手に渡り、その死後に紅葉山文庫に
収められている。

この書の冒頭に“羽觴随波賦”は、3月3日に行われる曲水の宴
が周公の代に始まったという故事を基に作られた賦(漢文の韻文体)
で、水に流れる杯を取って酒を愉しむという風流な様子を詠ってい
る。
作者は、儒学者で有職故実・詩歌に通じた大江匡房で、後三条天
皇、白河天皇、堀河天皇の学問の師を三代に渡り務めている。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)
には紅葉山文庫、昌平坂学問所、和学講談所の蔵書に遡る。
この3つの機関は、和書を精力的に収集、研究し、長きに渡り蔵
書の年代や形態は様々で、歴史や文学、政治、経済、医学など多岐
に渡る。
その中から「本朝続文粋」(1955年重要文化財指定、金沢文庫旧
蔵、全13巻)。

この書は、平安時代後期の漢詩文集で、後一条天皇から崇徳天皇
までの約120年間に創られた漢詩文を蒐集、分類された貴重な書物
で、平安時代中期に編まれた「本朝文粋」にならって創られている。
展示されていた書物は、現存する写本では最古の完本。金沢文庫
の創設者とされる北条実時が文永9年(1272)に書写させたもの。
慶長7年(1602)に徳川家康の手に渡り、その死後に紅葉山文庫に
収められている。

この書の冒頭に“羽觴随波賦”は、3月3日に行われる曲水の宴
が周公の代に始まったという故事を基に作られた賦(漢文の韻文体)
で、水に流れる杯を取って酒を愉しむという風流な様子を詠ってい
る。
作者は、儒学者で有職故実・詩歌に通じた大江匡房で、後三条天
皇、白河天皇、堀河天皇の学問の師を三代に渡り務めている。
国立公文書館(千代田区北の丸公園3-2)