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KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

南条時光と南条家

2010-08-29 | 代表的な門下
南条時光は駿河国(静岡県)富士郡上方荘上野郷の地頭で、若くして日蓮大聖人に信伏し、第二祖日興上人を師兄と仰いで純真な信心に励みました。時光と大聖人との法縁はわずか9年に過ぎませんでしたが、時光が大聖人から賜った御書は、現存するものだけでも30数通に及び、信徒中で最多です。時光がいかに純真な信心を貫いたかを示すものといえるでしょう。
時光の父、兵衛七郎は鎌倉幕府の御家人で、はじめ伊豆国(静岡県)南条郷の地頭から、上野郷の地頭に転任しました。鎌倉在勤のころに大聖人に帰依したといわれています。
文永元年(1264年)12月、大聖人は南条兵衛七郎御書(慰労書)を与えられ、病床の兵衛七郎を励まされています。翌文永2年(1265年)3月8日に亡くなりますが、大聖人はその死を惜しまれて、鎌倉から上野郷まで墓参に行かれています。時光が初めて日蓮大聖人にお会いしたのは、この折と考えられますが、時光は7歳でした。
文永11年(1274年)、16歳となった時光は、身延に入られた日蓮大聖人のもとへ参詣して御供養を奉りました。大聖人は時光の成長をお喜びになり、父の故兵衛七郎と変わらぬ信心の志をほめられて、御慈愛のこもった御書を送られています。
文永12年(1275年)1月、日蓮大聖人の御名代として、日興上人が故兵衛七郎入道行増の墓に代参され、時光は日興上人の教化によって、いよいよ信心弘法の念を燃えあがらせました。この時から日興上人を中心として富士上野郷・熱原地方の折伏が進められ、時光の親類にあたる松野家、興津家等が続いて入信し、出家では滝泉寺の下野房、越後房、三河房等が改宗して帰依しました。更に神四郎、弥五郎等をはじめ多くの農民が入信したのです。
熱原法難に際しては、時光は外護のために活躍します。大聖人は時光の不自惜身命の信心を称嘆されて、上野殿御返事に「上野賢人殿」(1561ページ)としたためられました。
法難の後、幕府は時光に対して不当な重税を課して、経済的圧迫を加えてきました。これは数年にわたって続き、南条家は極度の耐乏生活を強いられ、一時は時光自身の乗る馬もなく、妻子の着る物にもこと欠くありさまでしたが、その間にも日蓮大聖人への御供養を決して忘れることはありませんでした。
弘安5年(1282年)10月、日蓮大聖人の葬儀に際しては、四条金吾、富木常忍、池上、大田等の先輩同信の人とともに散華の大役を務めました。
正慶元年(1332年)5月1日、時光は74歳をもって静かにその生涯を閉じました。 時光は夫人・乙鶴との間に九男四女をもうけましたが、みな両親の感化を受けて信心に励み、南条家は広宣流布の歴史に大きな足跡を残しました。

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