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茅舎追想その二十二~その二十三の一

2010-08-05 11:49:30 | 川端茅舎周辺
(茅舎追想その二十二)茅舎・麦南・彦太郎そして岸田劉生

 川端茅舎と西島麦南は青春時代を一緒にした無二の親友である。この二人にもう一人、原田彦太郎(彦・巨鼻人)が加わる。麦南が郷里熊本より上京したのは、大正五年(一九一六)のことで、茅舎の生家の近所に止宿したことから始まる。その交遊の始まりは既に茅舎と親しかった原田彦太郎を介してのことらしい。
 この三人は共に画業を志していて、岸田劉生に傾倒していた。さらに、この三人は共に俳句を作り、白樺派の文学に熱中し、武者小路実篤の「新しき村」の運動に共鳴しているなど、同好三人組という感じである。
 茅舎が亡くなった昭和十六年(一九四一)当時は、彦太郎は巴里に居て、茅舎も身体が癒えれば、彦太郎と同じように巴里に行って画業を続けたいというゆう夢を抱いていたという。

○ 朴の花猶青雲の志     茅舎

 この茅舎の句は、茅舎が亡くなる年の「ホトトギス」(六月号)に掲載された句である。
この句について、高野素十は「猶といふ字がまことに淋しい」と書いているという(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
 茅舎と麦南との交遊関係については、麦南の「信(のぶ)ちやん時代」(「俳句研究・・・茅舎追悼」昭和十六・九)に詳しい。そこに「巨鼻人」(原田彦太郎)のことについても触れられている。
 この茅舎と彦太郎について、今に、「劉生日記」でその名を見ることが出来る。

http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/study/study04/study4ryusei/study4ryusei2.htm

[*56 日記、一九二二年四月二十五日 『繪日記』1-pp.159/160劉生は川端信一、原田彦太郎とともにこの日はじめて美術倶楽部に行っている。これ以外にも、牧溪・馬麟・梅行恩・徽宗・呂紀・石濤をみたことが日記からわかる。]

 この川端信一とは、茅舎の本名である。この一九二二年(大正十一・茅舎二十五歳)の年譜(『川端茅舎(石原八束著)』)は次のとおりである。

[岸田劉生は梅原龍三郎の勧誘により春陽会の設立に参加。七月号「ホトトギス」に「薫風や畳替へたる詩仙堂」の一句が入選。秋の第九回草土社展に原田彦太郎とともに出品。「中川風景」他一点が予選を通過せるも落選。但しこの時の展覧に限り、これら予選通過作はみな一様に展覧され、入選同様にあつかわれた。この「中川風景」は、この年の暮に日向より戻った西島麦南に寄贈され、のち麦南より山本健吉の元に移ったが、戦災で焼失した。また草土社展はこれを最後に解散となった。この展覧期間中の十一月三日兄龍子ははじめて岸田劉生に会う。]

 大正十一年(一九二二)、茅舎の異母兄の龍子は三十七歳で、話題作「角突之巻(つのづきのまき)」を第九回院展に出品し、日本画壇の中堅作家として将来が嘱望されていた。劉生は、龍子より六歳下で、三十一歳。これまた、日本の洋画壇の若手の著名作家で、その年譜は、次のとおりである。

http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/manabugaku1479/comment/20090322/1237688214

[岸田劉生は、明治二十四年(一八九一)、明治の先覚者、岸田吟香の子として東京銀座に生まれる。弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。
明治四十一年(一九〇八)、東京の赤坂溜池の白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に師事。
明治四十四年(一九一一)『白樺』主催の美術展でバーナード・リーチの知遇を得、その後柳宗悦・武者小路実篤ら白樺派の文化人と交流。

大正四年(一九一五)から大正十一年(一九二二)まで草土社の展覧会に出品する。草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政らであった。第二回草土社展に出品された『切通しの写生(道路と土手と塀)』は岸田劉生の代表作の一つである。

大正六年(一九一七)、結核を疑われ、友人武者小路実篤が所有する神奈川県藤沢町鵠沼(くげぬま)の貸別荘に転地療養の目的で居住。

大正七年(一九一八)頃から娘の麗子(大正三年生まれ)の肖像を描くようになる。

大正九年(一九二〇)、三十歳になったことを期に日記をつけはじめ、没後刊行された。中川一政は岸田劉生を慕って鵠沼の岸田家に入り浸っていた。

大正十二年(一九二三)、関東大震災で自宅が倒壊し、京都に転居、後に鎌倉に移る。この鵠沼時代がいわば岸田劉生の最盛期であった。劉生の京都移住に伴い、草土社は自然解散となった。劉生を含めメンバーの多くは春陽会に活動の場を移した。

昭和四年(一九二九)、中国から帰国し滞在していた山口県徳山市(現・周南市)で尿毒症のため他界。三十八歳の夭折であった。]

 この劉生の年譜でも分かるとおり、麦南や茅舎が希求した「新しき村」の創始者の武者小路実篤と劉生とは親しい知己の関係で、実篤→劉生→麦南→茅舎→彦太郎というのは、一線で結ばれる関係にあるということが了知される。そして、ここに、茅舎の異母兄の龍子を加えると、まさに、大正から昭和の夜明けの時期の、日本の新しい息吹というものがひしひしと感じられるという雰囲気でなくもない。

