ひとつ ふたつ 涙の花を 咲かせて眠る
夢の中の舗道は いつか雪にうもれて
寒いのよ 寒いのよ 愛されたいの
(『愛されたいの』 by 松田聖子)
もう、20年以上たつのですね。
当時、僕は、“聖子ちゃん”のことがけっこう好きでした。
今では、貫禄たっぷりですが、この頃の聖子ちゃんは・・・今の“SAYAKAちゃん”ぐらいの年齢だったと思います。
この曲は、リリースされた数年後に出た「B面コレクション」のアルバムで、よく聴いてました。
でも、20代半ばになった頃・・・
この“愛されたい”という言葉に、やたら引っかかっていたように思います。
誰だって “愛されたい”のは当然のこと
だけど “愛されたい”ばかりでは 悲しい・・・
当時の僕は、こう思ったものでした。
「もしも、世界人類、すべてが『愛を求める』ことばかりを願ったら、この地球は、どんな星になるだろうか?」
それは、おそろしいことです。
それは、田んぼのなかにいる、“ヒル”のような世の中になることでしょう。
みんなが、「欲しい!」「欲しい!」と、喚いているのですから。
そして、実際に、“人の生き血”ならぬ“人の愛情”を吸い取ろうとしているのですから。
「『愛を求める』よりは、『愛を与える』方がいい!」
やはり、“愛”は、供給する人がいて、はじめて与えられるものだと思うのです。
そして、“愛”を与えた人は、“与えた喜び”が与えられるものだと思うのです。
こんなことを話せば、このように答える人がいるでしょう。
「自分は、愛を与えているよ。そんなこと、当然のことじゃないか!」
そういう風に、胸を張って言える人は多いでしょう。
でも、みんながみんな、それで、本当に“与える喜び”を感じてるかどうかが問題だと思うのです。
「では、その“愛”は、本当に純粋でしょうか?」
他人の関心を惹こうとしたり、格好をつけたりする・・・いわゆる“見返り”ですね。
これがある分、“喜び”も減じられるものだと思うのです。
だからといって、僕が20代半ばから、人に誇れるような“与える喜び”を味わえるような生き方をしてきたかといえば、決してそうではなかったのです。
むしろ、潜在的に“見返り”ばかり求めていたように思います。
当時、付き合っていた女性も、そんな僕のことで、ずいぶん悩んだようです。
でも、こんなことを考えているうちに、最近では、少しは、“与える喜び”も感じられるようになったかなと思います。
僕の“詩的Blog”『カルディアの翼』でも、日に日に、僕の“ことば”に心を響かせてくれる人が増えてきています。
もちろん、作品を編む者として、これほど嬉しいことはないですが、「さあ、オレの作品に感動しろ!」なんていう気持ちは、全然ないですね。
「ぼくの綴る“ことば”から、何か、得られるものがあれば、それでいい」と思っていたら、“感動”してくれる人が続出しています。
「欲しい」 「欲しい」と思ううちは
決して 得ることができない
むしろ 自分として
せいいっぱいの心を こめていたら
いつの間にか 得ていた
それも 予想を はるかに超えた量を!
・・・で、もし今、“聖子ちゃん”のようなかわいい女性に、冒頭の歌詞のように歌われたら、どういう風に対応するかを考えてみました。
たぶん、こう言うでしょう。
「じゃあ、今夜は、僕が側にいてあげる」
そして、夜を過ごしながら、心をほぐしてあげて、暖かい明日を歩んでいけるように支えてあげることでしょう。
このメッセージが、「愛が欲しくて、欲しくて、たまらん!」人にとって、何らかの参考になれば嬉しいです。
ここのところ、時間的にも余裕があり、皆さんのところにも訪問しやすかったのですが、そろそろ、本格的に、“今後の展開”に取り掛かることになりました。
でも、これまでお付き合いくださった皆さんとの交流は、今後も大切にしていきたいので、できるだけ訪問をしていく予定です。
しかし、時間的に厳しいときは、ここにコメント下さった方のところへの訪問が優先となると思います。
申し訳ございませんが、ご理解いただきたいと願います。