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古俳諧・発句鑑賞(その一)

2004-10-17 18:12:13 | 古俳諧鑑賞
古俳諧・発句鑑賞(その一)

○ 手をついて歌申上ぐる蛙(かわず)かな

俳諧の始祖といわれている山崎宗鑑の句である。宗鑑の生没年は未詳。没年は天文八年(一五三九)
・九年の頃と推察されている。連歌の時代の人で、その編著の『犬筑波集』が、連歌から俳諧への撰集の緒とされている。古今集の「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」の「もじり」の句であるが、「両手をついて、和歌を詠んでいる蛙」と、雅の世界の「和歌・連歌」の世界を揶揄してもいるようで、この、揶揄・滑稽・ユーモラスこそ、俳諧(連句・俳句・川柳)の原型なのであろう。

○ 落花枝に帰ると見れば胡蝶かな

 山崎宗鑑とともに俳諧開祖の一人とされる守武の句である。守武は文明四年(一四七三)の生まれ。天文一八年(一五四九)の没。史上初めての千句俳諧『守武千句』で名高い。掲出の句意は「落花が枝に帰ると思ったら、落花ではなく胡蝶であった」という、実に、「他愛のない意味明瞭の句」である。この句には、謡曲「八島」の「落花枝にかへらず」の「もじり」であって、当時の初期俳諧の特徴の「機知的な言葉遊び」の句ということになろう。そして、実は、このニ十世紀のモダニストの英国の詩人・エヅラ=パウンドが、この句を取り上げていて、この句には重置法(スーパーポジション)の構造があるとされているのである。重置法というのは定かではないが、俳諧・俳句における「取り合わせ」と類似点があるようである。「落花に胡蝶のイメージを重ね合わせている」ということ、そして、この一見「他愛もないイメージの重層」がエヅラ=パウンドの注目を引いたということ・・・、このことは、俳諧(連句・俳句・川柳)に携わる者にとっては、やはり見逃してはならない点であろう。

○ しを(お)るるは何か杏子(あんず)の花の色

貞門派の総帥・貞徳の句である。貞徳は元亀二(1751)~承応二(1653)。この句のキィーポイントは「杏子」と「案ず」の『縁語(言い掛け)』と杏子の花の萎れた風情の人にたとえているを『擬人法』にある。この『擬人法』は今に盛んに使われている俳句技法の一つ。そして、この『縁語』は古俳諧(古い連句・俳句・川柳)を解する上では必須のキィーポイントである。そして、この『縁語』は『比喩』(直喩と暗喩)に連なり、今に盛んに使われている俳句技法の一つでもある。これら
の『擬人法』や『比喩』は俳諧誕生と共に大事にされていたもので、意識・無意識を問わず、作句上・鑑賞上、重要なキィーポイントであることは今に何ら変わることはない。


○ 生魚(なまうお)の切目の塩や秋の風

松江重頼(しげより)、後号は維舟(いしゅう)。慶長七年(1602)~延宝八年(1860)。『毛吹草(けふきぐさ)』の編著者としても知られている。掲出句の「切目の塩」は「傷口に塩」のことで、「悪いことが重なって起こることのたとえ」などに使われる。この句の意味は、「秋の風は生魚の切り目の塩のように、身にひりひりしみて痛いほどだ」ということになる。そして、この「切り目の塩が『しみる』」と「秋の風が『しみる』」との『しみる』が縁語になっていて、更に、この『しみる』が「ヌケ」・「ヌキ」となっていて、この句の背後に隠れているのである。この「ヌケ」・「ヌキ」も、俳諧の最重要な技法で、次の時代の談琳時代に大流行をした。この句の中心の「ヌキ」・「ヌケ」の背後には、『新古今集』の「秋風は身にしむばかり吹きにけり今やうつらむ妹(いも)がさごろも」が隠されており、古俳諧というのは、一見写生的な句でも、この句のように様々な仕掛けがあるということを知るべきである。そして、この「ヌキ」・「ヌケ」の技法は、今に、「俳句は省略の文学である」というようなことと結び付いているのであろう。