○ 師ゐますごとき秋風砂丘ゆく    茅舎

 この句は、茅舎の亡くなる一年前の昭和十五年の作。この年の九月、茅舎は新潟大学医学部教授であった高野素十を訪れる。この時のことを素十は、「新潟の茅舎」(「ホトトギス・・・茅舎追悼」昭和十六・九)に記している。それによると、茅舎は、「日本画のこと、墨のこと紙のことなども話し、自分ももう一度体力を恢復して立派な画を描きたい」と素十夫人に語ったという。
 この句の師は、劉生その人であろう。茅舎には、俳句の上での高浜虚子や思想上の武者小路実篤などの師と仰ぐ方もおられるが、身近に常時師と仰いだ方は劉生であり、その劉生は、茅舎が三十二歳のときに、三十八歳の若さで満州旅行の帰途山口県徳山で急死してしまった。
 茅舎は、新潟の日本海に接して、満州旅行の帰途中に亡くなった師の劉生を偲びつつ、「もう一度体力を恢復して、青雲の志の画壇の道へ邁進したい・・・、友の一人の原田彦太郎のいる巴里に行きたい」と、そんなことが、この句の背景であろう。茅舎が亡くなったときに、茅舎は、この洋行のための貯金をもしていたという(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。

○ 我が魂のごとく朴咲き病よし
○ 天が下朴の花咲く下に臥す
○ 朴の花白き心印青天に
○ 朴の花猶青雲の志
○ 父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり
○ 朴の花眺めて名菓淡雪あり
○ 朴散華即ちしれぬ行方かな

 茅舎の「朴の花」の絶唱である。


(茅舎追想その二十三の一)茅舎と母・妹そして倉田百三・艶子

茅舎の年譜(『川端茅舎(石原八束著)』)の「昭和三年(一九二八)三十一歳」の記事は次のとおりである。

[二月二十二日、午後六時半、慈母ゆき、心臓病のため日本橋青物町「日本橋病院」にて逝く。享年六十二歳。茅舎の実妹樫野晴子は隣家の喜多みつの知らせによって駆けつけたが死に目に会えなかった。
四月、国展に「諸果」「菜根」二点を出品。同月、大森区桐里町二七三番地に兄龍子の建てたのちの「青露庵」に父寿山堂と共に移り、異母姉の世話を受けることとなる。
七月二十三日、妹晴子の長男寧栄生後四月目にて急逝。この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。大森馬込の倉田家をしばしば訪問。倉田家の近所に詩人萩原朔太郎家があった。尚、艶子(小西)は、昭和五十二年現在、広島県庄原市にて健在である。「雲母」十月号より再び投句。翌四年春まで約二十句発表さる。後半は併し「俵屋春光」の名を用う。]

○ 骨壺をいだいて春の天が下(「ホトトギス(昭和三・五)」。「母を失ふ」の前書あり)
○ 梅咲いて母の初七日いい天気(「ホトトギス(昭和三・五)」)
○ 陰膳にこたへし露の身そらかな(「雲母(昭和三・十)」。「旅より母上に捧ぐ」の前書あり)
○ 春宵や旅立つ母にこれの杖(「雲母(昭和四・四)」。「笈摺めされて三途の川の渡し銭少しばかり」の前書あり)

茅舎の当時の母への追悼句である。「雲母」への投句は、無二の親友の西島麦南が、九州日向の「新しき村」から再び帰って来て、「雲母」に再投句したことなどに因るものであろう。その「雲母」への投句の「俵屋」は、父・寿山堂の和歌山の実家の屋号である。「春光」は、当時「春陽会」などに連続入選していてその画業が順調だったことに因るのであろうか?
上記の母への追悼句も、「春の天の下」「梅咲いて・いい天気」などと「春光」との関連性もある雰囲気である。当時は、「俳句は画を描きながら頭を転換するためにやった」(「俳句研究(昭和十五・十)」)と、絵画が主で、俳句は従の生活であった。

○ 気がつきし籬(まがき)の外の初霞(「ホトトギス(昭和六・六)」。「晴子さん来て」の前書あり)

前書の「晴子さん」は茅舎の実妹である。日本橋蠣殻町生まれ、二歳のときに近所の米屋に養女に行って、表向きは兄妹ではなかったが、茅舎父子が大森の青露庵に移るまでは近所に育ち、そこで婿を迎え、この実母が亡くなったとき、「隣家の喜多みつの知らせによって駆けつけたが死に目に会えなかった」。そして、「七月二十三日、妹晴子の長男寧栄生後四月目にて急逝」と長男を亡くし、自分も、昭和五年(一九三〇)に急逝している。その茅舎の実妹の前書のある一句である。父・寿山堂は昭和八年(一九三三)に、七十九歳で亡くなり、茅舎が逝去したのは、昭和十六年(一九四一)、茅舎の逝去をもって、茅舎の実父母の血族は絶えたことになる。この茅舎の妹さんに関しては、西島麦南の「信ちやん時代」(「俳句研究・・・茅舎追悼(昭和十六・九)」)に、そのエビソードが記されている。

 続く年譜の「この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。大森馬込の倉田家をしばしば訪問。倉田家の近所に詩人萩原朔太郎家があった。尚、艶子(小西)は、昭和五十二年現在、広島県庄原市にて健在である」は、茅舎の倉田百三の妹との恋愛のことで、それは茅舎の失恋に終わるという件である。しかし、この詳細は不明といってよかろう。茅舎には、これらの失恋に関する句は見られない。ただ、茅舎の異母兄の龍子宅(御形荘)と倉田百三宅は近くで、茅舎が龍子宅へ寄ったときは、「倉田家をしばしば訪問」ということは、これは地理的には当然に肯けるものであろう。また、倉田百三は武者小路実篤らの「白樺派」とは密接な関係にあり、茅舎らとは思想的・宗教的に極めて近い関係にあり、茅舎がしばしば倉田百三宅へ行き来したということは、こと、その妹との恋愛関係とは別にして、これまた当然のこととして肯けるものであろう。

 ここで、茅舎の失恋の相手とされている倉田艶子の、「『出家とその弟子』ができるまで」の全文を掲載して置きたい。


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