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丈草の「鷹」の句

2004-12-21 20:04:13 | 古俳諧鑑賞
丈草の「鷹」の句

○ 鷹の目の枯野にすわるあらしかな

季語は「鷹」と「枯野」で冬の句。この鷹は鷹狩と密接不可分で、万葉の時代からよく題材とされるものの一つである。枯野は芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の絶吟以来、蕉門の最も神聖な季語ともいえるものであろう。
内藤丈草は、その蕉門にあって、芭蕉に最も心酔した俳人の一人で、芭蕉もまた己に心酔している丈草に好感以上のものを抱き、晩年の芭蕉の身辺に常にこの丈草をはべらせていたという(「幻の庵」。
芭蕉の死の病床にあって、丈草の「うづくまる薬の下(もと)の寒さ哉」の句を称して、
「丈草出来たり」と褒め称えたということは、これまたよく知られているところである(「枯尾花」)。
芭蕉が亡くなった元禄七年(一六九四)、丈草は三十三歳であり、その丈草の一番盛んであったのは、その三年前の元禄四年(一六九一)の、蕉門の最高句集とされている『猿蓑』に発句、十二句が収録され、そして、その跋文を担当した頃であろう。
 芭蕉の死後は、義仲寺無名庵において三年の喪に服するとともに、芭蕉追悼の余生として隠遁の姿勢を貫きながら、宝永元年(一七〇四)に、その四十三歳の生涯を、芭蕉の墓のある義仲寺に遠からぬ仏幻庵で閉じた。
その丈草の俳風は、その丈草の親しい友であった、去来が、その『旅寝論』の「序」で、「我蕉門に年ひさしきゆへに虚名高しといへ共、句におゐ(い)て其のしづかなる(静かなる)事丈草に及ばず、其のはなやかなる事其角に及ばず」の「其角の華やかな句風の正反対の静かなる句風」という評が、最も的を得たものといえるであろう。
芭蕉の死後、俳諧の流れは、其角流の「華美・洒脱・奇抜・伊達風」の江戸座風の俳諧が主流となり、丈草流の「静謐・閑寂・侘び・寂び」の「静かなる」句風は亜流と化していくのである。
 その丈草の句風の典型たる句は「淋しさの底ぬけて降るみぞれかな」があげられるであろう。この「みぞれ」こそ、丈草の「静かなる」句風の象徴でもあろう。掲出句の「鷹」の句は、「鷹の目」・「枯野」・「あらし(嵐)」の激越した三者の見事な構成による凄絶な叙景句ということになろう。そして、こういう、人工的な、構成的な、組み合せによる叙景句を得意としたのが、去来と共に、『猿蓑』を撰した野沢凡兆であった。
 その凡兆の「鷲」の句に、「鷲の巣の樟(くす)の枯枝(かれえ)に日は入りぬ」という句がある。この凡兆の構成的な巧みな舞台装置のようなイメージの句に、掲出の丈草の句は極めて近い。そして、丈草も凡兆も、芭蕉が一時代を画した、『猿蓑』時代の双璧にも比すられるものであった。そして、この凡兆は、この『猿蓑』を撰した後、芭蕉と袂を分かち、そして、この丈草は、終生、芭蕉の『猿蓑』時代の句作りに終始し、そして、その生涯は、芭蕉に殉じたといっても過言でもなかろう。
 この丈草と凡兆を高く評価したのが、芥川龍之介であった。そして、龍之介は、芭蕉の門弟中、最も優れた俳人として、この丈草をあげている。その龍之介に認められた堀辰雄は、その丈草の句ではなく、この凡兆の鷲の句を取り上げ、浅間山の麓の追分辺りの冬の光景の一場面として取り上げている。とすれば、この丈草の句も、その凡兆の句と同じように、その浅間山の麓の冬の情景としてイメージ化することも可能であろう。


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