○ 菜の花や一本(ひともと)咲きし松のもと

 西山宗因というと「談琳派」の創始者として、和歌優美の世界を型破りの卑属の世界へと急降下させた張本人として名高い。慶長一〇六(一六〇五)から天和二(一六八二)。「ながむとて花にもいたし頚(くび)の骨」の宗因の句は、西行の「眺むとて花にもいたくなれぬればちる別れこ
そ悲しかりけれ」(『新古今集』)の「いたく」を「痛たし頚の骨」と完全に茶化しているのである。しかし、その宗因にも、その晩年にはこの「菜の花」の句のように、蕪村の「菜の花」の句の前提となるような、絵画的・写生的な句をものにしているのである。「貞門俳諧」、そして、「談琳俳諧」の次が「芭蕉の時代」なのである。

○ 枯野哉つばなの時の女櫛(おんなぐし)

浮世草子作者兼談林俳諧の難波の巨匠・井原西鶴の句である。西鶴、寛永十九(1642)~元禄ニ(1693)年。この西鶴も芭蕉も、その三十代に、宗因流の談林俳諧の洗礼を受け、後に、芭蕉はその俳諧から自己の俳諧を確立したのに比して、西鶴は「好色一代男」など浮世草子(小説)の世界を不動のものにしたが、そ俳諧の世界においては、洗礼当時の談林俳諧に終始した。掲出の句は、西鶴の晩年の句で、潁原退蔵さんは、「彼(西鶴)も五十近いころからは、だんだんこうした句境の味もわかって来たようである」としているが、西鶴を評して、「西鶴は連句の方ではすぐれた手腕を持っていたのであるが、発句にはどうも出色のものがない」としている。この掲出句なども、「枯野」の句というよりも、「つばな(茅花摘)の時の女櫛」の、浮世草子の色彩が濃厚の人事句という感じである。そして、この人事句は、「連句」の「発句・脇句・第三・挙句」以外の「平句」に顕著に展開されるところのものであり、その典型的なものが、「恋の句」ということになる。この句も前後の句との関連では、その「平句」の「恋の句」とも理解できるのではなかろうか。それにしても、「芭蕉・西鶴・近松」と、彼等の活躍した元禄年間というのは、江戸時代の最も高揚した時代といえるのであろう。

○ 面白さ急には見えぬすすき哉

上島鬼貫(おにつら)の句。鬼貫、寛永元(1661)~元文三(1738)。鬼貫とは、いかめしいし号であるが、「鬼の貫之」の意味で、「和歌の貫之」に対する「俳諧(鬼(醜))の貫之」というのが、この号に込められた意味らしい。この鬼貫も芭蕉と同様に、談林俳諧の洗礼を受け、後に、その俳書『独言(ひとりごと)』で、「やや五とせを経て貞享二年の春まことの外に俳諧なし」と、その作句の姿勢を「誠(まこと)」に置く、一時の「伊丹風」(談林風の平俗な作風)から、芭蕉と同じくの「禅」の思想下の「まことの俳諧」という境地を切り拓いた。掲出句は、『俳諧むなくるま』で、「故翁(鬼貫)一派出世之妙句」と、芭蕉開眼の一句の「古池吟」に対して、鬼貫開眼の一句とされている。この句は、世上評判の一句で、「芭蕉がこの句に接して、新古の眼をひらいた」ともいわれている。しかし、この掲出句について、潁原退蔵さんは、「いかにも成程と感心されそうな句であるが、それだけ一種の観念に堕して、いわゆる雅趣の味わうべき点がない」と評している。確かに、貞門・談林俳諧とは一味違った、「真摯淡白・率直で平易な独特の俳風」といえるかも知れないが、「雅趣に欠けている」という指摘は素直に受容することができそうである。しかし、この鬼貫の「誠の俳諧」が芭蕉の一時期の「幽玄な俳諧」と結びついているということは、何となくうなづけるような気がするのである。もう、鬼貫の時代は芭蕉の時代とクロスする時代なのである。

○ 道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり (芭蕉)
○ 煮売屋の柱は馬にくはれけり (柳多留・初扁)

