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「村社会」

2008年09月20日 | 前ブログ フォーカス27「時空の先」

「村社会と正論」

(昨日書いたものです。UP出来ませんでした)

 

私の一昨日の「麻生氏の発言」記事に反論を頂きました。

反論というか、そちらの方が圧倒的多数でしょう、今の日本では。

私の感覚の方が数で言えば圧倒的少数派である事は、それは自分でも分かっています。

しかし、圧倒的少数派な事が逆にこの国の国民意識を象徴していると、嘆いています。

一昨日記事「揚げ足」

昨日記事「ただいま」


麻生氏の発言に関するブログ(goo以外も含め)の中で、「批判していない」あるいは「そんなにまで言う事か?」的な意見は殆ど見受けられません。

「総理になろうとする人の発言じゃない」

「地方・田舎なんて切り捨てたい考えだ」

といった意見が殆どです。


逆に批判がこれほど多く書かれていなかったら、

私は、一昨日の記事を、ああいったニュアンスでは書いていないでしょう。

それほど自分より上の立場の人だと批判ばかりしたがる国民性にとても違和感を覚えます。


それは、村社会とも言うべき排他的感情にも似た気質が根底に根強くあるからだと感じます。


批判しやすい相手に向かっては、強く必要以上に批判する。

対象が自分より上(大きな)の立場であるがある程に。


もう一度書いておきますが、

私は自民推進派でも麻生氏のファンでもなんでもありません。

今度の総選挙では自民が野党になるのを楽しみにしている一人です。



上の立場(自分がその立場には絶対に届かない)の人間には批判しやすいモノです。

それは、「理想論」とか「正論」という大義名分があるからです。

自分はそういう立場になる事は絶対にないからです。

その理想論を振りかざせば、どんなに上の立場の人にだって存分に批判できます。

批判の大きさは、その対象が人気不人気という事も大いに左右するでしょう。
あるいは、自分が好きか嫌いかという事にはもっと大きく左右するでしょう。


批判した記事、もしくはニュースを読んで、

その切り取った「見出し」だけで批判に便乗する人も多く居ると思います。


自分が好意的な人にも同じ反応をしますか?

好きか嫌いか、人気があるかないかなど、全く関係なく、それはそれで置いといて、

その対象の事柄だけで判断しないといけないと思います。



仮に、貴方が課長昇進を控えた課長補佐なら、

現課長の「悪くもとれる」ちょっとした発言にイチイチ批判しないでしょう。

「あっこういう事が言いたいんだな」と取る筈です。

そして、課長が嫌いな平社員からその事について「あの発言は、課を代表する人としてどうなんですか?」と、批判を聞いたとしたら、

「課長もいろいろ大変なんだ、そんな意味合いでない事くらい想像出来るだろ、イチイチ悪い解釈をして批判するもんじゃない!」と、一喝する筈です。

そして、「あぁ、言葉って難しいな、対象人数が多ければ多くなる程、変に取る人も沢山居るだろうから、自分も注意しないとな」と参考にする筈です。

これとどこが違います? 同じ事でしょう?

どうして平社員は批判し、課長補佐は擁護するのでしょう?

平社員は課長が嫌いだし、当分その立場になる事はないからです。

自分には遠い存在だから理想論を振りかざし正論を並び立てる事に何の違和感もないからです。

遠い(自分はなる事はない)存在にはいくらでも正論が言えるんです。

年齢が若く経験を多く積んでいないと、正論を多く知っている事が世間を知ったと勘違いしてしまうものです。

正論を言う事(正論通りに考えれる事)が「私は正しく立派な人間」であると確認したりするもんです。

しかし、正論なんて何の役にも立ちません(極端ですが)

正論通りに動いている(まわっている)事が、この世で、この世界でありますか?

参考過去記事「揺らぎ」


課長補佐は何故批判しないか・・・、

もうすぐその立場になるからです。

それと、平社員が言うほど、いろんな事柄で正論通りにいかないのが世の中だって事を知っているからです。

全然そんな意図はないのに、悪く取られて誤解を招いた経験があるからです。

立場が上になればなる程、その発言の対象人数が増える = 悪く取る人数も増える事を体験しているからです。


会社はその中の組織での話なので対象は部下しかいません。
(講演などする場合は別として)

上司は部下が選んでる訳ではないし上下関係がハッキリしているので、政治家と比較するには無理があるかも知れません。

政治家は投票によって国民から選ばれた存在であり、一般国民全てが対象ですから「我々の代表」という意識で上下関係も反対に働きます。

しかし、それが故に対象人数は比較にならない事は言うまでもありません。

「そういう仕事を選び、そういう要職にいるんだからそれなりの人格でなければならない」

正論で言えばそうでしょう。


昨日も書きましたが、麻生氏の発言は決して「いい発言」ではありません。

誤解を招きかねない発言だったのは確かです。


しかし、毎日毎日マイクを通しブラウン管を通し、何千万人が耳に目にする中で発言し、万人に誤解を与えない言葉を選ぶという事がどれだけ難しいか。

貴方には想像が出来ますか?


私には出来ません。

ペーパーに書かれた原稿を見ながらとか、周到に用意したプレゼンでなら、どんなに大人数でも毎日でも全く関係ないです。


言いたい事を「瞬時に表現を考え言葉にして口に出す」

その作業を常に万人に理解してもらう誤解のない表現」にするのは並大抵じゃないと思います。


誤解のないようにもう一度言っておきますが、

「真意が疑われる発言」なら、徹底追及する必要があります。

しかし、「ああ、言い間違いだな」「表現が少しまずかったな」と安易に想像出来る事にまで、イチイチ突っ込む必要がありますか?

それは「自身の想像力の欠如」「正論が全てだと思っている甘ちゃん」を自らが曝け出してるようなもんです。


それと、「嫌いなモノにはワザと悪く解釈する」

「批判しやすい相手にはイチイチ批判したがる」

そういう意識が働いていて、それが、とても「村社会」的感覚に思えます。


昨日も書きましたが、

どんなバカな政治家でも、どれだけ悪事を働いている悪徳政治家でも、

「地方や大都市じゃなかったら、どんなになってもかまわない」なんて思っている人は絶対に居ないと思いますよ。

仮にそんな気違い政治家が居たとしても、ワザとそういう意味に取れる発言は絶対にしないと思いませんか?

そんな事、分かり切ってませんか?

分かり切っているのに、やっぱり批判しないと気が治まりませんか?


批判しやすい対象に対してわざわざ悪い解釈をしてまで批判したがる気質自体に村社会気質が働いていると思います。

村社会的意識による批判が圧倒的多数なこの国の民意が、とても嘆かわしいです。


ですから、

「政治屋も政治屋だけど、国民も国民」という台詞にした訳です。

こういう説明にしてもまだ正論を振りかざす人が多く居るんでしょうね。



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