いよいよ松尾芭蕉の登場である。芭蕉、寛永二一(1644)~元禄七(1694)年。芭蕉の俳風は様々に変遷した。まず、談林派の洗礼を受け、江戸に下り、漢詩文の難解俳句の新風の樹立。そして、『野ざらし紀行』の旅で、蕉風俳諧の萌芽を見せ、そして、元禄二年の『おくのほそ道』で、「不易流行」の蕉風俳諧の確立。上方に滞在して、俳諧の頂点の『猿蓑』の作風へと変遷。その後、江戸に帰り、『炭俵』調の「軽み」への試行。そして、元禄七年、西上の旅に出て、大阪で客死。まさに、一代の放浪の詩人であった。掲出句は、その初期の『野ざらし紀行』での一句。その紀行では「馬上吟」との前書きを付与している。この句については、「槿花ノ一日モ自ラ栄ヲ為ス」(白楽天)のパロディ化、「出る杭は打たれる」の寓意説、そして、「眼前嘱目」の写生句との三説に、その句意が分かれるが、現在では、、「眼前嘱目」の写生句ということで落ち着いている。潁原退蔵さんは、鬼貫の「庭前に白く咲いたる椿哉」の句と比して、「この句はさすがに禅理を説き示そうなどという嫌味はまったくなく、ただ、眼前の即景を淡々と描き去っている。箇中の妙味はそこにある」と評している。しかし、鬼貫の「椿」の句とこの芭蕉の「木槿」の句は、兄弟句のような感じで、いかに、芭蕉が前書きを付与しょうが、やはり、鬼貫と同じような、一種の禅味のようなものが伝わってくる。そして、後に、川柳の世界では、その芭蕉俳諧の禅味を風刺して、「煮売屋の柱は馬にくはれけり」との、この句のパロディ化が登場するのである。いずれにしろ、この芭蕉の掲出句は、芭蕉を語る以上、避けては通れない一つのキィーを示すもののと理解したい。

○ 夕立や田を見めぐりの神ならば         其角
○ 三めぐりの雨は豊かの折句(おりく)なり   『柳多留』 

榎本其角、寛文元(1661)~宝永四(1707)。榎本は母方の姓であるが、後に、宝井と改める。この句には「牛島三囲(みめぐり)の神前にて雨乞(あまごい)するものにかはりて」との前書きがあり、その句の後に、「翌日雨降る」と記されている。其角は芭蕉の数ある門弟の最右翼で、芭蕉没時には一門を代表して、その追悼集『枯尾花』を編んだ。芭蕉の閑寂な作風とは対照的で、華美洒落風の作風で、芭蕉没後は、潁原退蔵さんの指摘では、「邪道に走り、その末流ははなはだしい卑俗に陥った」とされている。即ち、江戸座の創始者である。この句の意味は、「夕立が降らず困っているが、田を見て巡るという名の神様ならば、きっと夕立を降らしてくれるだろう」と、牛島の「三囲神社」で「雨乞い」をしたのである。「三囲(みめぐり)」と「見めぐり」の掛詞(かけことば)、そして、何よりも、「(ゆ)うだちや (た)をみめぐりの (か)みならば」の「(ゆたか)・豊か」の「折句」となっていて、「雨乞い」の定石は「折句」でするとの配慮もしているのである。ここのところに着眼して、掲出のような川柳まで誕生しているのである。この其角の句は、俳句なのであろうか。潁原退蔵さんは、「この句が名高いのは、・・・・、決して芸術的価値が高いからではない。むしろ、其角が自選の集中にわざわざこの句を採録したことは彼(其角)のために惜しむ」と酷評している。潁原退蔵さんの指摘を是としたい。しかし、こういう句がもてはやされ、こういう句の流れが、蕪村誕生まで続くのである。

○ 元旦や晴れて雀のものがたり

服部嵐雪(らんせつ)、承応三(一六五四)~宝永四(一七〇七)年。芭蕉よりも十歳年下、其角より七歳年上である。芭蕉から「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪有」と詞書して、「両の手に桃と桜
や草の餅」(『桃の実』)と、其角とともに江戸蕉門の双璧であった。芭蕉没後、其角が江戸座を創設し、その後の俳壇を永くリードしたと同様に、嵐雪門にも、雪門と称して、その二世の吏登、その三世の蓼太と、その影響は永く続いた。その俳風は、其角の華美・洒落風に比して、渋味・閑寂風で、芭蕉の『猿蓑』調の閑寂性に終始した。掲出の句は、「一夜明けると世は春、空はうらう
らと晴れわたって、軒端に囀る雀の声まで晴れやかである」というのである。この嵐雪の繊細性・自然観照の静的性は、晩年の禅への傾倒とともに、難渋な主観主義的傾向を見せるのであった。芭蕉は、晩年に、その歩を止めることなく、『猿蓑』の古典的閑寂性から、『炭俵』の市井的軽みの世界へと向かうのであるが、其角も、そして、最も、蕉風的なこの嵐雪も、芭蕉と距離を置くよ
うになるのである。

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